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三省堂 大辞林

三省堂三省堂

こうくり かうくり 【高句麗/高勾麗】

古代朝鮮一国中国東北部にいた扶余(ふよ)族の一支族建国(?-668)。313年楽浪郡を滅ぼし朝鮮北部領有427年平壌遷都広開土王好太王)以下三代(四世紀末から六世紀)が最盛期。唐・新羅連合軍に滅ぼされた。高麗(こま)

こくり 【高句麗】

こうくり(高句麗)」の転。

» (成句)高句麗もくり遁げる


歴史民俗用語辞典

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高句麗

読み方:コマ(koma)

古代朝鮮国名

別名 句麗、高麗、貉、穢貉、貊、



ウィキペディア

ウィキペディアウィキペディア

高句麗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/06 06:05 UTC 版)

高句麗
Three Kingdoms of Korea Map.png
三国時代の地図、5世紀後半頃
各種表記
漢字 高句麗
平仮名
日本語読み
こうくり
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高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)は、いまの東三省南部から朝鮮北部にあった国家であり、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。煬帝太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅の連合軍により滅ぼされた。後述の王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

目次

国名

満州の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊 粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府
上京道   東丹 女真
中京道 定安
東京道
東京路
上京路
東遼 大真国
遼陽行省
遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
満州
 

東三省
ロマノフ朝
中華民国
東三省
ソ連
極東
満州国
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区
* 朝鮮半島を中国とみなす記述
Portal:中国

高氏の句麗」という意味である。「句麗」は「城」を意味する「溝婁(コル、クル)」から転化したとの説がある。後漢書には「句驪一名貊*(耳)*。有別種,依小水為居,因名曰小水貊。出好弓,所謂「貊弓」是也。」(高句麗は別名をと言う。小河に住んでいるため小水貊と呼ばれる別種がある。良い弓を産出する。いわゆる「貊弓」である。)と記されている。同じ扶余系の北沃沮は別名が「置溝婁」であり、「北城」「木城」を意味すると言う。

中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたことがわかる。中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初であることが、歴代正史の冊封記事から明らかになっている。以後は「高麗」が正式名称として認められていた。中国・日本の史書においては高麗と表記される例があるのはそのためである。後世(現在)、「高麗」の正名を廃してもっぱら「高句麗」の旧称を用いるが、これは王氏高麗と区別する便宜のためで、『三国史記』から始まる表現である。

歴史

漢の支配

紀元前1世紀中頃から漢の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むとして放棄され始め、替わって濊貊系濊族や貊族の夫余や高句麗勢力などを冊封する間接支配へ切り替えられた。この高句麗を形成した濊貊系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟牧畜を生業としていた民族とみられる。

建国神話

三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙というのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。好太王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。

卒本城時期

朱蒙が建国したとされる卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。建国後間もない2年後漢光武帝の下へ使者を送って朝貢した際、それまでの高句麗候から王へ冊封されている。しかし、3年には、第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都したと伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移った時期は、2世紀末から3世紀初めにかけてだと見られている。

丸都城時期

丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島の城でよく見られる。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、第8代の伯固王時代には遼東でも数度寇掠を働いている。しかし、それにより遼東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。

197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。219年に高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が侵攻してくると、高句麗は破られ村々が焼かれたたほか、伯固の長子拔奇,涓奴加ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。

高句麗は以前からに朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242年に西安平で寇掠を働き魏の将軍丘倹による侵攻を招いた。244年に1回目の侵攻が行われ、位宮王は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌丘倹は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが、翌245年に再び魏軍の侵攻を招く。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とした、東川王は南沃租へ逃げたが追撃を受け更に北の粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に再興し築城された首都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである[1]

その後も遼東半島への進出を目指し、西晋八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西前燕を建国した鮮卑慕容部慕容皝に首都を落され、臣従せざるを得なくなった。355年には前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶仏典仏像などを伝えられた。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死するなど危機に直面する。

391年に即位した19代好太王後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従を誓わせた。

このころ倭の朝鮮半島への進出が顕著となる。391年、倭が海を渡り百済□□新羅を破り臣民とした。393年、倭が新羅の都を包囲するなど、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。百済はいったん高句麗に従属したが、397年阿シン王の王子腆支を人質として倭国に送り国交を結び、399年、高句麗との誓いを違えて倭と通交した。このとき倭の侵攻を受けた新羅は高句麗に救援を求めてきたため、好太王は新羅救援軍の派遣を決定する。400年、高句麗軍が新羅に入ると新羅の王都に満ちていた倭軍は任那加羅に退き、高句麗軍はこれを追撃した。このとき新羅は朝貢国となった。402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結び、倭軍は404年に高句麗領帯方界まで攻め込んだが高句麗軍に敗れた。405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が倭国の護衛により帰国し、百済王として即位している。

5世紀長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王としていた北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。

平壌城時期

遷都直後は大城山城を拠点とし、しばらくしてから平壌城を居城とした。長寿王は西へ進出して遼河以東を完全に勢力下として手に入れた。更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島朝鮮半島の半ば、満洲南部と、最大領土を支配するに至り、高句麗の最盛期とされる。

しかし5世紀末になると盟下にいた新羅勢力が強くなり、百済と新羅の連合(羅済同盟)勢力により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。この頃の高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族突厥などとも手を結ぶ戦略を採っていた。

中国で北朝系のを滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するために突厥と結んだ。そのために隋からの4次にわたる遠征(麗隋戦争)を受けるが、全て撃退し、却って隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳である)。

隋が倒れてが興ると、今度は唐から遠征(麗唐戦争)を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。唐の太宗による2回の遠征、さらに高宗期の3回の遠征も撃退し、唐と争いながら百済と結んで(麗済同盟)新羅を攻めた。新羅と同盟関係にあった唐(羅唐同盟)は高句麗討伐の為に再度兵を起こし、660年に高句麗と友好関係にあった百済を滅ぼした。さらに663年白村江の戦いで百済残存勢力が事実上潰滅したため、高句麗は孤立した。

高句麗の淵蓋蘇文の死後に子らの間で内紛を生じると、それに乗じて唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降し、高句麗は滅亡した。

滅亡後

高句麗の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。

また北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。末裔は数度にわたって再興を目指したが全て失敗した。旧領に残った者は、後に勃興した女真に取り込まれていき、歴史から姿を消した。

朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。

また、高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社高麗川などの名にその名残を留めている。

日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。

朝鮮歷史
朝鮮の歴史
櫛目文土器時代
無文土器時代
古朝鮮 辰国 檀君朝鮮
箕子朝鮮
衛氏朝鮮
原三国 三韓
漢四郡 高句麗
三国 伽倻 百済  高句麗 
新羅
熊津安東
南北国 統一
新羅
安東 渤海
後三国 新羅 後百済 後高句麗 渤海
高麗 双城 東寧府 耽羅
李氏朝鮮
大韓帝国
日本統治時代
連合軍軍政期
大韓民国 朝鮮民主主義人民共和国
* 朝鮮の君主一覧
* 大韓民国指定国宝
* 朝鮮半島を中国とみなす記述
Portal:朝鮮








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