たたかい〔たたかひ〕【戦い/闘い】
戦い
戦い
戦い
戦い―マナの物語
戦闘
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紀元前342年、孫臏は魏の領内に侵攻した斉軍に撤退を命じた。退却に際し、初日は露営地に十万人分の竈を作らせ、翌日は五万人分の竈を、その次の日は二万人分の竈を作るように命じた。斉軍を追撃する魏軍を指揮する龐涓は、竈の数が減っているとの報告を受け「戦意の低い斉軍は、脱走兵が続出しているのだろう」と考えた。そこで龐涓は一刻も早く斉軍を捕捉して撃破しようと考え、歩兵部隊を残して騎兵隊のみを率い、昼夜兼行で急行した。 孫臏は魏軍の進行速度から、夕方ごろに狭隘な馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地に至るだろうと予測した。そこで馬陵の街道脇の大樹の木肌を削り、白木に墨で「龐涓この樹下に死す」と大書し、周囲に弩を持たせた一万の兵を伏せた。伏兵には、夕闇の中で火がともるのが見えたら、その火めがけて一斉に箭を放つように命令した。果たして魏軍は日没後に馬陵に到達し、指揮官の龐涓は道端の大木になにやら字が記されているのを見つけたが、すでにあたりは暗くてよく見えない。そこで松明を持ってこさせ、火をつけて字を読もうとした瞬間、周りから一斉に矢が飛んできた。龐涓は満身に無数の矢を受け「遂に豎子の名を成せり(あの小僧に、名を挙げさせてしまったか)」と叫んで絶命した。将を討たれた魏軍は混乱に陥って大敗し、太子申(中国語版)は捕虜となった。
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ミトリダテス軍はビテュニアへと進軍し、その先行していたアルケラオス、ネオプトレモス、アルカティアスらの率いる騎兵部隊(歩兵部隊はまだ到着してなかった)はアムニアス川近くの平野でビテュニア軍と出会った。 アルケラオスは数において勝っている敵に包囲されるのを恐れて平野の丘を占領するために小部隊を送り、同時にアルカティアスに救援を求めた。敵の動きを知ったニコメデスは同様に部隊を繰り出し、激戦の末に敵を敗走させた。そこでアルケラオスは敵の右に回り込んで攻撃しつつゆっくり後退し、ネオプトレモスの部隊が集まってくるための時間を稼いだ。味方が十分に集まると、アルケラオスは反撃に転じた。彼は鎌付戦車を敵に突っ込ませて敵を混乱に落としいれ、アルケラオスは正面から、ネオプトレモスとアルカティアスは敵の背後に回りこんで攻撃した。激戦の末、ニコメデス軍は敗走した(ポントス軍の歩兵はいまだ到着せず)。多額の金が残された陣営が鹵獲され、多くのビテュニア軍を捕虜になった。戦いが終わった後、ミトリダテスは帰路において必要な物資を与えて捕虜たちを解放してやった。
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「マンティネイアの戦い (紀元前207年)」の記事における「戦い」の解説
スパルタ軍の戦列はアカイア同盟軍より短かったため、(恐らく包囲されるのを恐れた)マカニダスは右翼を伸ばして同じ長さにし、石弓隊を全戦列の前に出した。これに対し、フィロポイメンは敵の意図は石弓の正射によって自軍を混乱に陥れることだと考え、それをさせじとタラス人騎兵に即座の攻撃を命じた。マカニダスもまた配下のタラス人騎兵にそれに応戦させた。次いで双方傭兵部隊を繰り出し、マカニダスの傭兵部隊がその数と訓練の積み重ねのために優勢に立った。さらに勢いに乗ったマカニダス軍は敵のイリュリア兵、胸当て兵を7スタディオン(1.26キロメートル)敗走させた、敗走する敵の左翼(イリュリア兵、胸当て兵、軽装歩兵)を配下の軽装歩兵を率いて追撃した。 その間、戦場に残ったアカイア軍はがら空きになった左翼に部隊の一部を移動させて補った。一方、右翼の優勢を知ったスパルタ軍のファランクスはサリッサを投げ出してアカイア軍に突進したが、彼らはそのままアカイア軍の掘った塹壕に入り込んでしまい、アカイア軍の上からの攻撃を受けて敗走した。 一方、敵の追撃をしていたマカニダスはマンティネイア市近くの塹壕に道を阻まれ、その上戦場に残っていた他のスパルタ軍を破ったフィロポイメンによってマカニダスは退路を立たれ、一騎討ちでフィロポイメン自らの手で討ち取られた。 アカイア同盟の戦死者数は不明であるが、この戦いでスパルタ軍は4000人の戦死者を出した。
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ローマ船団は、輸送船団とそれを守る形で3つの戦隊で構成された陣形をとりながら、シチリアの南海岸に沿って航行していた(図参照)。主力の第1戦隊と第2戦隊は、前方くさび状に隊列し、それぞれの戦隊を執政官のウルソ・ロングスとレグルス・アンティリウスが指揮していた。その後方に輸送船団が続き、さらに第3戦隊が後方からの攻撃に備えていた。 対するカルタゴ側の船団は横一線弓状に並んだ陣形をとり、司令官のハミルカはその中央で指揮し、大ハンノは右翼を担当していた。カルタゴ側が戦いの場として想定していた、シチリアの南海岸にあるエクノモス岬で両船団は遭遇した。 両船団が遭遇したと同時に、前方のローマの主力2戦隊が、カルタゴの隊列中央へと突進していった。対してカルタゴの司令官ハミルカルは、第一攻撃目標であったローマの輸送船と主力2戦隊とを引き離すために、わざと後退を始めた。そして横一線弓状に長く展開していたカルタゴ船団の両翼は、ローマ船団の後方に回り込み、左翼が輸送船団に、大ハンノが指揮する右翼が第3戦隊に攻撃を開始した。カルタゴの攻撃は、カラス装置が機能しないよう側面から行われた。この後方の戦況はカルタゴ優位に進み、輸送船団は次第にシチリアの海岸側へと押し込まれていった。 しかし肝心のカルタゴの中央が、ローマ主力の激しい攻撃に耐え切れず敗走し、海戦域から離脱していった。ローマ主力2戦隊はそれを追撃せず、反転して後方の戦況に参加した。執政官ウルソ・ロングス指揮の第1戦隊が、輸送船団を攻撃していたカルタゴの戦隊を左側面から攻撃し、執政官アンティリウス・レグルスが指揮する第2戦隊が、第3戦隊と共に大ハンノが指揮する戦隊に対して攻撃を開始した。 ローマの主力2戦隊が後方の戦いに加わったことにより、残りのカルタゴ船団は包囲され壊滅した。この戦いにより、ローマはカルタゴの軍船の約半分を拿捕あるいは沈没させた。
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数では勝っていたが海戦のための装備をしていなかったペロポネソス艦隊は防御のために船首を外側にした円陣を組み、その中に軽船と5隻の三段櫂船を入れ、どの部分が攻撃されても駆けつけられるようにした。 一方、アテナイ艦隊はその周りを回りながら軽い攻撃を加えるだけにとどめた。このあたりはいつも明け方には湾内から風が吹き出すことを知っていたフォルミオンはその風が吹けば敵は隊列を崩し、ぶつかり合うだろうと予測し、それまでは攻撃をしないよう部下に命じた上で風を待った。状況は彼の予想通りに展開した。風にあおられ、混乱に陥ったペロポネソス艦隊ではその騒ぎによって命令の声が聞こえないほどになった。乗組員が訓練不足だったこともあり、船と船が衝突して身動きが取れなくなったペロポネソス艦隊にアテナイ艦隊は総攻撃を仕掛けた。満足に反撃も出来ないペロポネソス艦隊にできたことは戦場から逃げ去ることだけだった。彼らはパトラス、アカイアのデュメ方面に逃げたが、うち12隻が乗組員もろとも拿捕された。そしてアテナイ軍はリオン(en:Rio, Greece)岬に戦勝塚を立て、拿捕した船をポセイドン神殿に奉納した後、ナウパクトスに帰港した。一方ペロポネソス艦隊はパトラスとデュメからエソスの港キュレネへと向った。
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双方のファランクスは右へと動いた(詳しくは「ファランクス#東地中海でよく見られたファランクス」を参照)。その結果、スパルタ軍は敵の側面に回りこんでアテナイ軍を圧倒したが、スパルタの同盟軍はほとんどが敗走した。アルゴス軍が追撃から戻ってきてスパルタ軍に攻撃を仕掛けようとした時、スパルタ軍はアルゴス軍の先頭を素通りさせてその側面に攻撃をかけて破り、次いでコリントス軍、そしてテバイ軍もまた破った。連合軍が敗走した後、スパルタ軍は敵と始めに激突した場所に戻って戦勝記念碑を建てた。この戦いでスパルタとその同盟軍は1100人、連合軍は2800人の戦死者を出した。
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「マンティネイアの戦い (紀元前418年)」の記事における「戦い」の解説
アルゴスとその同盟軍が戦闘隊形を整えて来たのに対し、スパルタ軍も王の命令の下戦闘隊形を整えた。スパルタ軍の陣立ては左からスキリティス(エウロタス川とオイヌス渓谷の間の山岳地帯の住民)隊700人、トラキア遠征でブラシダス麾下にあった兵士とブラシダスの下で戦って市民に格上げされた旧ヘロットの部隊、スパルタの本隊約3500人、アルカディアのヘライア軍とマイナロス軍、そして右翼は当事者であるテゲア軍と王自らが率いる少数のスパルタ兵が占め、両翼には騎兵が配置された。一方アルゴスとその同盟軍は右からマンティネイア軍、アルゴスの同盟軍、アルゴスの精兵1000人、その他のアルゴス軍、クレオナイとオルネアイの軍、そして最左翼はアテナイ軍が占めた。トゥキュディデスはこの戦いに参加した両軍の兵力はそれぞれの国の兵力の誇張、スパルタの秘密主義のために知るのは不可能だとしているが、数ではスパルタ側が勝っていたのは少なくとも確かだと述べている。市川定春はスパルタ軍の総兵力を15000人、アルゴスとその同盟軍の総兵力を12000ないし14000人と推定している。 さて、戦いにあたってアギスは以下のような作戦を用いた。ファランクスは右へ右へと動く性質があるため(詳しくは「ファランクス#東地中海でよく見られたファランクス」を参照)、両軍が衝突するとおのずと両軍の右翼は敵の左翼の左側に回りこむだろうと彼は予想した(そして事実そうなった)。そこで彼は自軍が敵に包囲されないようにとスキリティス隊と旧ヘロット隊に戦う時には現在の位置から移動して戦列を伸ばし、マンティネイア軍と同じ長さの戦列を組むよう命じ、さらに右翼にいた部隊の隊長ヒッポノイダスとアリストクレスに各々の部隊を左翼に向わせるよう命じた。しかし、この二人の隊長は攻撃の直前に出されたこの命令に従わなかったためにアギスの作戦は破綻した。 スキリティス隊と旧ヘロット隊はマンティネイア軍に蹴散らされ、マンティネイア軍とアルゴスの精鋭部隊はスキリティス隊および旧ヘロット隊とスパルタ軍本隊との隙間に突入し、スパルタ軍本隊を側面から攻撃し、そこではスパルタ軍は劣勢に立たされた。その一方で正面ではスパルタ軍は戦いを有利に進めていた。そして、この時スパルタとテゲアの右翼はアテナイ軍をまさに側面から包囲しようとしていたが、アギスは左翼の苦戦を知ると全軍に救援に向うよう命じたため、アテナイ軍は辛くも危機を脱し、戦場から逃げ去った。一方、敵の全軍が向かってきたのを見ると、マンティネイア軍とアルゴスの精鋭部隊もまた退却に転じた。スパルタ軍は敵を深追いしなかった。 この戦いでアルゴスとその同盟国は、アルゴス、オルネアイ、クレオナイで合わせて700人、マンティネイアが200人、アテナイとアイギナで合わせて200人、計1100人を失った。また、アテナイはラケスとニコストラトスの両将を失った。対し、スパルタ側の戦死者はおよそ300人であった。
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クレオメネスの予想は的中し、アンティゴノスはセッラシアに姿を現した。アンティゴノスは敵の布陣の堅固さを悟り、ゴルギュロス川を挟んで布陣した。両軍はしばらくは小競り合いを繰り返したが、クレオメネスはエジプトのプトレマイオス3世からの財政支援が途絶えたことによる財力の枯渇のために、アンティゴノスはマケドニア本国への(この戦いに参加したのとは別の)イリュリア人の侵入のために時間に追われ始め、会戦によって速やかに勝負をつけようとした。 アンティゴノスの陣立ては以下のようであった。エウアスの敵に対して彼は青銅楯隊とイリュリア兵を配置し、その後ろにアカルナニア兵とエピロス兵、さらにその後ろにはアカイア軍の一部2000人を予備戦力として配置した。そしてオイヌス河畔に敵の騎兵に自軍の騎兵を対峙させ、その横(おそらく左側)にアカイアとメガロポリスの部隊各1000人を置いた。そして、オリュンポスのクレオメネスに対してはアンティゴノス自らが率いる部隊、傭兵隊とマケドニア軍があたった。アンティゴノスは前面に傭兵を、その後ろに32列(通常は半分の16列だが、場所が狭いため)に並べたマケドニア軍の重装歩兵からなるファランクスを配置した。 戦いの前にアンティゴノスはイリュリア人およびアカルナニア人の傭兵部隊に密かに迂回してエウクレイダスの翼を包囲するよう命じたが、高台から見下ろしたクレオメネスはそれらの部隊が敵の戦列にいないことを不審に思い、部下のダモテレスに敵の後背部および側面の偵察を命じた。しかし、アンティゴノスによって買収されていたダモテレスは、偵察をすることなくクレオメネスに何ともないと言った。 戦いが始まると、イリュリア兵は命令通りエウアス丘に突撃した。これに対して騎兵と並んで配置されていたスパルタ軍の軽装歩兵の傭兵たちは無防備なイリュリア兵の背後に回りこんで攻撃を加えようとした。この時、メガロポリス隊の士官の一人フィロポイメンは上官の隊長たちに味方に危機が迫りつつあることを説いたが、若輩だったために相手にされなかった。そこで彼は指揮下のメガロポリス兵を率いて敵に攻撃を仕掛け、敵を押し戻した。これが呼び水となってマケドニア・アカイア同盟軍のエウアス側の部隊は反撃を開始した。丘を攻め上ってくる敵を目にしたエウクレイダスは頂上付近で敵を迎え撃った。ポリュビオスは、もしエウクレイダスが丘を少し下って前進して敵を撹乱した後に再び高い位置に戻って戦列を崩した敵と戦えば、地の利を巧く活かせたであろうと言ってエウクレイダスのこの判断を批判している。現に、これとは反対の行動をとったエウクレイダスの末路も反対のものであった。後退すれば敵に上から攻撃されるであろう上、態勢を立て直す余地のない位置で敵を迎え撃ったエウクレイダス隊は敵に囲まれた後に敗走に転じ、壊滅した。 一方オリュンポスでは、クレオメネス率いるスパルタ人部隊がアンティゴノスの軍を5スタディオン(900メートル)あまり後退させ、追撃をかけていた。しかし、エウクレイダスの翼が敵に包囲されて壊滅し、エウクレイダス隊を破った敵が側面から攻撃を仕掛けようとしていたため、やむを得ずクレオメネスは撤退した。 しかし、ポリュビオスはプルタルコスの説明と異なった説明をしている。ポリュビオスによれば、オリュンポスではまず両軍の軽装歩兵と傭兵同士の戦いが起こった。エウクレイダスの敗北を知るとクレオメネスは温存していた重装歩兵部隊を投入し、双方の重装歩兵同士が戦った。両軍は一進一退の攻防を繰り広げたが、スパルタ軍はマケドニア軍の戦列の厚さに破れ、敗走した。クレオメネスは僅かな騎兵に守られながらスパルタへと落ち延びた。 この戦いでスパルタ軍は多くの傭兵、そして6000人のスパルタ人のうち5800人が戦死するという大打撃を受け、決定的な敗北となった。
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ボードゥアンは少数の兵士で敢えて自身を追わざるをえなくなると考えたサラディンはエルサレムへの行軍を続けた。サラディンはラムラ、ロードそしてアルスフを攻撃し、ボードゥアンは彼にとって危険な存在でなかったために軍に広域への分散を許して略奪をさせた。しかし、サラディンが知らないうちに王を威圧するために残していた軍は不十分になってしまい、ボードゥアンとテンプル騎士団はサラディンがエルサレムに到着する前に食い止めようと進軍した。 王率いるキリスト軍は海岸沿いにイスラム軍を追跡し、最終的にラムラ近くのジザルディ山(Mons Gisardi)で敵を捕捉した。サラディンは完全に隙を突かれた。彼の軍は無秩序で、隊列を作っておらず長い行軍で疲れていた。イスラム軍はパニックに陥りつつも敵に対して戦列を形成するために急いで集まった。しかし、それとは対照的にキリスト教軍は完全に平静だった。ボードゥアン王は兵の正面に聖遺物の真の十字架を掲げるよう命じた。少年の体を既に酷いハンセン病に蝕まれていた王は十字架を前に馬に助けられて両かかとを地面につけた。彼は神に勝利を祈り、軍からの歓声を受け立ち上がった。サラディンの軍が準備をしていると、ボードゥアンは砂上を渡って攻撃を仕掛けた。 エルサレム軍は大急ぎで隊列を作っていたイスラム軍を粉砕し、大損害を与えた。酷い傷と爛れを覆う包帯を手に巻いたまま戦った王は戦いの真っ只中に身を晒し、サラディンの軍はすぐに圧倒された。サラディン自身だけが競争用の駱駝で逃げて捕虜になるのを避けられた。 ボードゥアン王の勝利は完全なものだった。彼は侵攻軍を完全に撃滅し、サラディンの輜重を鹵獲してその甥のアフマド(タキ・アド・ディンの息子)を戦死させた。 ボードゥアンはサラディンを夜になるまで追撃してアスカロンへと戻った。10日の大雨でずぶ濡れになり、近衛兵のマムルークたちを含む軍のおよそ90%を失ったサラディンはその途上ベドウィンによる襲撃にも困らされつつ、ほうほうの体でエジプトへと逃げ帰った。彼と共にエジプトに帰ることができたのは軍のわずか10%だけだった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/06 16:01 UTC 版)
モーゼル川方面へ偵察活動を行う間、アメリカ第XX軍団の装甲騎兵部隊は1944年9月6日、ドイツ軍第17SS装甲擲弾兵師団の部隊と遭遇した。9月18日、ドイツ装甲部隊は再びアメリカ軍偵察部隊と遭遇した。アメリカ軍はこの地域にドイツ軍が存在していることを予想しておらず、広がって配置されていた部隊をまとめなければならなかった。この遭遇の後、小規模な攻撃がアメリカ軍によって行われた。 最初の攻撃がアメリカ第5歩兵師団によって行われ、メス北方に橋頭堡を確保しようとした。その後にメスへ別の攻撃が続けられたが、これはドイツ軍により撃退された。そしてもう一つの攻撃において、アメリカ軍はメス南方のモーゼル川全域で小規模な橋頭堡を確保した。 9月末までにメス北方に配置されていたドイツ軍部隊はメス南方へ再配置、いくつかの部隊もメスから撤退した。この新たな進展の後、アメリカ第XII軍団はもう一つの攻撃を開始したが、ドイツ軍防衛部隊に撃退された。この間、第XX軍団は要塞の防衛を減少させる方法を実験、訓練計画を実施した。この時までに、アメリカ軍は東からメス背後を攻撃することを決定した。 11月3日、アメリカ軍は新たな攻撃を開始、これは訓練中に開発された戦術を用いたことにより、外部の防衛部隊の捕獲で終了した。11月14日、ハインリヒ・キッテル中将が新たなドイツ軍の司令官に任命された。11月17日までに、アメリカ軍はなんとか砦の大部分の孤立化に成功、メスの攻撃を行っていた。アメリカ軍は11月18日、メス市に入場、11月21日、キッテルは負傷、その後、アメリカ軍の捕虜となった。メスがアメリカ軍によって占領されたため、戦闘は11月22日、正式に終了したが、孤立していた各砦は持ちこたえ続けた。ドイツ軍は11月17日、撤退したが、翌2日間、アメリカ軍はドイツ軍を追撃した。
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「ノルマン・コンクエスト」の記事における「戦い」の解説
ハロルドの戴冠後の4月末から5月初頭にかけて、まずトスティが反旗を翻した。彼はイングランド南部を荒らした後、スコットランドに移り、ハーラル3世と組んで再び攻勢をしかけた。一方、ギヨーム2世は配下のノルマン公国諸侯のみならず、フランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募って軍勢を作り、ドーバー海峡を渡って9月22日にイングランド南部イースト・サセックスのペヴァンゼイに上陸、侵攻を開始した。ハロルドは北方と南方から挟まれる形になった。 9月25日、まず北方のトスティとハーラル3世が攻勢をしかけた。ハロルドの軍は激戦の末にこれを撃破した(スタンフォード・ブリッジの戦い)が、戦力を消耗し疲弊した。ギヨーム2世は、9月末から10月にかけてイングランド南部を制圧していった。優秀な騎兵や相手の戦術ミスなどでハロルドの軍を次々と撃破し、10月19日、ヘイスティングズの戦いにおけるバトルの丘の戦いで彼を討ち取った。 ギヨーム2世はさらに南部から北東部の各地に進撃した。南部のサクソン諸侯は、ハロルドの戦死後にエドガーを擁立して抵抗したが、圧倒的な優勢の前に王位を認めざるをえなくなった。12月25日にギヨーム2世はウェストミンスター寺院で戴冠、ウィリアム1世として即位した。ここに現在に至るイギリス王室の祖が開かれた。
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「ニューバーンの戦い (南北戦争)」の記事における「戦い」の解説
3月14日の朝、戦場は深い霧に覆われた。バーンサイドは部隊に隊列を組ませ南軍の防御線に向けて前進を命じた。このとき、北軍は敵の配置について完全な情報を得ておらず、その知る限りでは前線が川からレンガ工場までしかないということだった。この知識のままでバーンサイドは第1旅団に敵の左手と交戦させ、第2旅団はレンガ工場で敵の右手に回り込むことにした。8門の榴弾砲は郡道を越えて配置された。第3旅団は予備隊とされた。陸軍はコーワン中佐指揮する砲艦からも覚束ない支援を受けた。コーワンは南軍の陣地を砲撃したが、間の森に視界を遮られていた。その砲撃は大いにノースカロライナ人を悩ませたが、不正確なものだったので、バーンサイドはコーワンに方向を変えてくれるよう求めた。 一方南軍側では、ブランチがその連隊を配置に就かせた。そのトンプソン砦にある左翼から右手のレンガ工場まで、第27、第37、第7および第35ノースカロライナ連隊が並んだ。予備隊は第33連隊だった。第35連隊の右側面はレンガ工場の窯で止まっており、大砲のための隙間になっていた。鉄道を越えた防御線は第26ノースカロライナ連隊と騎兵数個中隊が占めた。鉄道の所に出来たくの字形の場所の隙間はブランチの部隊の中でも最も弱い、2週間訓練されただけで散弾銃や狩猟用ライフル銃で武装した民兵が就いた。 南軍の右手に向かったリノ将軍は、この時も敵の防御線が鉄道を越えて延ばされたことに気付いておらず、第21マサチューセッツ連隊の一部にレンガ工場の窯に攻撃させ、他の部隊はその支援を行うよう命令した。その攻撃は最初成功したが、敵の全線から銃火を浴びていることが分かり、撤退を余儀なくされた。 バーンサイドがこの時、予備隊としていた第3旅団に、リノの第2旅団を支援するために戦線に入るよう命令した。第4ロードアイランド連隊が弾薬を使い果たしていた第21マサチューセッツ連隊と入れ替わった。その配置を入れ替わる間に、第4ロードアイランド連隊のアイザック・P・ロードマン大佐は第21マサチューセッツ連隊のウィリアム・S・クラーク中佐から、もう一度レンガ工場の窯に攻撃すれば成功すると思うと告げられた。ロードマンは伝令をパーク将軍のところに走らせて自分が責任を取ることを伝え、その連隊に隊列を組ませて突撃を命令した。この突撃は敵に関する情報でしっかりと武装していたので成功した。第4ロードアイランド連隊は9門の黄銅製野砲を捕獲し、しかも南軍塹壕線の背後に回っていることが分かった。 この時点で南軍の前線が破れた。その崩壊は経験の無い民兵達が逃げ出し、その両横の部隊側面が敵軍に曝された時に始まった。ブランチはその予備隊に隙間を埋めるよう命令したが、その部隊は間に合わなかった。前線が両翼で巻き上げられ、各連隊長は虐殺を免れるために次々と部隊を退かせた。ブランチ将軍が撤退を命令し、それは間もなく潰走に変わった。逃げるノースカロライナ兵はトレント川に架かる橋を駆け抜けてニューバーンに入り、大あわてで橋を焼いたので、対岸に残された僚友もおり、捕虜になった。しかし、北軍の艦船がまだ前方にいたので、ニューバーン市内に入っても安全ではなく、キンストンに達するまでその隊形を整えることが出来なかった。 ブランチの部隊は戦死68名、負傷116名、捕虜または不明が400名となった。バーンサイド軍は戦死90名、負傷385名であり、唯1人が捕虜になった。
※この「戦い」の解説は、「ニューバーンの戦い (南北戦争)」の解説の一部です。
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戦い
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錬度に勝り、外洋での戦いが有利なアテナイ艦隊をコリントス湾内へとおびき出そうと、ペロポネソス艦隊は夜明けと共に4列の船隊を組み、足の速い20隻を先頭にしてナウパクトスを攻撃すると見せかけてコリントス湾内へと航行した。彼らの予想は当たり、無防備のナウパクトスを攻撃されることを恐れたフォルミオンは一列になって出航し、メッセニア人の陸軍もナウパクトスからやって来た。そこでペロポネソス艦隊は突如反転してアテナイ艦隊に襲い掛かった。この突然の攻撃にアテナイ艦隊のうち11隻は逃げおおせたが、9隻は捕えられて陸に揚げられ、そのうち乗組員ごと捕えられた1隻を除いて泳いで脱出した者以外の兵士全員が殺された。しかし、救援に駆けつけたメッセニア軍によって数隻は奪い返された。 ペロポネソス艦隊右翼20隻はアテナイ艦隊11隻を追ったが、アテナイ艦隊は1隻を除いてナウパクトスに逃げ込んだ。勝利はもはやペロポネソス側の手の内にあるように見え、彼らは戦勝歌すら歌っていた。最後のアテナイ船はレウカス船によって追われていたが、その時沖合いに停泊していた商船をぐるりと一周してレウカス船の腹部に回り込んで腹部を衝角で突いて沈めた。これを見て勇気を得たアテナイ艦隊は打って出て反撃を開始した。この事件によって狼狽し、追撃で隊列が乱しており、不案内のために座礁している船すらあった敵をアテナイ艦隊は敗走させ、6隻の敵船を拿捕して敵に拿捕されていた味方の船10隻を奪い返した。また、前述のレウカス船には諮問団の一人ティモクラテスが乗っており、彼は船が沈められたのを知ると自ら命を絶った。双方が戦勝塚を立てて勝利を主張しはしたが、どちらが勝ったのかは明らかだった。ペロポネソス艦隊はコリントスへと退却し、また海戦の後にクレタから援軍のアテナイ艦隊20隻がナウパクトスに到着した。
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戦い
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「クストーツァの戦い (1848年)」の記事における「戦い」の解説
7月25日頃、ピエモンテ軍は北のリヴォリ高原から南のゴヴェルノロまで、戦場に広く分散した。元帥ラデツキーは7月23日にit:Ettore de Sonnaz将軍率いるピエモンテ第2部隊に攻撃して、ペスキエーラまで撤退させた。24日のもう1つの攻撃でミンチョ川を背に部隊が2つに分かれた。 ピエモンテ最高司令部はゆっくりと不確かに北からの知らせを受け、最終的にEusebio Bava将軍率いる第1部隊の大半で、Staffaloの村に向けて後方からオーストリア軍を攻撃することを決定した。攻撃は24日の午後に始まり、この地に展開していた一個旅団を上手く撤退させた。しかし、これでサルデーニャ司令官は自己満足の悪い感覚に落ち着かせ、ラデツキーを駆り立ててミンチョ川を越えて前進するのを止めさせ、これらの敵軍を進軍させた。 25日、ピエモンテ軍はこの地でより多くの敵軍に攻撃するように命じられ、第2部隊はミンチョ川からの攻撃を助けるように指示された(しかし、将軍は部隊が疲れ過ぎていると命令を拒否した)。しかし、攻撃的だったものが一転して敵の前進に対し必死に立ち向かうことになった。一日中、数が多かったピエモンテ軍は2つのオーストリア部隊による攻撃にさらされ、その日の終わりまでに全列が後退を余儀なくされた。しかし、撤退は整然とした方法で行われ、兵士たちは戦っていた。
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戦いの前にハンニバルは兵士たちに今日はこれまでになく激しく戦えと命じ、戦いに移った。続いた戦いでは、ローマ軍の右翼が苦戦していたので、マルケルスは一部隊に前進を命じたが、この移動のために戦っていた兵士たちは混乱し、ローマ軍は2700人の兵士を失う敗北を喫した。 翌日の戦いでは、双方の歩兵が互角に戦っていると、ハンニバルは敵の重装歩兵へと戦象を差し向け、象はローマ軍の戦列を蹴散らした。しかし、フラウィウスという名のローマ軍の隊長の一人が軍旗の竿で象を殴ると、その象は向きを変え、後ろの象とぶつかった。これを引き金としてカルタゴ軍の象たちは混乱し、マルケルスはそこへ騎兵を突撃させて敵の混乱をさらに大きくした。これによってカルタゴ軍の多くの兵士が死に、結果カルタゴ軍は8000人以上を、ローマ軍は3000人の兵士を失った。しかし、ローマ軍はそのほとんどが負傷しており、もはや事実上戦闘不能であった。このため、マルケルスは敵を追撃することができず、一方のハンニバルは悠然とカンパニア地方へと移動し、越冬した。
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戦い
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戦いはメガロポリス近郊で行われた。緒戦はスパルタ軍優位に運び、マケドニア軍を後退させた。アギスが投槍で腿を負傷して戦闘不能になったものの依然スパルタ軍は奮戦し、数で勝るマケドニア軍と渡り合った。しかし、やがて数で劣るスパルタ軍はマケドニア軍に押され始め、敗走した。アギスは部下たちに生きながらえるよう命じた上で自らは最後まで戦い、戦死した。 この戦いでディオドロスによればスパルタ側は5300人、マケドニア側は3500人の戦死者を出した。クルティウスの記録ではマケドニア軍の戦死者は1000人だったが生存者のほとんどが負傷したという。この戦いでの敗北が決定的敗北となり、スパルタのマケドニアへの反乱は失敗に終わった。
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戦い
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2月19日、ドイツ・イタリア軍は攻勢を開始した。その翌日、第5装甲軍より北へ派遣された第10装甲師団より抽出されたプロイヒ戦闘団(Kampfgruppe von Broich)は攻撃を先導、物資集積所へ進撃を開始、また、第21装甲師団はシビバ峠を通過して北へ攻撃を開始した。 アメリカ軍の火砲と戦車は,、ドイツ軍の戦車に対抗することができず、また、アメリカ軍には戦車戦の経験がほとんどなかったため、数分でアメリカ軍の防衛線は崩壊した。ドイツ軍のIV号戦車とティーガーI重戦車はアメリカ軍の攻撃を容易に跳ね返した。アメリカ軍が使用したM3中戦車とM3軽戦車は火力と乗員の経験の双方で、ドイツ軍に比べて著しく劣っていた。この時、イタリア第7ベルサリエ連隊は激戦を重ねて、連隊長ルイージ・ボンファッティ(Luigi Bonfatti)大佐が戦死したが、これについてロンメルは賞賛を送った。 また、この激しい戦車戦の最中に、主要道路13号(Highway 13)上のアメリカ軍は夜間まで反撃を行っていたが、イタリア第131装甲師団「センタウロ」によって撃破され、撤退せざるを得なかった。一方、アメリカ軍の指揮官たちは集中支援砲火を要請する許可を得るために、上部組織に無線連絡を入れたにも関わらず、ドイツ軍が防衛線を突破した後に前進するよう命令を受けたりしたため混乱状態に陥った。その頃、アメリカ第1機甲師団は戦闘に参加できない位置へ移動を命令されていたことに気づき、同時に攻撃2日目までに、3つの命令のうち2つが無駄なものであったことにも気づいた。 峠を突破した後、ドイツ軍は二手に分かれ、各々が峠の北西から分かれている2本の道のうちの1つを進撃した。イタリア・センタウロ装甲師団の支援を受けた枢軸軍が南のハイドラ(Haidra)へ向かう一方、ロンメルは北のターラへ向かうドイツ第10装甲師団の主力に同行した。アメリカ第1機甲師団は南へ向かう枢軸軍と戦うため、2月20日、B戦闘群を30km前進させたが、その翌日、その勢いを止めることができないことが発覚した。このため、アメリカ軍の士気は著しく低下、夕方までに撤退を行い、武器、器材は全て遺棄された。峠は完全に無防備になっており、タバッサの物資集積所はドイツ軍の手に届く範囲になっていた。しかし、一部で取り残されていたアメリカ軍の必死の抵抗のために、ドイツ軍の進撃は鈍り始め、2日目になってドイツ先遣部隊が進撃している間もこれらアメリカ残存部隊との戦いは続いた。 2月21日の夜までには、ドイツ第10装甲師団はタバッサへ繋がる2本の道に繋がるターラ近郊の小さな町の外に至っていた。もし町が陥落してドイツ軍が南へ向かう2本の道へ向かうならば、アメリカ第9歩兵師団は北との補給線を切られることになる可能性があった。そして、アメリカ第1機甲師団のB戦闘群は第2の道を北へ進撃しているドイツ第10装甲師団の罠にはまる可能性も存在した。日中、経験豊富であったイタリアの2個ベルサリエ大隊はアルウイスラテーヤ平原(Ousseltia Plain)でイギリス王立砲兵第23野戦連隊の攻撃を受けたが、その集中砲火のためにチリヂリになった。その夜、「Nickforce」として知られるイギリス、フランス、アメリカの混合軍が防衛線から北へ移動、彼等はターラの防衛線へ順番に送られた。さらに、アメリカ第9歩兵師団所属の重火砲、約48門がモロッコより1,300kmの旅を終えて2月17日、配備された。 翌日、戦闘が再開されると、連合軍の防衛力は前日とは打って変わって、かなり向上していた。最前線ではアメリカ、イギリス両軍の支援砲撃を受けたイギリス歩兵連隊が主に占領を行った。ケニス・アンダーソンがアメリカ第9歩兵師団とル・ケフの砲兵隊にドイツ軍に対応するよう命令したとき、アメリカ軍のアーネスト・N・ハーモン(戦いを観察、アイゼンハワーに報告する任務を与えられていた)はその命令を部分的に取り消し、第9歩兵師団の砲兵隊の指揮を担った。2月22日早朝、集結した連合軍砲兵部隊の激しい集中砲火は、ドイツ第10装甲師団の進撃予定地を先に占領、そしてドイツ装甲部隊、車両、通信を破壊した。ドイツ軍ブロイヒ戦闘団のブロイヒはロンメルの合意を得て、進撃を停止させ、部隊の再編成を行うことを決定したが、これは主導権を連合軍に渡すこととなった。安定した連合軍の砲火と夕暮れのために、ドイツ第10装甲師団は退却さえままならなくなっていた。 一方、シビバにおけるドイツ第21装甲師団による攻撃はイギリス第1歩兵旅団とコールドストリームガーズ第2大隊の反撃により、2月19日、停止した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/23 22:07 UTC 版)
「チェルニーヒウの戦い」の記事における「戦い」の解説
2022年2月24日午前3時27分に、ロシアの第11親衛空中強襲旅団の大尉と伍長が、チェルニーヒウ近くのウクライナ軍に降伏した。同日、ウクライナは、ロシアの第74自動車化狙撃兵旅団の偵察小隊が降伏したと主張した。 午前8時34分に、ウクライナ軍はチェルニーヒウでのロシア軍による攻撃を撃退し、ロシアの装備と文書を押収した。イギリス国防省によると、ロシア軍はチェルニーヒウを占領することができず、代わりに都市を迂回してキエフへの別のルートを選択した。 午後2時25分(ウクライナ時間)に、ロシア国防省はチェルニーヒウを取り囲み、都市を包囲していると発表した。
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「第二次トゥルグ・フルモス攻防戦」の記事における「戦い」の解説
トゥルグ・フルモスの戦いはドイツ国防軍第LVII装甲軍団(グロースドイッチュラント師団と第24装甲師団らが所属していた)の装甲部隊が北から攻撃を行うソビエト第2戦車軍の第16戦車軍団と数日間に渡り一連の小さな戦闘であった。ある部隊の戦闘中の経験は以下のように記述されている。 『第3SS装甲師団の右側を進撃していたグロースドイッチュラント装甲擲弾兵連隊(第1大隊)と同盟国ルーマニア軍は有刺鉄線と対戦車地雷が散乱していた戦線を占領した。ソビエト赤軍は戦車、歩兵を混合した部隊によって激しい波のように進撃した。ドイツ軍より迅速に行動することが予測され、ドイツ軍はソビエト赤軍に圧倒された・・・(第1中隊は)最後の一兵まで一掃された。一方、臨時大隊長は・・・彼の大隊の残存戦力でソビエト赤軍を阻止、かつ撃退が試みられた。(第2中隊の)左側にはルーマニア軍は、ニシンのような塹壕の中ですくみあがっており、中隊長も同様な状態であった・・・後に詳細に語られる。確かに、ルーマニア軍は敵と非公式の停戦を行ったかのようであった。その夜、ドイツ軍は敵後方地域へ空襲を行うことに成功したが、結果は伴わなかった。翌朝、ソビエト赤軍は白燐弾を用いた爆撃を行った後、攻撃を再開した。(第3小隊を)殲滅すべく戦車・突撃砲100両以上が進撃していた。ルーマニア軍砲兵は射撃を行わず、(第2中隊の第3小隊は)(突撃砲)3両と(グロースドイッチュラント装甲砲兵連隊第10中隊の)15cm ネーベルヴェルファーのロケットランチャー4門の支援だけが期待できた・・・(第2中隊は)ネーベルヴェルファーが『ハリネズミ(ヘッジホッグ)』防衛を行っている位置へ急いで撤退した・・・そして少数の・・・将兵はそれから後方の鉄道築堤で一時的な安全を得ることができた。大隊は散り散りになり(第1大隊隊長は第2中隊隊長へ)SPW(Schuetzenpanzerwagen、装甲兵員輸送車)を送り、ルーマニア軍が撤退したことにより、左側の大きく開いで弱点と化した箇所のカバーを行わせた。敵はいかなる浸透も行わなかったが、これまでの2日間の緊張状態は装甲擲弾兵たちを消耗させていた。突然・・・4両のT-34がSPWの集団の中へ侵入したとき、まるで魔法のように第3SS装甲師団『トーテンコプフ』の戦車、突撃砲が現れた。1両のT-34が主砲の照準を合わせる前に、全ての砲撃の直撃を受けた。その直後、ハンス=ウルリッヒ・ルーデルのJu87ストゥーカに伴われたSPW4両が付随したトーテンコプフの装甲連隊は反撃を行った。装甲擲弾兵たちは以前の48時間彼らが耐えたもののために激しい復讐行った・・・再編成、修理を受けるために戦線から引き上げられる前に』 ソビエト赤軍の最初の成功にも関わらず、ドイツ軍による一連の反撃はなんとかソビエト赤軍の阻止に成功した。この戦いにより、ソビエト赤軍は戦車戦力をルーマニアへの継続攻撃が不可能な地点まで引き下げることとなった。3日間の戦いにおいてドイツ国防軍第LVII装甲軍団(グロースドイッチュラント師団、第24装甲師団と第L軍団がソビエト赤軍を打ち破り戦車350両以上を破壊、その内、100両以上は第24装甲師団が破壊したとされている。この戦いにおいてグロースドイッチュラント師団長、ハッソ・フォン・マントイフェルは初めてスターリン重戦車に遭遇しており、『私が初めてスターリン重戦車に遭遇したのはトゥルグ・フルモスであった。配下のティーガーが3,000mの距離で砲撃を開始したが、砲弾ははじかれ、我々との距離が半分になるまで撃破できなかったことに衝撃を受けた。しかし、私は地形の有利さを利用した上で戦術と機動性においてロシア人たちの優勢さに対処することができた。』と述べている。さらにマントイフェルはスターリン重戦車にはいくつかの『不利な点』存在するとしており、『十分な戦術が存在せず、また、私の考えではあるが、戦車の乗員たちは戦車について十分な知識を持っていない』としている。
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「タナグラの戦い (紀元前457年)」の記事における「戦い」の解説
両軍はボイオティアのタナグラで矛を交えた。一日目はテッサリア騎兵の寝返りにもかかわらず、アテナイ・アルゴス軍は踏みとどまって戦い、双方多数の戦死者を出した。その夜、テッサリア軍の裏切りを知らぬアテナイの補給部隊がテッサリア軍の攻撃を受けたが、アテナイ軍、続いてスパルタ軍が救援に来て本格的な戦いになり、双方多数の戦死者を出した。ディオドロスによれば、双方が戦いの勝利を主張したというが、トゥキュディデスはスパルタ側の勝利だと述べている。その後スパルタとその同盟軍はメガラ、そしてゲラネイア峠を通って無事帰国した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:58 UTC 版)
2022年2月25日の午前10時30分(UTC午前8時30分+2)に、ロシア軍がマリウポリに侵入。街の中心部へ進軍した。地元の知事OleksandrStarukhによると、砲弾がアパートの建物を襲ったと証言しており、市民に死者も出た。この時の攻撃がマリウポリ侵攻における民間人死亡の初の事例となった。午前10時から11時ごろ、ロシア軍による総攻撃が開始され各地で大規模な火災が発生。これによって街は火の海となる。 3月16日 市民が避難していた劇場をロシア軍が空爆。市の当局によるとこの空爆で約300人が死亡した 3月17日 ロシア軍がマリウポリを包囲したが依然としてメリトポリ中心部への砲撃は続いていた。 4月4日 ロシア軍が市の中心部へ進軍する。これに対し、ウクライナ軍は徹底抗戦。ロシア軍とウクライナ軍の間で24日に渡る激しい攻防が繰り広げられる。 ロシア軍はウクライナ軍による24日間の徹底抗戦でかなりの損害を被りながらも、ほとんどのウクライナ軍を殲滅した。そしてマリウポリの残存軍を追い詰めていきウクライナ軍はアゾフスタリ製鉄所に籠りながら抵抗を続けた 4月21日 プーチン大統領がマリウポリを事実上制圧したと表明。しかし、ウクライナ軍は製鉄所で抵抗を続ける 4月28日 ロシア軍は同製鉄所を包囲。 5月7日 製鉄所に取り残された民間人の避難が完了したとウクライナ側が公表 15日 ロシア軍が製鉄所攻撃で焼夷弾か白リン弾を使用と市民顧問が主張 16日 ウクライナ軍の兵士達が製鉄所から退避を開始する。 20日 ロシア国防省がマリウポリ完全制圧と公表。これに対し、ウクライナ側は完全制圧を否定。。。。
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「マンティネイアの戦い (紀元前362年)」の記事における「戦い」の解説
戦いが始まると、ボイオティア連合軍右翼に配置されたテーバイ騎兵と軽装歩兵がアテナイ騎兵に襲い掛かり、敗走させた。しかし後置されていたエリス騎兵の支援を受け、アテナイ騎兵は逆襲を開始し、テーバイ騎兵を敗退させてその多くを殺した。しかし、左翼の騎兵戦ではボイオティア連合軍が優勢に立ち、そのテッサリア騎兵がマンティネイア勢を圧迫していた。 歩兵同士の戦いにおいては、ボイオティア軍とスパルタ軍が激戦を繰り広げた。その最中、エパメイノンダスは自らの働きと勇気で以って勝利を得ようとし、手勢を引き連れて敵に攻撃を仕掛けた。彼は槍を放ってスパルタ軍の指揮官の一人を殺し、敵を押しに押した。 敵の総司令官が最前線に出張っているのを見て取ると、スパルタ側は祖国の命運がエパメイノンダス一人の死にかかっていると考え、多くの損害を出しながらも戦い、彼に攻撃を集中させた。彼は雨霰と降り注いだ矢玉をかわし、払いのけ、それを敵に投げ返しさえしたが、敵の放った槍を胸に受け、倒れた。彼に致命傷を負わせたのはアンティクラテスなるスパルタ人であるとプルタルコスは述べているが、パウサニアスは同時代の歴史を著述したクセノポンの息子グリュロスであるとしている(ちなみにグリュロスはこの戦いで戦死した)。しかし、同時にボイオティア軍はスパルタ軍を突き崩し、敵を敗走させた。ボイオティア軍は敵を短時間追撃した後、勝利の証として戦場と戦死者の遺体を確保しようとして、また総司令官の死によって十分な追撃ができなかったため戦場に戻った。 陣営に運ばれたエパメイノンダスは軍の指揮権を引き継がせるために指揮官の一人ダイファントスを呼ぼうとしたが、彼は戦死したと聞くと、次はイオライダスを呼んで欲しいと言った。しかし、彼もまた戦死してしまったと聞くと、テーバイには指揮官は残っていないと言って敵と講和するよう指示した。そして、「満足のいく人生であった。敗北を知らずに死ねるのだから」と言って落命した。あるいは彼の最後の言葉は「私は自らの勝利を、即ちレウクトラとマンティネイアという二人の娘を残すのだ」であったとも伝えられる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 14:44 UTC 版)
カルナックのアメン神殿にあるトトメス3世の年表によると、戦いは"(即位)23年、シェムウの月の第21日、新月の祝祭の日"に行われたとされている(なお太陰暦)。この日はトトメス3世の即位が紀元前1479年とすると、紀元前1457年5月9日に等しい。 両方の軍隊はおよそ10,000人であったが、 ほとんどの学者は、エジプト軍の数はさらに多かったと信じている。トトメス3世はこの戦いで勝利し、その後軍隊は略奪のため立ち止まったため、敵軍はメギドまで逃げ延びてしまった。そのため、トトメス3世は都市を長期間包囲することを強いられたが、最終的に7か月の包囲ののち、都市を征服することに成功した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 06:36 UTC 版)
「アスクルムの戦い (紀元前279年)」の記事における「戦い」の解説
一日目の戦いでは、ローマ側の狙いが当ってピュロス軍は森林地帯に悩まされ、騎兵と戦象部隊も思うように進めなかった。この日の戦いは双方共に多数の死傷者を出したものの日暮れと共に物別れに終わった。 翌日、ピュロスは敵を平地におびき寄せ、両軍は平地で戦った。ピュロスは部隊を分遣して昨日の難戦地帯を占領させ、本隊では戦象部隊の間に投石兵と弓兵を混ぜ、歩兵部隊はファランクスを形成させて戦った。ローマ軍は敵の戦象部隊が戦いに加わらないうちに敵の歩兵を突破しようとファランクスの槍衾に剣で切り込んだが、成らなかった。長時間に及ぶ戦闘の後、ピュロスが戦っていた場所のローマ軍は後退し、戦象部隊の投入が決定的要因となってローマ軍は崩壊し、彼らの陣営まで敗走した。 この戦いでのローマ軍の戦死者は6000人に対し、ピュロス軍の戦死者は3550人であった。勝利を勝ち取ったものの、そのために払った損害があまりにも大きかったため、ピュロスは「もう一度このような勝利をすれば、我々は破滅するだろう」と言ったという。しかも、この戦いでピュロスはエピロスより彼が連れてきた兵士の大部分と友人と幹部の将軍たちのほとんどを失った。このように多大な損害を払って得たものの割に合わない勝利は「ピュロスの勝利」と呼ばれる。
※この「戦い」の解説は、「アスクルムの戦い (紀元前279年)」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:06 UTC 版)
次第に江南から広東へと追い詰められた南宋軍は、船団で海上を漂流しながら抵抗を続け、新会県周辺にある、崖山という当時何もなかった島に砦と行宮を構築し、徹底抗戦の構えを見せた。一方、元軍は蒲寿庚から船舶や熟練の水夫の提供を受けており、不慣れな海上でも旧南宋艦隊を追跡し、戦いを有利に進めていった。元側の記録によると、南宋艦隊は1000隻の大型船をがっちりと繋ぎ合わせ、防火のため船体外装に泥を塗り、敵が近づけないよう長い木材を縛り付けて防御網とし、油を注いで火攻めを図る元軍を破ったという。 しかし1279年2月半ば、長い消耗戦に疲れ切った南宋軍は敗走した。やがて絶望した家臣や幹部たちが次々と入水していく中、陸秀夫は幼帝趙昺に『大学』の講義を船内でしていた。しかし2月6日の昼過ぎ頃には敗北を悟り、皇帝を抱いて入水した。これをきっかけに戦闘は終結し、元軍の勝利が確定した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 10:37 UTC 版)
「クロコトニツァの戦い」の記事における「戦い」の解説
テオドロス1世は西洋の傭兵を含む大軍を召集した。彼は勝利を確信し、妻子を含む王室全員を連れて行った。彼の軍隊はゆっくりと動き、途中で村を略奪した。ブルガリア皇帝は自国が侵略されたことを知ると、数千人の小さな軍隊(アクロポリスがスキタイと表現したクマン人も含む)を集め、すぐに南に進軍した。ブルガリア軍は、テオドロス1世の軍勢が1週間で移動した距離の3倍の距離を4日間で移動した。 3月9日、両軍はクロコトニツァ村の近くで合流した。イヴァン・アセン2世は、破棄された相互保護条約を槍に刺して旗にするよう命じたと言われている。彼は優れた戦術家であり、ブルガリア軍と早期に遭遇することを想定していなかった敵を包囲することに成功した。戦いは日没まで続いた。テオドロス1世の部下は完全に敗北し、弟のマヌエルが率いる小隊だけが戦場から逃げ出すことができた。残りは、テッサロニキの王宮やテオドロス1世自身を含めて、戦死するか捕虜となった。
※この「戦い」の解説は、「クロコトニツァの戦い」の解説の一部です。
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「ブランシュタックの戦い」の記事における「戦い」の解説
いざブランシュタックの渡しにイングランド軍が着くと、フランス軍は実戦経験豊富なゴデマール・ド・フォワ率いる3,500の兵が守りを固めており、エドワード3世の予想は裏切られた形になった。また、河口近くだったので潮の影響で水位が高く、下がるまでは数時間かかると見られた。しかし、フランス側の焦土作戦のため飢えと士気低下に苦しんでいた自軍の事情を考えたエドワード3世は、これ以上引き延ばさずにここでの渡河を決意した。 フランス軍は堤防に沿って3重に部隊を展開し、精鋭の装甲兵士(英語版)を中央に配置していた。午前8時ごろ、イングランド軍の騎士と装甲兵士100人が、長弓部隊の分厚い援護射撃の下で渡河を開始した。長弓の熾烈な攻撃によってフランス軍の戦列は混乱し、ジェノヴァ兵の石弓部隊も対応できない間にイングランド兵は対岸に到達した。イングランド軍先鋒の奮戦により対岸に橋頭保を確保すると、エドワード3世は兵力を更に投入した。イングランド歩兵の死に物狂いの働きと弓兵の正確な射撃によってフランス軍が徐々に後退して潰走を始めると、騎兵がアブヴィルまで掃討戦を行った。 イングランド軍はフランス軍の防衛ラインを突破して1時間半で全軍が渡河を終え、北上した。ここまで焦土作戦を行っていたフランス軍だったが、ソンムの防衛ラインには絶対の自信を持っていたため、この一帯は食糧などが手つかずのままでイングランド軍は略奪をほしいままにして物資を調達できた。フィリップ6世も直ちに追跡を開始したが、クレシーの町の近くでエドワード3世は待ち構えており、クレシーの戦いが発生した。
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「ヴェルティエールの戦い」の記事における「戦い」の解説
トゥーサン・ルーヴェルチュールが1802年に国外追放になった後、トゥーサンの補佐官の1人であったジャン=ジャック・デサリーヌが戦いを続けた。 デサリーヌは、ヴェルティエールの戦いの前に何度もフランス軍を破った。1803年11月17日から18日にかけての夜間、ハイチ軍はブレダ砦を陥落させるために銃を配置した。ここは、トゥーサンがフランソワ・カポワの下で御者として働いていた場所だった。フランス軍がトランペットで危機を知らせると、ハイチ軍のクレルボーが最初の一発を打った。左方の砦から弾の嵐が降ってきたが、大きな馬に乗ったカポワは、彼の半旅団を前進させた。シャリエまでの経路は、ヴェルティエールの銃の下、長い渓谷が続いていた。フランス軍の銃は、ハイチ軍の多くの兵を殺したが、生き残った兵は屍をよじ登り、歌った。カポワの馬も撃たれてよろめき、倒れ、鞍からカポワを投げ出した。カポワは自身で立ち直り、剣を抜き、頭上で振り回して走りながら「前へ!前へ!」と叫んだ。 ロシャンボーはヴェルティエールの城壁からこれを見ていた。カポワが前進すると、フランス軍の銃撃が突然やんだ。突然、戦闘が停止した。フランス軍の将校は馬に乗り、恐れを知らないカポワに近づいた。彼は大声で「ロシャンボー将軍は、このような栄光に包まれた将軍に賛辞を贈る!」と叫んだ。その後、彼はハイチ軍の兵士に敬礼して元の位置に戻り、戦闘は再開した。デサリーヌ将軍は、最も若い将軍であるガバールに率いられた増援部隊を送り、ロシャンボーの護衛の擲弾兵であるジャン=フィリップ・ダウトは最後の攻撃部隊を組織した。しかし、マスケット銃を手にフランス軍と最後まで戦ったガバール、カポワ、クレルボーは、決定的な反撃を加えた。 突然、戦場に雷が落ちた。嵐の中、ロシャンボーはヴェルティエールから軍を引き上げた。彼は敗れ、フランスがサン=ドマングを失ったことを知った。
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「ベオグラード包囲戦 (1688年)」の記事における「戦い」の解説
1688年7月30日、マクシミリアン2世は軍を動かして、Titel付近にあるオスマン帝国の前哨基地を占領した。Yeğen Osmanはベオグラード周辺に軍を配置して、守備隊と住民が逃亡しないようにした。 オスマン領セルビアのキリスト教徒の支持により、彼の軍はベオグラード郊外のOstružnica付近の中洲であるアダ・ツィガンリヤに上陸した。8月7日、アダ・ツィガンリヤとサヴァ川右岸の間にある舟橋を配置した。オーストリアの第一部隊500人がYeğen Osman軍の砲撃の中で橋を渡った。サヴァ川右岸に足場を作ると、追加部隊1,000人が加わった。Yeğen Osman軍が彼らを攻撃したが、2回の攻撃をオーストリア軍が撃退し、右岸の土地をさらに占領して、追加部隊を連れて来た。彼らはベオグラードを包囲して、1ヶ月近くも砲撃の目標にした。 神聖ローマ帝国軍がサヴァ川を渡った翌日に、レオポルト1世の手紙がYeğen Osmanに届き、手紙において彼にWallachiaを差し出し、オスマン帝国を捨ててオーストリア側に返るように申し出た。8月10日、Yeğen Osmanはオーストリアの使節に返事を書いた手紙を出し、陣から急送した。Yeğen Osmanがスラヴォニアとボスニア全体を要求したため、合意することはなかった。Yeğen Osmanは自分の軍が数に勝ると気付くと、自分の陣とサヴァ川とドナウ川近くのセルビア人が多いベオグラード郊外を炎上させた。その後、スメデレヴォに後退して、略奪と炎上に2日を費やした。Yeğen Osmanはスメデレヴォを離れ、Smederevska Palankaを経由してニシュに向かった。ニシュからオスマン政府に包囲に関する報告書を送り、ベオグラード防衛に必要な救援と金銭的な援助を要求した。また反抗的なRayahを全滅させることを勧めた。Sublime Porteから金120袋が送られ、ルメリアのイスラム教徒をベオグラードの反抗的な住民に対処するために動員することが決定した。 オスマン軍に対する降伏勧告が拒絶されたので、マクシミリアン2世は9月6日に急襲を命じた。最初は帝国軍が動揺したが、マクシミリアン2世と彼に同行したオイゲン・フォン・ザヴォイエンが軍を再編して外壁から駐屯地を動かした。マクシミリアン2世の急襲によりオーストリア軍で4,000人、オスマン軍で5,000人が戦死した。その後2年間ハプスブルクの支配下に入り、ベオグラード要塞と街が再建された。1690年の包囲戦でオスマンがベオグラードを奪還した。
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「マルジュ・アユーンの戦い」の記事における「戦い」の解説
沿岸部の東側から、十字軍は離れたところにあるサラディンのテントを見て取った。ボードゥアンと彼の貴族たちは即座に平地へと駆け下りて攻撃をかけようと決めた。フランク軍が丘を下って移動したため、騎兵部隊はすぐに歩兵を追い越した。数時間送れて十字軍は再集結し、略奪から戻ってきていたサラセンの襲撃部隊と遭遇して簡単にそれを撃破した。 戦勝を信じたフランク軍は油断した。レーモンの騎士とテンプル騎士団のウードはマルジュ・アユーンとリタニ川の間の広い土地へと向った。十字軍の歩兵はその日は早くあわただしい進軍をやめて休憩した。 突如、サラディンの本隊が準備のできていない十字軍に攻撃をかけて大いに破った。その時の評者たちは敗北はウード――彼は戦いで囚われた――のせいだとしている。ボードゥアン王は辛うじて囚われるのを逃れた。病で体が不自由だったために馬に乗れず、彼はサラセン軍の中を突破した一人の護衛の騎士によって安全な場所まで運ばれた。戦いでのフランク側の生存者の多くは戦場からおよそ南西4マイルのボーフォール城へと逃げ込んだ。
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「ダンダーナカーンの戦い」の記事における「戦い」の解説
マスウード率いるガズナ朝軍のサラフスへの進軍の間、セルジューク軍の襲撃がガズナ朝軍を一撃離脱戦法で苦しめた。セルジューク軍はガズナ朝軍の供給線を断ち、近隣の井戸から切り離した。ガズナ朝軍の規律が乱れ、士気は著しく低下した。ついに1040年の5月23日、16000人ほどのセルジューク軍が、ダンダーナカーンでガズナ朝軍と衝突し、メルヴ近郊で彼らを破った。
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アルケタスはアンティゴノス軍に攻撃を仕掛けたものの、撃退された。反撃に転じたアンティゴノス軍は高地を駆け下りてアルケタス軍に襲い掛かり、数で劣るアルケタス軍をパニックに陥れた。アンティゴノスは数を頼んだ翼包囲を敢行してファランクスを形成する暇も与えず敵の歩兵部隊を攻撃し、アルケタス軍は総崩れになった。アルケタス軍はアンティゴノスの降伏勧告により降伏し、アッタロス、ドキモス、ポレモンなど旧ペルディッカス派の主だった将軍はことごとく捕えられた。アンティゴノスは寛大な処置によってこの軍を自軍に吸収した。
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まずセレウコスはメソポタミアのカライ(今日のハッラーン)へと向い、同地のマケドニア人を味方につけ、続いてバビロンに到着した(紀元前311年5月)。かつてのセレウコスの善政のために途上の住民はこぞって彼に味方した。アンティゴノスの家来たちは将軍ディフィロスの守る砦へと避難したが、セレウコスによってすぐに攻略された。こうしてバビロニアを回復したセレウコスは来るべきアンティゴノスとの対決のために軍を集め始めた。 セレウコスを倒すべく、アンティゴノス配下のメディア太守ニカノルとアレイア太守エウアグロスが歩兵10000人と騎兵7000騎から成る軍を率いて攻め込んできた。対し、セレウコスの手元にある兵力は歩兵3000人と騎兵400騎でしかなかった。そこでセレウコスはティグリス河畔で敵を待ち伏せ、敵が野営して油断したところに夜襲を仕掛け、散々に打ち破った。エヴァグロスは倒れ、敗走したニカノルは僅かな兵士と共に逃げてアンティゴノスに救援を求める手紙を書いた。しかし、アッピアノスはニカノルは戦死したと伝えている。余勢を駆ったセレウコスはスシアナとメディアを併呑した。 ニカノルからの手紙が来ると、アンティゴノスはデメトリオスを歩兵15000人、騎兵4000騎と共にセレウコス討伐のためにバビロニアに送った。紀元前310年の春、デメトリオスはシリアのダマスコスからバビロニアに向った。一方、セレウコスによってバビロニア防衛を任されていた将軍パトロクレスは住民を疎開させ、セレウコスに救援を訴えつつ、デメトリオスに抗戦した。その後、デメトリオスはバビロンに入城したものの、抵抗を続ける砦の包囲に時間がかかり、帰還するはずの時期が近づいてきたため、部下の将軍アルケラオスを歩兵5000人、騎兵1000騎と共に残して自らはシリアに帰った。結局のところ、デメトリオスはセレウコスを追い出すという目的を果たすことができなかった。続いて、セレウコスは自ら軍を率いてきたアンティゴノスを払暁の奇襲によって破った。こうしてセレウコスはアンティゴノスからの攻撃を悉く頓挫させ、自身の領土を守り抜くことに成功したのである。
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1195年6月1日、イスラム教徒のアミールによって増強されたアブ・バクルは、要塞都市シャムコルで敵と遭遇した。ダヴィド・ソスランは比較的小さな部隊を送って街の門を突破し、グルジアの主要部隊を率いて敵の後方を襲撃した。しかし、道路の貧弱さや景観の悪さは、グルジア人にとって不利となり後退し、アタベクはしばらくの間都市を守った。にもかかわらず、ダヴィド・ソスランの作戦が決定的であることが証明され、アブ・バクルの軍隊はひどく敗北した。シャムコルは最終的にグルジア人によって制圧され、グルジア人は敵の兵士をガンジャ市まで追いかけ、ガンジャ市は勝利者の手中に収められた。
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この時アンティゴノスが率いていた兵は歩兵10000人と騎兵2000騎、そして戦象30頭であった。これに対してエウメネス軍は歩兵20000人と騎兵5000騎であり、数の上ではエウメネスが圧倒的に優勢だった。しかし、アンティゴノスは事前にエウメネス軍の騎兵指揮官アポロニデスを買収し、裏切りの手はずを整えていた。これを知らぬエウメネスは騎兵が戦うのに都合の良い平野に陣を張り、アンティゴノスはその平野を見下ろす丘を占領した。戦いの詳細については分かっていないが、両軍が激突するやすぐにアロポニデスは寝返って味方に攻撃をかけ、エウメネスはおよそ8000人の戦死者を出して敗退した。 しかし、敗北にあってもエウメネスは優れた才覚を示した。彼は裏切り者に敵陣へと逃げる暇を与えずに即座にこれを殺し、追撃してくる敵をまいて戦場に戻り、戦死者の遺体を回収して埋葬した。
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戦い
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両軍は陥落した都市の近辺で相見えた。激しい戦いは日暮れまで続いたものと思われるが、終始決着はつかなかったようである。両軍ともかなりの死傷者を出し、その後、数で劣るクロイソスはハリュス川を渡って撤退した。クロイソスの撤退は、冬を利用して作戦を中断し、同盟国であるバビロニア、エジプト、就中スパルタからの援軍の到着を待つという戦略的な決定であった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 14:38 UTC 版)
キュロスは側面が四角い陣形になるように部隊を展開させ、その側面には戦車、騎兵、歩兵が位置した。さらに荷物のラクダを使って以て弓兵の周りの障壁とした。弓兵がリュディア軍に射掛けた時には、ラクダの臭いがさらにリュディア軍の馬を混乱させ、騎兵隊の突進を散乱させた。 キュロスの予想通り、リュディア軍の翼、つまり軍の左右はキュロスの斬新な陣形を包むように内側に回り込んだ。この時、翼の曲がる部分に隙間ができた。リュディア軍の混乱は、平方に配置されたペルシャ軍の弓兵と塔兵の頭上からの痛烈な攻撃によりさらに大きくなった。キュロスは攻撃の命令をし、側面の部隊が統率を失ったクロイソス軍の真横に激突した。やがてリュディアの騎兵隊は多くの兵士を失い、撤退を余儀なくされた。キュロス軍のほとんどは無傷だった一方でリュディア軍の騎兵は大部分が失われたため、キュロスはすべての騎兵と歩兵にクロイソス軍の残党を攻撃するよう命じた。歩兵のほとんどはすぐに降伏したが、クロイソスと歩兵の一部は退却して首都サルディスへ向かった。 ヘロドトスもこの戦いについての記述を起こしたが、具体的な数字はない。しかし、戦いの一部始終に関する記述は、後のクセノポンの記述を裏付けるものである。
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「アド・デキムムの戦い」の記事における「戦い」の解説
ベリサリウスはアルメニア人の将軍ヨハネス率いる騎兵300騎を前衛、フン族騎兵を左翼、自身が率いる残りの騎兵をその後に続かせ、歩兵をその後に続かせるという陣形で右に船団が進む海を見ながら進軍していた。これに対し、ゲリメルはアマタスが敵の正面を拘束し、甥のギバムンド率いる2000人が敵左翼に回りこみ、自身が率いる本隊が敵の背後を突き、包囲するという作戦を立てた。 しかし、ゲリメルのこの作戦は各隊がうまく連携を取れなかったために失敗した。まずアマタスはいち早くヨハネスと遭遇するや味方の到着を待つことなく突撃し、自身で12人の敵兵を屠ったものの戦死した。アマタス部下の兵士は算を乱してカルタゴへと敗走し、ヨハネスがそれをカルタゴの門の前まで追撃した。一方ギバムンドはフン族騎兵とぶつかり、敵のおよそ3倍の兵力にもかかわらず壊滅させられた。その間ゲリメルは道に迷っており、味方の救援に赴くことができなかった。 ようやく戦場に到着したゲリメルはフン族騎兵とベリサリウスの間に割って入る位置に出てきた。ゲリメル現るとの報告を受けたベリサリウスによって送られたウリアリス率いる部隊800騎を蹴散らし、ゲリメルは近くの丘を占領した。この時すかさずベリサリウスに攻撃をしかけていれば勝利は彼のものになったかもしれなかった。しかし、ゲリメルは弟の死を知るとその場で葬式を挙げるという愚挙をし、ベリサリウスに反撃の準備のための時間を与えてしまった。部隊を集めたベリサリウスはゲリメルに攻撃を仕掛け、ゲリメルを敗走させた。そして、ゲリメルはヌミディア方面に逃げた。
※この「戦い」の解説は、「アド・デキムムの戦い」の解説の一部です。
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ゲリメルは兵には剣のみを使って戦うように命じており、この戦いはアド・デキムムの戦いと同様にほとんど騎兵のみで戦われた。戦いが始まると東ローマ軍の将軍ヨハネス率いる先鋒の騎兵部隊が敵をおびき寄せるべく川を渡ってきた。中央の部隊を率いていたザノンがそれに応じたがすぐに退却し、ヴァンダル軍は川辺までしか敵を追わなかった。同じようなことが三度繰り返された後、ベリサリウスは親衛隊の全部を投入して攻撃に加わらせ、白兵戦となった。 やがてヴァンダル軍は敗勢に転じ、ザノンをはじめとするヴァンダルの多くの勇士が戦死し、敗走した。そして当のゲリメルは味方の敗勢を見て取るや僅かな供の者をつれて戦場から逃げだした。敵の敗走を見たフン族部隊は追撃に加わり、ヴァンダル兵を殺した。陣営に残されていたヴァンダル軍の妻子と財産は東ローマ軍の手に落ちた。この戦いで東ローマ軍は50人、ヴァンダル軍は800人を失った。
※この「戦い」の解説は、「トリカマルムの戦い」の解説の一部です。
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「キエフの戦い (1941年)」の記事における「戦い」の解説
ウマニ包囲戦の後、スターリンは第5軍にドニエプル河死守を命じ、南西総軍とキエフを救うためキエフ北東でブリャンスク正面軍を編成した。ブリャンスク正面軍の役目は南下を開始したグデーリアンの第2装甲集団の阻止である。ブジョーンヌイ元帥の要請によりスターリンは第5軍にドニエプル河東岸への後退を許可し第5軍のかわりにキエフの西正面を守るため第37軍を編成した。8月25日第2装甲集団がデスナ川の橋梁を確保しエレメンコ中将指揮下のブリャンスク正面軍が8月30日に第21軍、第13軍の増援を加え第2装甲集団に攻撃を仕掛けた。ソ連軍の決死の攻撃も第2装甲集団の進撃を止められず8月31日にはドイツ第17軍がドニエプル河北岸に到達し第6軍はキエフの西正面に迫っていた。ドイツ軍の包囲網は着実に完成しつつあり撤退を求めたブジョーンヌイ元帥は更迭され後任にチモシェンコ元帥があてられた。9月7日第2装甲集団の第3装甲師団がセイム河対岸に橋頭保を確保し9月10日には第17軍援護の下、クライスト率いる第1装甲集団がドニエプル河を渡り北上を開始した。ドイツ軍の装甲部隊により東方への退却路が遮断されていくなかスターリンはキエフの死守を繰り返し南西総軍の撤退を許さなかった。9月14日南下していた第2装甲集団と北上していた第1装甲集団がキエフ東方193Kmのロフビツァで合流、包囲網は完成した。ソビエト赤軍の退却路は塞がれ、指揮官も装甲部隊も存在しない南西方面軍に脱出の可能性はほとんど存在せず、 後はドイツ軍による殲滅を待つのみとなった。ドイツ南方軍集団の第6軍及び第17軍は、中央軍集団の第2軍のように、2個装甲集団の支援を受けて包囲網を縮小し始めたが、ソビエト赤軍は抵抗することをやめようとしなかった。包囲内のソビエト赤軍を殲滅するために、ドイツ軍は空軍の支援を受けて砲撃、戦車を用いた激しい戦いを行わなければならなかった。9月19日、キエフは陥落したが、戦いはまだ続いていた。結局、10日間の激戦を重ねた結果、キエフ東地区のソビエト残存部隊は9月26日、降伏した。これらの中には捕虜となることを回避した兵士として疑われた市民も含まれているが、ドイツ軍がソビエト赤軍将兵約600,000名を捕虜とし、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはこれを史上最大の戦いと述べた。
※この「戦い」の解説は、「キエフの戦い (1941年)」の解説の一部です。
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「オーブロッシェの戦い」の記事における「戦い」の解説
オーブロッシェのフランス軍陣地は二つに分かれていて、主力部隊は城と村の間を流れるオーヴゼール川沿いに布陣しており、城の北には小部隊が城と外部の交通を遮断するために駐屯していた。数的劣勢を知っていたダービー伯は数日間ペンブルック伯(英語版)の援軍を待ったが諦め、ペリグーから夜のうちにオーブロッシェに進軍し、10月21日にフランス軍陣地を見下ろす丘の上に到着した。夜明けまで援軍を待った後、配下のウォルター・マーニー(英語版)らを集めた軍議の席で、このまま待って奇襲の機会を失うより、フランス軍の準備が整わないうちに直ちに攻撃を仕掛けることが決まった。 ダービー伯自ら偵察を行い、騎兵は南の平野に向けて突撃し、歩兵は森の中の道を進んでフランス軍の背後から奇襲をかけ、長弓兵は木立から敵陣へ射撃を浴びせるという3面作戦を決めた。奇襲はフランス兵が夕食をとっている間に始まり、一斉射撃と騎兵突撃によってフランス軍は大混乱に陥った。陣地を脱出したフランス騎兵は長弓の格好の標的となり、何とか血路を開いた部隊もいたが、オーブロッシェ城から守備隊が打って出て背後から襲いかかったため、フランス軍は壊滅した。
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「アイゴスポタモイの海戦」の記事における「戦い」の解説
戦いの記述はクセノポンとディオドロスそれぞれの異なった記録がある。
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アラブ人との戦いを終わらせた東ローマ帝国は、アナトリアのテマから11万の軍勢を徴兵してトラキアに移動させた。そしてアケロオスでブルガリア軍と戦ったが、シメオンの前にまたしても大敗を喫した。この戦いで打ち捨てられた東ローマ軍の死骸は、50年後も放置されたままだったという。この戦いに勝利したシメオンはコンスタンティノープルを目指して進軍した。
※この「戦い」の解説は、「アケロオスの戦い」の解説の一部です。
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戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 06:08 UTC 版)
ナバラ軍は丘の上に兵を3列に並べて両脇に弓兵を配置した。これは当時のイングランド軍がよく使った防御力の高い陣形で、白兵戦に持ち込まれる前に弓兵の猛烈な射撃で敵兵力を粉砕してしまうというものであり、イングランド軍はこれまで数多くの戦闘で勝利を手にしていた。ところが、ゲクランはナバラ軍の陣地に一度攻撃を仕掛けて挑発した後、わざと部隊を後退させた。これに誘い出されたジョン・ジュエルとイングランド兵が丘の上の陣を捨てて駆け下りると、グライーもこれに続かざるを得ない状況になった。丘を下ったナバラ軍は、ゲクランが繰り出した伏兵によって側面を攻撃されて壊滅し、グライーは捕虜となった。
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戦いは歩兵部隊の前面に配置されたメノン率いるギリシア騎兵のマケドニア騎兵への突撃により始まった。数では劣るものの、精鋭揃いのギリシアのテッサリア騎兵はマケドニア騎兵を圧倒し、それを深追いした。双方の騎兵が戦いに没頭したのを見たアンティパトロスは歩兵のファランクスにギリシア歩兵への突撃を命令した。アンティフィロス率いるギリシア歩兵はそれに押されて防御に適した後方の丘へと後退し、何とか態勢を立て直した。しかし、退却する彼らの歩兵を見て戦意を失ったギリシア騎兵は引き返し、アンティパトロスも兵を引いた。この戦いでギリシア連合軍は500人、マケドニア軍は130人の犠牲者を出した。
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「戦い」の例文・使い方・用例・文例
- 長年の戦い
- 戦いに勝つ
- 人生の戦い
- 時間との戦い
- その軍隊は戦いで敵を倒した
- 自然との戦い
- 戦いに負ける
- 私たちは夢を実現するために最後の最後まで戦います
- 戦いを挑む
- 容赦のない戦い
- 部族全員が戦いに反対です
- がんとの戦い
- 戦いが始まりました
- 京都選挙区では、民主新人、共産新人が三つどもえの戦いを繰り広げる
- 水面下で女の戦いが繰り広げられた
- 彼が再び敵に戦いを挑んだ
- その戦いで、英国兵はおよそ3000人だった。
- 吟唱詩人たちはバイキングの戦いや愛を歌った。
- それはオバマ対共和党の11ヶ月にも及ぶ激しい戦いの幕開けだった。
- その歴史的な戦いの再現を演じる人達は広場に集まった。
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