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かや 【伽耶/伽倻/加耶】

加羅(から)


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伽耶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/07 11:33 UTC 版)

伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・日本においては加羅又は任那とも表記された[1]。あくまで現代の韓国人が加耶と名づけた名称であって、文献上、考古学上は【加耶】という文字は存在しない。


  1. ^ 『宋書』、『日本書紀』など。
  2. ^ 浜田耕策「加羅(から)」
  3. ^ a b 菊地照夫「日本府」
  4. ^ 朝鮮学会編 『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)
  5. ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
  6. ^ a b c 1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いでおり(その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった(沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年)))、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」。また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の西隣であり、金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなうことが知られている。
    • 他韓国報道等の資料[1][2]
  7. ^ 朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア全体でも日本とミャンマーに限られ(門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社)、に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した(早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会)。
  8. ^ 前方後円墳は伽耶地域には発見されていない。前方後円墳が伽耶地域には発見されていないので任那日本府は成立しない。ヒスイが大量に出土したことだけで任那日本府があったとは言えない。三国史記と三国遺事に任那日本府は記述されていない[要出典]
  9. ^ 井上秀雄によれば、任那日本府とは、『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の百済高句麗新羅に対抗するために倭国(ヤマト王権)を懐柔しようとして迎合的に用いたものであり、『魏志』(『三国志』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を表していた「倭」と、日本列島の倭人の政権(ヤマト王権、のちに日本の国号を用いる)とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えるに過ぎず、実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れるという。(→井上2004 pp.106-107.)
  10. ^ 古代日本語においては「韓」の訓として「から」を用い、またの事を「おおから」と呼んだ事から、外国を意味する普通名詞としても「から」の言葉が使われるようになった。奈良時代より朝鮮半島との関係が絶たれ唐が唯一の外交相手国となったため、平安時代以降は、もっぱら「唐」の訓として「から」が使用されるようになった。室町時代後期に南蛮貿易を介して新たな文物が日本に来るようになってからも、「からいも」などのように外国一般を指す語として使われており、現在に至っている。 [要出典]
  11. ^ a b c d 吉田孝によれば、「任那」とは、高句麗新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、532年の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったという(→吉田1997 pp.74-78.)。
  12. ^ 宋讃燮、洪淳権(著)「概説 韓国の歴史 (世界の教科書シリーズ)(世界の教科書シリーズ(9))」藤井正昭(訳)ISBN 978-4750318424
  13. ^ 伴跛の現在地はかつては星州郡だと考えられていた。
  14. ^ 卓淳の現在地はかつては大邱広域市だと考えられていた。
  15. ^ 朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)では、西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を主張した。また、田中俊明は、倭との関係が深く百済と一定の距離を置いていた特定の首長層の墓と主張している。






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