盛土
築堤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/17 17:49 UTC 版)
抗議の翌年、1915年(大正4年)に石原が神奈川県知事を退任し、9月から有吉忠一が信任した。有吉は、すぐさま水害の問題に真摯に取り組み、河川改修申請許可を内務大臣に願い出るが、申請は2年弱前に却下されたばかりで再申請は認められないとされた。これを受けた有吉は、就任からわずか2か月後の11月上旬に、「水害予防のために郡道を改修する」という名目で、旧橘樹郡道(南武沿線道路と多摩川沿線道路の間を走る道路)をかさ上げし、代用堤防として供用することを決定した。道路改修の名目だったので内務大臣の許可はいらず、神奈川県による正式な許可も翌年の1916年(大正5年)1月25日に下り、4月から工事が始まった。住民も喜んで工事に参加した。 ところが、多摩川をはさんで対岸側の東京府荏原郡の住民が内務省に工事中止を訴え、4月18日、内務省は河川法に基づく許可が必要な工事だとして中止命令を下した。有吉はこれを無視して工事を続行したが、ついに懲戒処分が下ってしまう。これでもめげなかった有吉は、逆に国を説得し、東京側の堤防よりも高さを低くするという条件の下で6月7日から工事が再開され、9月30日に竣工した。 竣工式が、12月18日に御幸村玉川尋常小学校(現在の川崎市立玉川小学校)で行われ、盛大な祝賀会が開かれた。当時の羽田橘樹郡郡長は有吉に感謝し、有吉の名にちなんで「有吉堤」と名付けられた。一方、有吉堤によって、中丸子の渡しは消滅してしまい、一部の耕作地も失われた。
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