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くだら 【百済】
〔「くだら」は日本における称で、大村を意味する古代朝鮮語によるという〕
(2)古代、朝鮮からの渡来人の住んだことから名付けられた地名。
(ア)奈良県北葛城(かつらぎ)郡広陵町の地名。
(イ)大阪市生野区あたりと推定されている古郡名。
はくさい 【百済】
ひゃくさい 【百済】
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百済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/31 00:07 UTC 版)
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| 百済 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 백제 |
| 漢字: | 百濟 |
| 片仮名: 現地語読み |
ペクチェ |
| 平仮名: 日本語読み |
くだら、ひゃくさい |
| ローマ字: | Baekje |
- 百済
- 百濟
-
← 
←
346年(前18年) - 660年
→ 
375年百済が一時的に占有した領域-
公用語 古代朝鮮語 首都 慰礼城
(前18–475)
熊津
(476–538)
泗沘
(538–660)
百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族[1]による国家(346年[2] - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。なお、日本語における呼称「くだら」の由来は不明であるが、古くは「くたら」と清んで発音していたらしい[3]。
目次 |
歴史
百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。
建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説まで様々な説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身であろうとされているが詳細は不明である。
民族と言語
民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余族の国家であったと言う説、またツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と被支配層(土民中心)の韓族であったとの2説がある[1]。
百済の支配層は扶余族であったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、26代聖王が538年に泗沘に遷都した後に国号を「南扶余」と自称していたこともあるからである。
『隋書』百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)」という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。
百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。
今言語服章略与高麗同
とあり、言語や服装などが高句麗とおおよそ同じであるとしている。なお新羅の言語は閉音節で発音が子音で終わるのに対して、高句麗と百済また倭では開音節で、母音で終わっていたとされる[4]。
『魏書』も『梁書』の記述を踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している。「臣と高句麗は源は夫余より出る」[5]との文より百済と高句麗は同族であると考えられていた。
李基文は、この呼称の違いは王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家であったことを示すものであり、この二重言語状態は高句麗と同じ夫余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した。この推定に基づけば、『周書』以前の史書が百済の言語を高句麗とほぼ同じと記したのは、支配層の言語である夫余系百済語の方に注目したためであるということになる。
満州族のルーツである女真族と扶余族のルーツは同じツングース民族の為、民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国は、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と記述している[6]。また、中国の歴史学者の李大龍は、百済は扶余族が建てた国である為、百済は中国民族が建てた国だと主張している[7]。中国の教科書では、高等教育出版社の『世界古代史』は、古朝鮮・高句麗・扶余は韓国の歴史ではないと、韓国史の始まりは統一新羅からとの主旨で記述しており、中国の100余りの大学で使用されている福建人民出版社の『中国古代史』では、扶余・高句麗・沃沮・穢貊は中国・漢代の東北地区の少数民族だと記述している[8]。そもそも、百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある[9][10]。
帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」も参照のこと
| 朝鮮の歴史 | |||||||||||
| 櫛目文土器時代 無文土器時代 |
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| 古朝鮮 | 辰国 | 檀君朝鮮 箕子朝鮮 衛氏朝鮮 |
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| 原三国 | 三韓 | 濊 | 沃 沮 |
漢四郡 | 高句麗 | ||||||
| 三国 | 伽倻 | 百済 | 高句麗 | ||||||||
| 新羅 | |||||||||||
| 唐熊津、安東 | |||||||||||
| 南北国 | 統一 新羅 |
安東 | 渤海 | ||||||||
| 後三国 | 新羅 | 後百済 | 後高句麗 | 渤海 | |||||||
| 高麗 | 双城 | 東寧府 | 耽羅 | ||||||||
| 李氏朝鮮 | |||||||||||
| 大韓帝国 | |||||||||||
| 日本統治時代 | |||||||||||
| 連合軍軍政期 | |||||||||||
| 大韓民国 | 朝鮮民主主義人民共和国 | ||||||||||
| * 朝鮮の君主一覧 * 大韓民国指定国宝 * 朝鮮半島を中国とみなす記述 |
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建国神話
百済の始祖については様々な系譜が伝えられているが、いずれも扶余につながるものとなっている。
- 『三国史記』百済本紀(逸失書がもととなっている部分であり朝鮮では正史とされるが編纂当時に偽書として扱われた経緯もある。朝鮮での説であり日本や中国などでは4世紀建国が一般[要出典])
- 前漢の鴻嘉3年(前18年)、高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚によって建国されたとされる。温祚の母は卒本扶余の王女であり、北扶余出身の礼氏の子である孺留(高句麗の第2代瑠璃明王)が太子となったため、温祚は南方に逃れ「十済」を起こした。この時、兄である沸流も一緒に南下して海浜に国を起こしたが、のちに自分の国が弟の国より繁栄してないことを恥じて自決した。結局その国も温祚の下に帰属し、百姓を受け容れたので国号は「百済」になった。これは扶余から色んな勢力が南下し国を起こしたが、軍事・経済的に優れた温祚勢力によって統合され、その結果として百済という国が作られたことを意味してるのであろう[誰?]。
- 中国の史書
- 『後漢書』『宋書』[11]、『梁書』[12]、『南史』『隋書』などが採録した百済建国伝説をまとめると、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあった扶余が王を立てて自立したものという。
- また晋時(317 - 420年)に高句麗が遼東を占領した頃(404年)に、百済もまた遼西・晋平の2郡を平定した(あるいは百済郡を置いた、またはその郡治は「晋平郡晋平県」ともいう)という(百済遼西経略説)。
前期、漢城時期( - 475年)
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである(『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている)。 その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたとされるソウルの風納土城、夢村土城がその遺跡と考えられている。
漢城時代の百済は拡大を続ける北方の巨人・高句麗との死闘を繰り返した。近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。
中期、熊津時代(475年 - 538年)
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる[誰?]。
後期、泗沘時代(538年 - 660年)
聖王によって泗沘に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求め、高句麗と争っていた唐は日本からの遣唐使を黄海に面した領土を獲得した新羅経由で帰国させるようになるなど新羅の要請に応え、朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(羅唐同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。
百済復興運動
唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉宮に遷った。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。
これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子であった扶余隆を熊津都督に任じた。その翌年の8月には就利山において扶余隆と新羅の文武王が劉仁起の立会の元に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた(『旧唐書』百済伝・『三国史記』新羅本紀)。後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは亡国である百済の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに高句麗最後の王宝蔵王の遼東都督任命と対比することが可能である。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国家ではなく羈縻国家として再建し、更に唐の軍事力を背景に残された新羅(鶏林大都督府・楽浪郡王)をも強引に羈縻体制に組み入れて、将来的には「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れていた可能性も指摘されている[13]。
これに反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争(羅唐戦争)に動員し、倭国とも友好関係を結んだ。西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安さえ危険な状態になった唐は、地理的にも遠方であり紛争続きで経営の困難な朝鮮半島の権益を放棄し、百済の故地は新羅の支配下に入った。新羅は百済故地に残留した百済の支配層を新羅の貴族階層へ取りこんでいくことで新羅支配の実効性を確保していった。ただし、前述のように扶余隆の子孫への帯方郡王任命は継続されており、唐は表向きは百済への支配権を主張する体裁を採っていた(『旧唐書』百済伝)。
倭国との関係
倭国との外交関係は、高句麗・新羅に比べて友好的であった。百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。さらに、広開土王碑でも倭について、百殘■■新羅を破り以って臣民と為す(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があることから、ここでいう「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたとする見解もある。
『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。有名な文化財には、軍事的援助の礼として、中国より伝来したとの説もあるが、百済から倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市の百済王神社は百済王氏の氏神を祭る神社である。この他にも、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社がある。また、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。また、兵庫県神戸市には扶余系にちなんで唐柩の地名が残る。なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。そもそも、百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある[9][10]。
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