新羅とは?

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しらぎ 【新羅】

慶州を都とした朝鮮最初統一王朝356~935)。四世紀中頃,斯盧(しら)国が半島東南部辰韓一二国を統合して建国。七世紀には唐と結んで百済(くだら)高句麗こうくりを滅ぼし半島統一支配確立,唐に倣(なら)中央集権化をはかったが,高麗こうらい太祖王建によって滅ぼされた。しら。しんら。シルラ

しんら 【新羅】

しらぎ(新羅)

新羅 (しらぎ)

日本古墳時代の頃、3つの国に分かれていた朝鮮半島の国の1つで、南東部にありました。684年には朝鮮半島全土支配しますが、935年にほろびました。


新羅

読み方:シラshira

古代朝鮮国名


新羅

読み方
新羅あらい
新羅しらぎ
新羅しんら
新羅にら

新羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/17 07:53 UTC 版)

新羅(しらぎ/しんら、紀元356年[3]- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった[4]。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。


  1. ^ 『旧唐書』新羅伝
  2. ^ 舊唐書/卷199上
  3. ^ 当然ながら、韓国の国定教科書では建国神話にもとづいた紀元前57年説を採用している。この点について、日韓歴史共同研究委員会の日本側メンバーである井上直樹は、報告書で、「新羅の場合も『(中学校用)国史』『(高等学校用)国史』ともに紀元前57年とする。これは『三国史記』に基づいたものであるが、『三国史記』が当該期の政治的意図から新羅中心に編纂され、新羅の建国時期を意図的に高句麗以前に設定したと考えられていることを前提とすれば、その内容を史実かの如く、教科書に記載するのは問題であろう」と批判している[1]
  4. ^ 武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」, 339-340頁
  5. ^ a b 武光誠『日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか』新人物文庫, 2010年, 21頁
  6. ^ 武光, 同書、22頁
  7. ^ 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院『朝鮮日報』2007年6月4日
  8. ^ ああ、高句麗 東亜日報 2007年8月18日
  9. ^ 『北史』新羅伝
  10. ^ 水谷千秋『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁
  11. ^ 金素雲「三韓昔がたり」
  12. ^ 新羅王室に関する年表
  13. ^ naverアメノヒボコ
  14. ^ 上垣外2003 p.70
  15. ^ →武田編著2000 pp.73-74
  16. ^ 日本書紀では、神武天皇の東征の折り、稲飯命は熊野沖で遭難して「わが母は海神の子なのになぜ海難にあうのか」といって海に没し錆持ちの神となったといい、古事記では単に「母の国として海原に入った」とのみある。
  17. ^ 仮に伝説上の人物を実在とみなした場合、伝承上の生存年代からみて、稲飯命は新羅の王族である朴氏・昔氏・金氏の始祖よりもはるかに古い時代となり、三始祖のいずれかが稲飯命と同一人物である可能性はないばかりか、「いわゆる新羅国」の建国よりはるかな以前に「先新羅・古新羅」のようなものがあったと想定せざるを得なくなるため、この伝承は古来かえりみられることがなかった。
  18. ^ 古事記は応神朝のアカルヒメ伝承の説明の一部として語っているために誤って応神朝のことと誤解しやすいが原文には「また昔〜」とあるだけで時期を明示はしていない。
  19. ^ 垂仁朝の但馬神宝検校事件の中で神宝の由来を述べるために天之日矛伝承を語っていたものが誤って本文に編入されたもので、伝承の原形の段階から垂仁朝に日矛が来たとあったわけではないと考えられている。
  20. ^ 風土記は日矛と大国主の争いという他にない伝承があり、天之菩比命との混同がみられる。
  21. ^ 日本側の伝承だけで考えれば、天之日矛は稲飯命の開いた新羅王朝(?)の子孫とみられるが詳細は不明である。
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 『三国史記』第1巻、金富軾 撰、井上秀雄 訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年。『三国史記』「新羅本紀」
  23. ^ a b 岩波文庫『日本書紀』(二)、1994年、2001年第八版)。
  24. ^ 上垣外2003 p.70。ほか但馬国、肥後国玉名郡とも比定される。
  25. ^ 上垣外2003 p.73
  26. ^ 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年、訳注
  27. ^ 日本書紀』巻九・神功皇后摂政前紀。岩波文庫「日本書紀」(二), 151頁注釈, (1994年、2001年第八版)。岩波文庫版『日本書紀』によれば、「波沙」は婆娑尼師今のことで、「尼師今」は王号で、すなわち「波沙」と「婆娑」は同一かとしている
  28. ^ 李成市 『東アジア文化圏の形成』 山川出版社〈世界史リブレット 7〉、2000年
  29. ^ 李成市『東アジア文化圏の形成』、山川出版社<世界史リブレット17>、2000年。『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000。および学習院大学東洋文化研究所 Web版『学東叢刊3 蔚珍鳳坪碑』参照
  30. ^ 秦氏参照。黒板勝美, 国史大系編修会編 『国史大系. 第1巻 上』 吉川弘文館、1966年。p276 また、秦の遺民説は、『後漢書』辰韓伝、『三国志魏書』辰韓伝、晋書に記述が存在している。
  31. ^ 一礼部を「一利郡」と解して慶尚北道星州郡星州面に比定する説がある。
  32. ^ 伊西古国とも。慶尚北道清道郡とも。
  33. ^ 上垣外2003, 110-113頁によれば、伊西国はのち、日本の下関のイツツヒコ王国と連合したとする。上垣外、同書107頁では、イツツヒコはこの伊西(イソ、イソゴ)国の王族に関連があったとする見解を提出している。
  34. ^ ここでいう楽浪・帯方は後漢西晋の郡ではなく、国名であり、黄海北道鳳山郡文井面と沙里院邑とに比定する説が有力とされる。(→井上訳注1980 p.66)
  35. ^ 新羅本紀・基臨尼師今10年条に「復国号新羅。」とあるが、基臨尼師今までの新羅本紀においては、始祖赫居世居西干即位紀において「徐那伐」と号し(第4代脱解尼師今金閼智を得たときに「鶏林」と号したことが見える。第17代奈勿尼師今の時代に前秦に朝貢してからは「新羅」が国際的に通用する国号となったと見られているが、第22代智証麻立干の時代にも国号を「新羅」と定めたという記事が見える。
  36. ^ ただし、急利はこの直前の訖解尼師今1月に阿飡の位に上がると同時に政務と軍事の統括を任されている。王の即位後すぐに有力者に政務と軍事とを委任する場合には伊伐飡(1等官)の官位に引き上げられることが多い。→儒礼尼師今2月条、味鄒尼師今2年正月条など。また、急利は314年1月に伊飡(2等官)に引き上げられている。
  37. ^ 宋書
  38. ^ 広開土王碑
  39. ^ 韓国では高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて「南北国時代」と呼ぶことで、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲沿海州を含めた領域と認識している。しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(東北工程)。
  40. ^ a b c d e f 三国史記』新羅本紀の記述より。田中史生『越境の古代史』ちくま新書、152-153頁
  41. ^ 北山茂夫「持統天皇論」『日本古代政治史の研究』1959年, 202-203頁
  42. ^ 『日本書紀』持統天皇元年三月丙戌
  43. ^ 『日本書紀』持統天皇元年四月癸卯
  44. ^ 『日本書紀』持統天皇三年四月庚寅
  45. ^ 韓奈末許満等12人。『日本書紀』持統天皇四年二月壬申
  46. ^ 『日本書紀』持統天皇四年八月乙卯
  47. ^ 『続日本紀』霊亀元年七月丙午
  48. ^ 『続日本紀』天平五年六月丁酉
  49. ^ a b c d e f g h 吉田孝『日本の誕生』岩波書店1997
  50. ^ 『続古事談』巻5・『塵添壒嚢鈔』巻5第23
  51. ^ 随員の雪連宅満は新羅到着前に既に病没していること、『三国史記』でも遣新羅使の新羅到着前後から聖徳王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出発段階で既に感染者がおり、その往復によって日羅両国に感染が拡大した可能性も指摘されている。笠原永遠男「遣新羅使と疫瘡」 笠原編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年
  52. ^ 和田軍一「淳仁朝に於ける新羅征討計画について(一)」 1924
  53. ^ 東野治之『正倉院』岩波書店1988
  54. ^ a b c d e 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 291頁
  55. ^ 「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」『三国史記
  56. ^ 岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。
  57. ^ 網野善彦『日本社会の歴史(上)』岩波書店、1997年、酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年
  58. ^ 日本後紀』による
  59. ^ 東野治之『正倉院』岩波書店、1988年、ISBN 4004300428
  60. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101
  61. ^ 『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記される区分に基づく。
  62. ^ 反乱の主体が政治的に律令制・貴族連合制のどちらの推進派であったかについては井上秀雄著『古代朝鮮』。
  63. ^ 貴族連合体制復活派の反乱としていた井上秀雄も、廉相・正門らは律令推進派とする見方にのちに転じている。→井上訳注1980 p.315 注65
  64. ^ 井上1972 pp.229-231.
  65. ^ 王家の祖廟を五廟としたことについては『礼記』王制篇「天子七廟諸侯五廟」に基づく。
  66. ^ 『旧唐書』211・新羅伝・貞元元年其年条
  67. ^ 『日本後紀』巻十二 延暦二十三年九月己丑条
  68. ^ 井上秀雄1972 p.236.
  69. ^ 日本後紀』巻二十五(逸文)嵯峨天皇弘仁七年(816年)冬十月:「甲辰。大宰府言、新羅人清石珍等一百八十人帰化。」
    同八年(817年):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等卌三人帰化。」
  70. ^ a b c d e 日本後紀』弘仁三年(812年)正月五日に出された勅における、12月28日の太宰府奏上
  71. ^ 日本紀略
  72. ^ a b c d e f g h i 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社。
  73. ^ 「新羅の一百十人、五艘の船に駕り小近島に着き、土民と相戦う。即ち九人を打ち殺し、一百人を捕獲す」『日本紀略』弘仁四年(813年)3月18日の条、およびその前後に記録された長崎県五島小値賀島への入寇をめぐる諸事項。
  74. ^ 日本後紀』弘仁四年(813年)3月18日に大宰府言上。肥前国司の今月四月解。
  75. ^ 『日本後紀』弘仁五年八月丙寅
  76. ^ 日本後紀
  77. ^ 『紀略』弘仁十一年(820年)2月26日条
  78. ^ 『日本後紀』巻卅二逸文(『類聚国史』一五九口分田)天長元年五月癸未
  79. ^ 井上秀雄1972 p.238.
  80. ^ 『三国史記』巻三十三・雑志二・色服条
  81. ^ a b c d 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 292頁
  82. ^ 『三国遺事』王暦では、839年1月22日に死去したとしている。
  83. ^ 井上訳注1980 p.385 注13
  84. ^ 日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)6月15日から十八年3月9日条。
  85. ^ a b c d 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 294頁
  86. ^ 『三代実録』貞観十二年九月十五日甲子
  87. ^ a b 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 265頁
  88. ^ →井上訳注 p.386 注24、p.387 注29
  89. ^ 日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条
  90. ^ 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。(辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。)
  91. ^ 主簿は厳密には高句麗の3等官という序列ではないが、主簿に続けて高句麗官位と新羅官位の対比を記した『三国史記』職官志下の記述から、3等官に相当すると見られている(→武田編著2000 pp.94-95)。あわせて高句麗#官制を参照。
  92. ^ ハングル表記はko:신라의 관직を参照。
  93. ^ 「飡」の文字について、書籍では「飡(にすいに食)」とするものが多いが、朝鮮の金石文では「(さんずいに食)」とするものが多い。(→井上訳注1980、p.35)『三国史記』の底本については、奎章閣韓國學研究院の影印本が「飡(にすい)」とし、慶州重刊本(1512年)を1931年に影印とした古典刊行会本(学習院東洋文化研究所の学東叢書本)が「(さんずい)」としている。
  94. ^ 『三国史記』35・地理志・溟州条には、溟州はもとは高句麗の河西良であり、分注には何瑟羅とある。新羅本紀や異斯夫伝の本文には何瑟羅州の名で現れる。
  95. ^ 元の比列忽州、後の朔州に相当する州の687年時点の名称について、井上1972は牛首州とするが武田2000により首若州とする。なお、『三国史記』35・地理志・朔州条では朔州の由来を、本文は善徳女王6年(637年)に設置した牛首州とし、分注文武王13年(673年)に設置した首若州とする。同書・新羅本紀では、善徳女王・文武王の本紀記事には州の改称についての直接的な記事は見られず、景徳王の本紀における地名改称記事(景徳王16年(757年)12月条)では、首若州を朔州としたとしている。また、牛首州の別名として「烏根乃」の記述がある。
  96. ^ a b 『三国史記』新羅本紀・神文王6年2月条
  97. ^ 百済故地に対する所夫里州の設置とほぼ同年のことと考えられている。(→井上1972)
  98. ^ 『三国史記』36・地理志・全州条は、完山州の設置を真興王16年(555年)とし、同26年(565年)にいったん廃止、神文王5年(685年)に再設置したとするが、対応する真興王本紀の記事には州治を比斯伐(慶尚南道昌寧郡)としていたり、6世紀中頃には全羅道は未だ百済の支配下にあるために、は下州の誤りであると考えられている。(→井上1980)
  99. ^ 菁州は神文王5年に既存の州から分割設置されたことについて、『三国史記』新羅本紀・神文王紀では「居烈州」からの分割とし、同・地理志・康州条には、「居陁州」からの分割とする。
  100. ^ 景徳王によって改めて南原小京と改称されたわけではない。他の小京は『三国史記』地理志の各条に改称記事が見られるが、南原小京のみ改称の記事が見られない。
  101. ^ 由水2001
  102. ^ 詳細は、日本の仏教仏教公伝を参照







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