交戦
交戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/26 13:10 UTC 版)
「クライスラー農園の戦い」の記事における「交戦」の解説
ボイドは午後の半ばになっても攻撃命令を出さなかった。その後も命令は出なかった。アメリカ軍右翼ではエリエザー・ホィーロック・リプリー大佐の第21歩兵連隊が前進し、イギリス軍散兵線を森から追い出しおよそ1マイル後退させた。ここで部隊は止まって息を継ぎ、コールズ旅団の第12、第13連隊が加わった(この時点でのソートワウトの他の2個連隊の動きは不明である)。リプリーとコールズは森の外れで前進を止めていたが、赤服(イギリス軍)の戦列、モリソン軍の左翼側面隊である第2、第89連隊が大地から突如現れて銃火を開いたのを見て驚かされた。アメリカ兵は木株や茂みの陰に飛び込んで反撃を開始したが、この攻撃で命令もその契機も無くなってしまった。弾薬が足りなくなると、一目散に後方にとって返した。 一方コビントンの旅団は峡谷を越えるのに苦労し、横隊に組んだところで榴散弾を食らった。伝説に依れば、この時コビントンはカナダ民兵が着る灰色で厚地の上着を纏った第49連隊を率いていたが、部下に向かって「こっちへ来い!民兵をどう扱うか見てやろう」と叫んだという。一瞬後、コビントンは致命傷を負った。第2指揮官が指揮を替わったがまた即座に戦死しただけであった。この旅団は指揮系統を失って撤退を始めた。 ボイドは自隊の歩兵連隊が撤退してしまうまで6門の大砲を使えなかった。川堤に沿った道路から砲撃を始めたとき、極めて有効だった。モリソンの第2指揮官ジョン・ハーベイ中佐が第49連隊にアメリカ軍砲兵隊への攻撃を命じた。ウィルキンソンの事務担当副官ジョン・ウォルバック大佐が率いた竜騎兵隊が割って入り、第49連隊の空いた右翼を衝いた。第49連隊は攻撃を中止し、旋回してその右翼に引いた。激しい銃火の中で、竜騎兵隊は2回の突撃を繰り返したが、結局後退した。この時の損失は部隊兵130名の内、18名であった。竜騎兵隊は時間を使って大砲を1門を除いて撤収できた。バーンズの中隊は、泥にはまって放棄された大砲1門を捕獲した。 既に4時半頃であった。アメリカ軍の大半は潰走していた。エドムンド・P・ゲインズ大佐の第25連隊とティモシー・アッパム中佐の舟艇護衛隊が峡谷を暫く持ち堪えたが、ピアソンが左側面に回り込もうと脅しを掛けたので、残っていた部隊も撤退した。暗くなり、天候も嵐のような様相になったため、イギリス軍は前進を止めた。アメリカ軍は混乱したまま舟艇まで引き返し、川の南岸に渡った。 イギリス軍の損失は、モリソンの最初の報告書で戦死22名、傷者148名および不明が9名となっていたが、さらに9名が戦死、不明も4名が増えた。アメリカ軍は3名の士官を含めて多くの傷者が戦場に取り残された。アメリカ軍が再攻撃を掛けて来ることを恐れて、イギリス軍は暫く戦場を離れなかった。赤服が戦場を回って傷者を収容し、一時しのぎの野戦病院に送り込むまで、傷者は寒風の中で何時間も放置されていた。
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交戦
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4月16日(6月6日)、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった秀吉は翌4月17日(6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に着陣し続けた。 4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。 同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動した(美濃大返し)。佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政隊を直接は崩せないと判断した秀吉は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。
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交戦
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サパティスタは3000人ほどの、貧弱な武装をした先住民のゲリラに過ぎなかったものの、政府側はメキシコ軍を派遣して包囲攻撃を行い、徹底的な鎮圧を図った。サパティスタが潜伏しているとみられる先住民の集落に対し空爆を行い、その後特殊部隊が派遣され、ゲリラ達を次々と掃討していった。これらの戦闘は、合計12日間続いた。 メキシコ軍の攻撃により、サパティスタ側に150人近い犠牲者が出た。
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ロシア軍は1632年10月初旬にリトアニア国境を突破した。同軍の準備は万全で、司令官には1609年から1611年のスモレンスク包囲でポーランド人から同市を防衛したミハイル・シェインが任じられていた。ロシア軍はいくつかの町と城を陥落させ、歴史的都市ドロゴブージを占領した1632年10月28日、シェインはスモレンスク包囲に取りかかった。 ロシア軍の規模は2万5000から3万、3万4500などと見積もられており、160の大砲を持ち込んでいた。以前と比べると、ロシア軍はかなり近代化されていた。マスケット銃を装備した歩兵隊(ストレリツィ)という伝統的な軍隊組織に飽き足らず、ロシア人達は装備を最新式にし、西ヨーロッパ・モデルの常備軍、竜騎兵、黒騎兵などに編成した軍隊を率いる外国人の指揮官に期待していた。シェインの軍隊には西欧化された1万4000から1万7000人の兵で構成される、8つの連隊が含まれていた。
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2月22日に、トマス・マシューズ指揮下のイギリス戦列艦30隻が、フランス・スペイン連合艦隊27隻の後衛を成すスペイン戦隊を攻撃した。前衛と主力を構成するフランス艦隊は戦闘から距離を置いていた。マシューズは、オーストリア継承戦争で対立するどちらの側からでも他方に宣戦布告した場合に備えて、フランス艦隊を追っていた。12隻のスペイン艦はドン・フアン・ホセ・ナバロの指揮下にあった。午後5時に両者は互いに離脱した。彼らは翌日も互いに遠くから砲火を交わしたが、イギリス艦隊は痛手を被っており、さらにフランス艦がスペイン艦隊の支援に近づいてきたため、イギリス側は撤退を余儀なくされた。2月24日、マシューズはイタリアへと退いた。
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「1797年1月13日の海戦」の記事における「交戦」の解説
ペリューは、敵艦が自艦インディファティガブルよりもはるかに大型であること、8海里(15キロ)離れているアマゾンが、仮にこの場にやって来て共に戦ったとしても、敵艦との釣り合いが取れるほどの大きさでないことをわかっていた。とはいえ、ラクロスがドロワ・ド・ロムの下げ甲板の砲門を開いたら、大西洋の高くうねる波が押し寄せて、艦が沈没する危険があるだろうという推測も正しかった。実際、ドロワ・ド・ロムは、戦闘中に下げ甲板の砲門を開くことが全く不可能であった。この砲門は、普通の砲門とは違って14インチ(36センチ)低めに設計されており、その結果、どういう開き方をしても海水が流れ込み、下げ甲板からの砲撃が全くできず、この艦からの砲撃力を半減させることになった。ドロワ・ド・ロムにとって、使用可能な砲の数が減りはしたものの、大きさ、砲弾の重量、そして人力の点にかけてはラクロスの艦が有利だった。その状況も、トップマストが折れたことにより不利になった。このことでドロワ・ド・ロムは安定を欠き、相手への照準と舵取りとは敵艦よりも困難になり、強風の中で横揺れした。ラクロスと士官たちが驚いたのは、インディファティガブルはドロワ・ド・ロムから去って行こうとせず、また、ラクロスが予想したような、長距離を風下に進むこともしなかった。17時30分、インディファティガブルはむしろドロワ・ド・ロムの船尾に接近し、掃射を行った。ラクロスはこの攻撃に対抗して、上甲板の大砲から砲撃を始め、艦上の兵たちがそれに伴ってマスケット銃を発射した。そこでペリューは、ドロワ・ド・ロムを引き離そうとして、船首を掃射した。ラクロスが応戦して、船首をインディファティガブルに激しく当てたからだ。どちらの戦略もうまくいかなかった。ドロワ・ド・ロムはイギリス艦に掃射したものの、与えた損害はほとんどなく、またその砲弾は大西洋へと散らばったからである。 インディファティガブルとドロワ・ド・ロムは互いの艦のあちこちに策を弄し、砲撃を交わした。18時45分より後になってアマゾンがやって来た。この交戦の間、ドロワ・ド・ロムの大砲の一部が燃え、甲板に多くいた乗員に多数の死傷者が出た。アマゾンのレイノルズ艦長は、すべての帆に風を受けて、自分よりはるかに大きなドロワ・ド・ロムに接近し、ピストルの射程ほどにまで近寄ってから掃射した。ラクロスは、このもう1隻の敵艦を、自艦の西の方向で、インディファティガブルと鉢合わせするように仕向けた。そうすることによって、十字砲火に巻き込まれるのを避けられたからだった 。戦闘は19時30分まで続き、その後アマゾンとインディファティガブルは、早急に修理をするために敵艦の先に出た。20時30分には、この2隻は、自分たちよりもはるかに速度の遅いドロワ・ド・ロムのところへ戻り、その前を縫うように進み、繰り返し掃射を加えた。ラクロスはだんだん捨て鉢になった。イギリス艦に船体をぶつけようとするも失敗し、横揺れが激しい艦では、小型の大砲をどうにか配置しようとするもうまくいかなかった。相手に確実に照準を合わすのが不可能だったのである。 22時30分には、ドロワ・ド・ロムは多くの難事に直面していた。乗員に多くの死傷者が出ており、イギリス艦の砲撃によって、ミズンマストを失っていた。敵艦が、かなり打ちのめされた状態であるのに気付いたペリューとレイノルズは、敵艦の船尾の部分に近寄った。この2隻にもまだ、砲弾を受けてかなりの火の気があった、ドロワ・ド・ロムからまばらに反撃されたのだった。ドロワ・ド・ロムは4000もの砲弾を使い切っており、ラクロスは敵艦に破裂弾を使わざるを得なくなった。強風の中での破裂弾は、実弾よりも効果が薄いことがわかったが、しかし敵艦2隻を確実に遠くへ追いやった。フランス艦が殆どその場を動かないので、イギリスの2隻のフリゲート艦は、弧を描いて飛んでくる破裂弾の射程外にいることが可能で、必要な部分を修理したり、荒天のため位置がずれた大砲を配置しなおすことができた。夜が明けるまで、3隻の手負いの艦は狭い範囲内での勝負に終始し、午前4時20分、インディファティガブルのジョージ・ベル海尉が突如として、風下2海里(3.7キロ)の地点に陸地が見えているのを発見した。
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交戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 17:46 UTC 版)
イギリス駆逐群はイギリス海峡を西へ向かって移動していたときの6月9日午前1時直後に、レーダーによってドイツ軍艦船が発見された。一方、このときドイツ艦隊はバッ島(Île de Batz)の西北西30マイル付近の地点におり、北東の方に影を発見してその調査に向かった。そして戦闘が発生した。 まずドイツ軍が雷撃を行ったが命中せず、続いて第19駆逐隊による砲撃でドイツの駆逐艦3隻が被弾損傷した。ZH1は航行不能となり、Z32は北西へ、Z24とT24は南西へ向かった。この後Z32は第20駆逐隊と遭遇して交戦し、それから今度はターターおよびアシャンティと交戦した。この戦闘でZ32は再び被弾したが、エスキモーとターターを損傷させた。Z32との交戦後、ターター及びアシャンティはZH1と交戦し、アシャンティは至近距離から魚雷2発を発射した。そのうちの1発がZH1に命中し、艦首を吹き飛ばした。ZH1艦長クラウス・バルコウは退艦命令を出し、艦は放棄され02時40分に自沈した。バルコウ艦長以下39名が死亡し、28名はフランスにうまくたどりつき、残りの140名はイギリス軍により救助された。 ハイダとヒューロンはZ24とT24がイギリス軍の機雷原へ入り込むまで追跡したが、結局見失うこととなった。この後Z24とT24は旗艦との通信を回復して帰投許可を得、夕刻ブレストに到着した。一方、旗艦のZ32は最終的にハイダとヒューロンに捕捉され、被弾して速度が低下し、最後はバッ島に座礁した。
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出典:『Wiktionary』 (2021/08/14 09:00 UTC 版)
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