近肖古王とは?

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書

初めての方へ

参加元一覧


用語解説|プロフィール|動画|文献|商品|全文検索|用例

ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

近肖古王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/04 22:57 UTC 版)

近肖古王
Baekje-monarchs(4-14).PNG
各種表記
ハングル 근초고왕
漢字 近肖古王
片仮名
現地語読み
クンチョゴワン
平仮名
日本語読み
きんしょうこおう
ローマ字 Geunchogo-wang
テンプレートを表示

近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)であり、第11代の比流王の第2子。中国日本の史書に初めて名の現れる百済王である。

目次

呼称

諡号(または追号)は第5代の肖古王と同じであるが、第6代仇首王と区別して第13代近仇首王とし、第4代蓋婁王と区別して第21代蓋鹵王の別名を近蓋婁王とするなど、同名の王の区別の為に「近」の文字が用いられている。[1]

三国史記』にはは伝わっていない。『晋書』では余句[2](余は百済王族の姓)、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。

治世

346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続けた。369年には雉壌(黄海道延白郡銀川面?)へ進駐してきた高句麗兵を急襲して5000の首級を挙げ、371年には太子(後の近仇首王)とともに高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させた。また372年1月には東晋に対して朝貢を行い、6月には鎮東将軍・領楽浪太守に封ぜられた。同じ頃、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。こうした対高句麗の外交戦略は、次代の近仇首王にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった。375年7月に高句麗が北部辺境の水谷城(黄海道新渓郡多栗面)を攻め落としたため、将軍を送って反撃したが勝てなかった。王は再び大軍を派遣して高句麗を討とうとしたが、不作の為に出征はできなかった。

開国以来文字が無かったため記述ができなかったが、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わったとする。

在位30年にして375年11月に死去した。

倭(日本)との関係

古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと論語などの書物を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。この照古王が年代から近肖古王に比定されているが、第5代の肖古王とする説もある。

『日本書紀』にも、肖古王の名があるが、年代からは近肖古王を指すと考えられている。

参考文献




  1. ^ これは日本の天皇に、鳥羽天皇の加後号として後鳥羽天皇という「後」の文字を付けた追号を持った天皇が存在するのと類似している。
  2. ^ 『晋書』の列伝にはいわゆる「百済伝」はなく、百済王余句の名が見られるのは『晋書』巻9・簡文帝紀・咸安2年(372年)正月条及び6月条である。




固有名詞の分類



近肖古王に関係した商品



近肖古王のページへのリンク
「近肖古王」の関連用語
1
92% |||||


3
56% |||||

4
54% |||||

5
50% |||||

6
50% |||||


8
36% |||||

9
36% |||||

10
36% |||||

近肖古王のお隣キーワード
モバイル
モバイル版のWeblioは、下記のURLからアクセスしてください。
http://m.weblio.jp/
» モバイルで「近肖古王」を見る
_ _   


近肖古王のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの近肖古王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2012 Weblio RSS