下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 20:17 UTC 版)
下流域では、忠清北道陰城にある馬耳山(マイサン、472m)西斜面に発する美湖川と忠南燕岐(現世宗特別自治市燕岐面)の南西部で、また全北完州の烽燧台山(ポンスデサン、581m)東斜面に発する論山川と忠南論山の西部で合流する。途中、多数の文化遺跡が散在する百済の古都である公州・扶余一帯を流れた後、上述の通り韓国有数の穀倉地帯である論山平野を貫流し、群山と舒川の市郡境に開く郡山湾で黄海に注ぐ。下流域では、森林面積が50%を過ぎず、農地面積が37%にも達する。河口付近には水資源の確保および洪水対策として建設された錦江河口堰(朝鮮語版)(1,841m)がある。下流域は古来より農業が盛んで森林面積が少なく、洪水と渇水の被害が多く発生しており、その深刻な被害を食い止めるために、この河口堰と共に上流の竜潭ダム・中流の大清ダムなどが連携して水利調整を行い、水資源の有効的な管理運営に力を注いでいる。 日没時の錦江河口堰の写真。 錦江河口付近に2018年12月27日に開通した冬柏大橋(朝鮮語版)(トンベクテギョ)。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 05:34 UTC 版)
津田山をくぐる平瀬川トンネルを抜けて下流域に入ると、沿川風景が一変する。民家と中小規模の工場等が隣接する準工業地域となっているが、近年は工場撤退跡に大型マンションを建設する例も目立つようになった。 この付近には、かつて「久地梅林」と呼ばれる梅林が広がっており、往時はJR南武線久地駅が「久地梅林駅」と称し、また今でもこの付近のバス停や交差点の名前に「梅林」の地名が残っている程だが、しかし都市化に伴う宅地開発の煽りを受けて次第に梅林は狭まり、今では極一部を残すのみとなった。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 14:50 UTC 版)
大内地区の下流域では勾配が約1/250の天井川となって、県道67号、東名高速道路の下をくぐる。さらに300m南東に流下して静清バイパスの下をくぐると、能島の高部みずべ公園内で巴川と平行する。同公園には塩田川・巴川・薬師沢川の3河川を跨ぐ巴流大橋があり、世界でも珍しい主塔を傾けた斜張橋として、地域のランドマークとなっている。 塩田川の位置(「今昔マップ on the web」より作成) 不動明王の滝(静岡市清水区梅ケ谷) 水車小屋(静岡市清水区梅ケ谷) 塩田川中流(静岡市清水区押切)
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下流域(大崎平野)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 20:00 UTC 版)
大崎平野周辺の地形図。画面左上隅から中央へ向かうのが江合川本流。 この城下町(旧岩出山町の中心街)を過ぎると、江合川は沖積地に出る。これは江合川や並走する鳴瀬川が形成したもので、大崎平野と呼ばれ、その土壌は肥沃な「大崎耕土」と美称されている。 川はそのまま南東へ向かい、旧古川市の中心市街地の北縁を流れている。「江合川」の呼称は古川市の江戸時代以前の古称「江合村」に由来するものである。その頃も、江合村の上流側と下流側の両方では、かつては「玉造川」と呼ばれていた。 江合川は、江戸時代以降、大崎平野を広大な穀倉地帯へ変えるための水源として利用され、収穫した米の輸送にも用いられた。しかしその一方で、この開拓は江合川と並走する鳴瀬川や、北上川(旧北上川)とその支川による洪水との戦いでもあり、江合川自身も氾濫によって流路を何度か変えた。不確かな記録ではあるが、旧古川市付近で鳴瀬川と合流し、南へ向かって石巻湾に注いでいた時期もあったともされている。また、これとは反対に、伊達政宗の時代には東で迫川と合流して北上川に注いでいた時期もあるという。 明治時代にはこれらの河川の総合的な改修が計画もあったが、上流の玉造郡と下流の遠田郡との利害の調整がつかず、ほとんど実現しなかった。1922(大正11)年から旧古川市の福沼付近から分流する新江合川が開削され、鳴瀬川への放水路の役割を果たしたのが、わずかに実現したものである。 こうした氾濫問題の抜本的な解決として、北上特定地域総合開発計画により築かれたのが鳴子ダムであり、その完成をもって大崎平野の洪水問題は終息をみた。新江合川も、今では流量調節の機能はほとんど果たしていない。 現在の江合川は、篦岳丘陵の南麓を東流し、石巻市の神取橋付近で旧北上川に注いでいる。この旧北上川は、かつては北上川本流だったものだが、明治末期から昭和初期にかけて新河道をつくり、新しい「本流」は北上川として追波湾へ注いでいる。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 02:29 UTC 版)
ジークブルク付近でジーク川は山間地方を抜け出す。ここには堰も設けられている。この付近は洪水を起こしやすく実際何度も起こっているのだが、川沿いには大規模な草地や湿地が広がっており、ライン川とは違い、町が被害を受けることはほとんどなかった。こうした箇所は、洪水以外の通常時にはハイキングコースやサイクリングコースになっている。川自体はカヌーツアーに愛用されている。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 14:28 UTC 版)
下流域ではチベット高原からアッサム州を流れてきたブラフマプトラ川と合流し、さらにその下流でバングラデシュ北東部を流れるメグナ川と合流する。また多くの分流を作り、バングラデシュへ入り、ベンガル湾へ流れ込む。下流部ではブラフマプトラ川、メグナ川および分流により広大な三角州地帯を形成する。 分流のうち代表的なものには、コルカタ付近を流れるフーグリー川、バングラデシュに流れるポッダ川(英語版)がある。流量が最も多いのはポッダ川であり、現在ではこの川が本流となっている。フーグリー川はガンジスからの水のほか、西のジャールカンド州から流れてきた最大支流ダーモーダル川をもあわせ、サーガル島付近でベンガル湾へと注ぎこむ。16世紀まではフーグリー川がガンジスの本流であった。ガンジス川デルタは、ほとんどが標高数mしかない低地であり、自然堤防をなす河川間の小高い土地でも標高50mは越えない。ガンジス川の本流・支流がデルタに運んでくる土砂は毎年25億トンにものぼる。下流域においては勾配が少ないことと3大河川が合流することによる流量の巨大さ、さらに主にブラフマプトラ川によるチベット高原からの膨大な量の土砂の堆積によって流路が安定せず、そのため鉄道や道路の整備が困難であるため、この地域ではガンジス本支流の水運が重要な役割を果たしている。バングラデシュ国内だけで河川水路は3100kmにのぼり、国内の物資、人員の移動の4分の3を占めるまでになっている。また、流量の変動が著しいことと勾配がほとんどないこと、流路の不安定さから特に下流域においては洪水が多発し、バングラデシュの問題の1つとなっている。 しかし、ガンジス川の最下流部では少し様相が変わって、流路は比較的安定している。氷河期にはベンガル湾の水位は現在より135m以上低かったとされており、この関係で、当時はその低くなっていた海面に各支流が注ぎ込んでいたため、現在の海岸部近くでは、河道は深くなっている。このような理由で、河道が現在の海水面よりも深く刻み込まれているため、デルタの上流部に比べれば河道変更は起こりにくい。ただし、今度はガンジス川下流デルタは低平であるため海から満潮時には潮汐が起こることがあり、ガンジス・ブラフマプトラ川合流点から上流30kmあたりの地点までは潮汐が観測できる。特に海岸部近くでは潮汐の影響を強く受け、乾季には塩害が起こることも多い。また、サイクロン時には高潮の被害もしばしば受ける。なお、ベンガル湾に近いデルタ地帯は世界遺産に登録されているシュンドルボン(ベンガル語で「美しい森」の意。)として知られる世界最大級のマングローブ林で、ベンガルトラの生息地の1つである。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 16:20 UTC 版)
城北中央公園の途中で板橋区に入り、桜川一丁目で田柄川を合わせて、川越街道(国道254号)・旧川越街道・東武東上線・中山道を横断し、JR埼京線 (赤羽線)を潜って北区に入る。その後、京浜東北線 (東北本線)王子駅の下を抜けて北区堀船三丁目で隅田川に注ぐ。石神井川は金沢橋付近(埼京線の上流約200 m)から音無橋にかけて音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていた。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっていて、屈曲部の直線化や飛鳥山隧道建設などの改修によって流路も大きく変わっている。直線化の結果残った旧流路の一部は、氷川町つりぼり公園・音無もみじ緑地・音無さくら緑地などとして整備されている[要出典]。
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下流域(板橋区・北区)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 16:20 UTC 版)
稲付用水 現在の板橋区常盤台1丁目付近から「中用水」「北耕地川」などと呼ばれた用水が北に分岐した。かつては稲付川とも呼ばれたが、現在はほとんどすべてが暗渠化されている。 谷端川放水路 石神井川の南側を流れていた谷端川は、かつては水道橋付近で合流する神田川の支流だった。この上流部の流路が大きく蛇行する板橋大山付近では大雨によりたびたび氾濫していた。この対策として1925年、下板橋付近から中山道の尾根の下を通し、北側の石神井川へ向けて放水路が開削された。 石神井川の渓谷 石神井川は現在の板橋区加賀付近から谷の底を深くして王子へ続く蛇行した渓流となっていた。この渓谷は「石神井渓谷」「滝野川渓谷」「音無渓谷」などとよばれていた。滝野川の町境の北側が石神井川上から一部半円状に外れる部分はかつての流路で、現在「音無さくら緑地公園」になっており、江戸名所図会『松橋弁財天窟 石神井川』に描かれる江戸の名所だった。現在は川岸は整備されてかつての渓谷の風情はない。 王子石堰 江戸時代の明暦2年(1656年)、永田九郎兵衛の普請により現在の音無橋付近に石積みの堰堤(石堰)を設置した。これは、隅田川からの海水の遡上の防止と、旧石神井川河道を流れる谷田川流域への利水のためである。石樋を落ちる石神井川本流は王子の大滝などと呼ばれ、王子七滝とならぶ名所として絵図にも書かれた。堰からは用水が引かれ、一方は尾久村や三河島村へ通水され(石神井用水)、もう一方は滝野川村へ通水された(こちらは石神井川から流れ出ているために「逆川」と呼ばれ、醸造試験所のあった付近は「字逆サ川前」となっていた)。 飛鳥山分水路 かつては音無渓谷は王子駅付近は飛鳥山(上野台地)と北側の王子稲荷のある高台との狭い間を通って東へ流れていた。 1969年3月に完成した。旧流路は、音無親水公園となり、現在は汲み上げた地下水が流されている。 この後、石神井川は王子駅の直下を通り東側の豊島の低地へ抜けて隅田川へ注いでいる。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 15:17 UTC 版)
セントジョンズ川とオクラワハ川の合流点から大西洋までの101マイル (163 km) が下流域であり、パットナム郡、セントジョンズ郡、クレイ郡、デュバル郡に広がる2,600平方マイル (6,700 km2) が流域である。この流域では12の支流が合流する。セントジョンズ川はジョージ湖の北端でかなり広がり、ジョージ湖とパラトカ市の間で幅が600フィートないし2,640フィート (180 - 800 m) となる。パラトカ市とジャクソンビル市の間ではさらに広がって、1マイルないし3マイル (1.6 - 4.8 km) となる。この部分は航行が可能であり、船舶による輸送が主用途である。アメリカ陸軍工兵司令部が航路を最低水深12フィート (3.7 m)、幅100フィート (30 m) で維持している。パラトカ市の北では、水深40フィート (12 m)、幅400フィートないし900フィート (120 - 270 m) に拡張される。 下流域の町や市はフロリダでも最古クラスのものであり、その歴史は川を中心にしたものである。パラトカとグリーンコーブスプリングスは過去に人気ある観光地だった。川沿いの小さな場所数か所が渡し船船着き場近くに出現したが、鉄道が開通しさらに州間高速道路が大西洋岸近くに建設されると、それらの町の多くが経済的に減退し船着き場は忘れられた。 セントジョンズ川の下流最後の35マイル (56 km) は、アメリカ合衆国本土の都市として面積最大、人口も100万人を超えるジャクソンビル市を流れている。ジャクソンビル市の経済基盤の多くは川に依存している。毎年1,800万ショートトン (16,000,000 t) の貨物がジャクソンビルで積み下ろしされている。輸出品としては、紙、リン酸塩、農薬、かんきつ類であり、輸入品としては、石油、コーヒー、石灰岩、自動車、木材がある。ジャクソンビル港は地元経済に13億8千万ドル貢献し、10,000人を雇用している。ジャクソンビル地域にアメリカ海軍が基地2か所を持っている。セントジョンズ川の河口にあるメイポート海軍補給基地は大西洋艦隊の基地としては第2位の大きさであり、国内の母港となっている。ジャクソンビル海軍航空基地は航空基地として最大規模であり、航空2個戦隊が駐屯し、150機を超える固定翼と回転翼の航空機があり、フロリダ州に2か所のみ残るフル装備の海軍病院がある。 私が美の簡潔な場所と時を永遠に保持できるならば、セントジョンズ川の高く寂しい岸での夜を選ぶことだろうと思う。 - マージョリー・キナン・ローリングス 『クロス・クリーク』 ジャクソンビル市は「川の市」という非公式なニックネームがあり、セントジョンズ川の文化の中心になっている。毎年開催されるゲイトリバー・ランという競走には18,000人が参加し、川に沿ったコースを2回走る。アメリカ合衆国で最大のキングフィッシュ釣り大会は、セントジョンズ川の支流で開催され、キングマッケレル、スギ、シイラ、カマスサワラを対象にする。NFLアメリカンフットボールのジャクソンビル・ジャガーズの本拠地球場は川に面しており、また中心街の商業地の大半も同様である。ジャクソンビル市内ではセントジョンズ川に8つの橋が架かっている。その全てを大型船が通過できるが、列車や自動車の通行量が多いときはその通過時間を制限している。 潮汐により海水がセントジョンズ川の河口に入り、中流域まで川の水位に影響を与えている。その結果、市内の川の多くは海水であり、三角江の生態系にしている。この生態系の動物や植物は淡水も海水も受け入れられ、塩分濃度と温度の変化が潮の変化や豪雨の際の排水に関わっている。イルカやサメなど海洋性動物がジャクソンビル市内のセントジョンズ川で見られることがあり、マナティも同様である。ヒメジ、カレイ、シャッド、ワタリガニなどの魚類、甲殻類は大洋から淡水の泉まで回遊して産卵する。 淡水の無脊椎動物は藻類やその付着生物の中に生息し、中下流域の食物連鎖の基礎を作るが、動物プランクトンや植物プランクトンが三角江生物の役割を果たしている。軟体動物がセントジョンズ川の三角江に大量に集まり、川底や大洋底で餌を取る。牡蠣の豊富さと重要さは、ティムクア族が高く残した多くの貝塚で明らかである。牡蠣やその他の軟体動物は水鳥の主要食糧源となる。川の水源からジャクソンビル市の南まで川岸に並ぶ大きな樹木は、市の東の潮沼で遷移を始める。メイポートは約20隻のエビ漁船が母港にしており、セントジョンズ川の河口から大西洋に出て行く。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 18:59 UTC 版)
生田川の流れは時代により変化しており、遅くとも1594年(文禄3年)頃には生田川は現在フラワーロードがある区間を流れるようになっていた。天井川となっていたことで、この両岸それぞれで集落が形成され、異なる文化が形成されてきた。神戸市が誕生する前には、西側が須磨まで「八部郡」、東側が現在の芦屋市まで「菟原郡」と区分されていたとおり、当時の生田川は、広域集落の境界をなすものであった。現在もなお、フラワーロードの東西で、街の雰囲気は異なる。ちなみに、1980年(昭和55年)に区域再編がなされて神戸市中央区となる以前の行政区は、フラワーロードより東側が葺合区、西側が生田区であった。 近世の生田川の川幅は80〜90mで交通の妨げになっており雨で氾濫することもあったという。幕末の開国で、京都に近い港として神戸(当時の「神戸」は、現在の神戸市中央区のフラワーロード以西、生田裔神八社の点在するエリアを指した。同じく明治時代に付け替え工事のなされる前の旧湊川が「神戸」の西の境で、その西が「兵庫」であった。)の開港が決まったが、開港にあわせて整備することとされた外国人居留地が、その位置から生田川の災害が発生した場合に大きな被害を被ることが予想された。早急な神戸の開港・神戸外国人居留地の整備が求められたことが追い風となり、加納宗七が約800m東側の現在の位置に生田川を付け替える工事をし、明治4年(1871年)に完了した。そのため現在の生田川を新生田川と呼ぶこともある。 旧生田川の河川敷は加納宗七に払い下げられ、これが同地域の地名「加納町」の由来になっている。なお、加納町歩道橋の一角には、ここにもとの生田川があったことを示す石碑が建てられている。さらに、この付け替え工事が終わり、天井川たる旧生田川が消えたことで、以後、神戸の市街地は、明治時代のうちに、それまでは田畑や林が広範囲を占めていた東側の旧菟原郡部へ急速に拡大していった。特に、旧菟原郡のなかで、もともとの「神戸」のあった旧八部郡にもっとも近い葺合村は、1889年(明治22年)に神戸市が誕生した当初から神戸市となっている。 下流域の河川敷にある生田川公園は桜の名所になっている。 生田川に公園ができたのは、生田川の付け替えの際ではなく、昭和に入り生田川を暗渠化したときである。生田川の暗渠化は市街地部分のほぼすべてについて行われ、1932年(昭和7年)に完成、この真上に道路や公園(布引遊歩道)を整備した。当時、神戸市は、市街地の交通機能改良などの目的で各地で河川の暗渠化を政策的に実施しており、鯉川や宇治川など、生田川に限ったことではなかった。しかし、1938年(昭和13年)の阪神大水害をもたらした大雨で流されてきた巨岩や巨木が生田川の暗渠の付け根に詰まり、行き場を失った泥水は旧生田川であるフラワーロードに濁流、周辺街区一帯に大きな被害をもたらした。この教訓から生田川の暗渠については撤去され、戦後になってから河岸に公園を再整備したものが今日の生田川公園である。また、同じく戦後に、六甲山系の北側と神戸市街地とを結ぶ新神戸トンネルの出入口が生田川河岸に整備され、生田川公園も数次変化してきたとともに、生田川両岸は交通の要衝にもなりつつある。
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下流域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 02:59 UTC 版)
福岡市博多区住吉のキャナルシティ博多近くから2手に分流して中州を形成。ここがいわゆる中洲地区であり、西日本最大の歓楽街として知られる。東側の分流が博多川であり、下流の須崎橋付近で本流と合流する。また、中洲の対岸が繁華街の天神となっている。 博多区築港本町と中央区那ノ津の境界から博多湾(博多港)に注ぐ。
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