恵恭王
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恵恭王(けいきょうおう、758年 - 780年)は、新羅の第36代の王(在位:765年 - 780年)であり、姓は金、諱は乾運。先代の景徳王の嫡男であり、母は舒弗邯(1等官)の金義忠の娘の満月夫人(景垂王后)。王妃は2人あって、先妃は伊飡(2等官)の金維誠の娘の新宝王后、次妃は伊飡の金璋の娘[1]。760年7月に太子に立てられており、765年6月の先王の死去に伴い王位に就いた。即位時の年齢は8歳であり、太后が摂政となった。在位中に貴族の内乱が頻発し、王自身も乱の中で殺害されるに至った。武烈王系の王統は恵恭王までで途絶え、次の宣徳王以降を新羅の下代という[2]。
- ^ 『三国遺事』王暦では、先妃を魏正角干(1等官)の娘の神巴夫人、次妃を金将角干の娘の昌昌夫人とする。
- ^ 『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記される区分に基づく。始祖から真徳女王までを上代、武烈王から恵恭王までを中代、宣徳王から末王・敬順王までを下代とする。
- ^ 『三国史記』祭祀志では、五廟の制度は金氏始祖の味鄒尼師今、新羅統一を果たした武烈王・文武王を不変の宗とし、祭祀者である王の祖父・父を加えて五廟とする。しかし『三国史記』新羅本紀において恵恭王紀には五廟の記事は見られず、もっとも早い例では神文王紀に見られるため、実際には五廟の制度は神文王時代に確立したものと考えられている。→井上訳注1980 p.282 注28
- ^ 後に井上秀雄自身も、金隠居に代わった廉相・正門らは律令推進派とする見方に転じている。→井上訳注1980 p.315 注65
- ^ 井上秀雄『古代朝鮮』日本放送出版協会〈NHKブックス172〉、1972年、229-231頁。ISBN 4-14-001172-6。
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