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モロッコ [Morocco]
映画情報 |
モロッコ
| 原題: | Morocco |
| 製作国: | アメリカ |
| 製作年: | 1930 |
| 配給: | パラマウント支社 |
| スタッフ | |
| 監督: | Josef von Sternberg ジョセフ・フォン・スタンバーグ |
| 原作: | Benno Vigny ベノ・ヴィグニー |
| 脚色: | Jules Furthman ジュールス・ファースマン |
| 撮影: | Lee Garmes リー・ガームス |
| 字幕: | 田村幸彦 タムラヨシヒコ |
| キャスト(役名) |
| Gary Cooper ゲイリー・クーパー (Tom Brown) |
| Marlene Dietrich マルレーネ・ディートリッヒ (Amy Jolly) |
| Adolphe Menjou アドルフ・マンジュウ (La Bessiere) |
| Ullrich Haupt ウルリッヒ・ハウプト (Adjustant Caesar) |
| Juliette Compton ジュリエット・コンプトン (Anna Dolores) |
| Francis McDonald フランシス・マクドナルド (Corp. Tatoche) |
| Albert Conti アルバート・コンティ (Col. Quinnovieres) |
| Eve Southern イヴ・サザーン (Mm. Caesar) |
| Michael Visaroff マイケル・ヴィサロフ (Barratire) |
| Paul Porcasi ポール・ポルカシ (Lo Tinto) |
| 解説 |
| ドイツに赴いて「嘆きの天使」を作ったジョセフ・フォン・スタンバーグが滞欧1ヵ年の後、再び帰米して監督にあたった映画。ベノ・ヴィグニー原作の舞台劇「エーミー・ジョリイ」より「女の一生」「非常線(1928)」「紐育の波止場」のジュールス・ファースマンが改作脚色し「煩悩」「彼の捕えし女」のリー・ガームスが撮影した。主なる出演者は「嘆きの天使」のマルレーネ・デートリッヒ、「掠奪者」「テキサス無宿」のゲイリー・クーパー「虎御前」「コンサート」のアドルフ・マンジュウ、「快走王」「危険なる楽園」のフランシス・マクドナルド「鉄仮面」「グリーン家の惨劇」のウルリッヒ・ハウプト、ジュリエット・コンプトン、アルバート・コンティ、イヴ・サザーン等で、パ社は本誌の田村幸彦氏をニューヨークに招きその翻訳になる邦文字幕を最初の試みとしてこの映画に挿入している。 |
| ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
| モロッコ駐屯の独国外人部隊の一兵卒にトム・ブラウンという米国人がいた。彼は人を人とも思わぬ不敵の男で、女なんかは一時の慰み物くらいにしか心得ず、飽きれば弊覆のごとくに捨てて省みないという風だった。彼の最近の情人、外人舞台の一士官の妻君、がそろそろ鼻について来た矢先に、彼はエイミー・ジョリーという妖艶なキャバレーの歌姫と相識った。エイミーは金持ちの優男ラ・ベシュールをはじめ、自分に言い寄る許多の男達の騒ぐのを尻目にかけて、人々の注意をひくために、ことさらトムに特別の好意を示し、密かに彼女のアパートでトムを逢い引きした。トムは彼女が海千山千のしたたか者で、男なんかへをも思っていないことを知り、彼女に異常の興味を覚え、じりじりと彼女の魅力にひきつけられたが、彼女の虜となることをおそれ、すげなく彼女の許を去って街に出た所、そこには例の士官の妻が彼を待ち受けていた。エイミーも彼の後を追って街にやって来た所、彼が他の女と逢っているのを見て嫉妬を感じこれを邪魔しようとしたので、士官の妻が立腹し、野次馬や乞食共を買収してエイミーに襲いかからせた。彼女を庇おうとしたトムは街を騒がせたかどで軍隊に捕らえられ、懲罰の意味で危険な使命に服することを申し渡された。任務に赴く日トムは別れを告げるために彼女のもとを訪れたがラ・ベシェールが彼女に求婚しているのを立ち聞きし、ラ・ベシェールとの結婚が彼女を安楽と幸福に導くべきことを悟って彼女に当てた一通の手紙を残してこっそりその場を立ち去った。やがてトムは無事に危険な使命を果たしたが今更エイミーに会うことを欲せず、そのまま砂漠の中にある淋しい分遺所に留まる決心をした。一方エイミーは彼が負傷したことを聞き、ラ・ベシェールにせがんでとうとうその分遺所に連れて来てもらった。ラ・ベシェールはとうてい自分の恋が遂げられないことを知り、トムに力を貸して脱走させようと提議し、エイミーもまた彼と一緒に逃げることを希望した。しかしトムは若し真に自分を愛してくれるなら、彼女もまた立派な兵士の如く勇敢でなければいけないと行って脱走しようとはしなかった。やがて彼が部隊と共に砂漠に向かって行軍を起こした時、部隊の後に付き従っていくボロをまとい髪ふり乱した女軍の一隊があった。それは兵士達の赴くところどこまでも行こうとする彼等の妻や愛人達の一隊で、エイミーのけなげな姿がその中に見いだされたのはもちろんであった。 |
ウィキペディア |
モロッコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/28 23:23 UTC 版)
- モロッコ王国
- المملكة المغربية
-


(国旗) (国章) - 国の標語: الله، الوطن، الملك
(アラビア語:神、国、王)1 - 国歌: 国王万歳

-
公用語 アラビア語 首都 ラバト 最大の都市 カサブランカ 独立 フランスから
1956年3月2日通貨 モロッコ・ディルハム(MAD) 時間帯 UTC ±0(DST: なし) ISO 3166-1 MA / MAR ccTLD .ma 国際電話番号 212 - 注1 : この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。
モロッコ王国(モロッコおうこく)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。東にアルジェリアと、南にサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)と、北にスペインの飛び地セウタ、メリリャに接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバト。
地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場から独立国家として承認しておらず、1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構加盟に反対して同機構を脱退して以来、現在もモロッコはアフリカ大陸唯一のアフリカ連合非加盟国となっている。
目次 |
国名
正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka al-Maghribiya:アル=マムラカ・アル=マグリビーヤ)。通称、المغرِب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。 「日の没する地の王国」の意。
公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。通称、Maroc。
公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オブ・モラコウ)。通称、Morocco。
日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子など[2]。
歴史
詳細は「モロッコの歴史」を参照
先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人の港湾都市が築かれたが、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマ属州となった。
ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の下に置かれたが、8世紀初頭に東方から侵攻したウマイヤ朝の軍隊がモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。
788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世がイスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。
しかし、後ウマイヤ朝も1031年に滅亡し、イベリア半島にタイファが訪れた中、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝が勢力を拡大し、北上して、11世紀中にモロッコを支配し、1070年に新都マラケシュを建設した。さらに、南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレーを攻略してガーナ帝国を滅ぼした後、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。
1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナースィルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。
マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。
マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。
サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。
1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。続くスライマーンは鎖国政策を採ったが、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦いで敗れた。1856年にはイギリスと不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。19世紀末から20世紀初頭にかけてのモロッコはアフリカ分割の文脈の中でヨーロッパ列強の標的となり、1904年の英仏協商でモロッコを狙っていた英仏両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、このことは翌1905年に英仏協商に反対するドイツ帝国がタンジール事件を起こすことを招いた。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したが、最終的にはドイツが妥協した。1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領となり、仏西条約で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。
フランス保護領モロッコの初代総督にはウベール・リヨテ将軍が就任した。1920年にアブド・アルカリームがスペイン領モロッコのリーフ地方で反乱をおこし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。
第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で、1930年代から盛んになっていた独立運動が過熱し、ゲリラ闘争とスルターンのイニシアチブの双方の効果もあって1956年にフランスから独立した。スペインはセウタ、メリリャ、イフニの「飛び地領」とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王となり、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。
1961年にハサン皇太子が父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国をはじめとした西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持し、1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年には、スペインが「飛び地領」のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領だった西サハラはスペインの領有が続いたため、1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったが、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したが、モロッコは実行支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したが、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題となっている。
1992年に憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生するなど、イスラーム主義者を中心に現体制への不満はあるものの、ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなどリベラルな改革を進める立場を示している。
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- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([])
- ^ 「外務省: 外交史料 Q&A その他」外務省、2010年4月21日閲覧。
- ^ “モロッコにおける憲法改正に係る国民投票について”. (2011年7月19日) 2011年7月19日閲覧。
- ^ モロッコ下院選、イスラム穏健派が勝利 初の第一党に 朝日新聞 朝日新聞 2011年11月28日。
「モロッコの政党」も参照
正義発展運動以外にもモロッコ・アフガンやサラフィスト・グループなど非合法のイスラーム主義組織が存在するが、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている - ^ NEWS25時:モロッコ 穏健派が勝利宣言 毎日新聞 2011年11月27日
- ^ IMF
- ^ 国民経済計算
- ^ CIA World Factbook2009年12月26日閲覧。
固有名詞の分類
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