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武烈王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/05 02:37 UTC 版)

武烈王(ぶれつおう、朝鮮語:무열왕、602年? - 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)であり、姓は金、は春秋。父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の長女である天明姫(チョンミョン姫。後に文貞太后と追封)。『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀の分注ではこれを誤りと指摘している。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人・文姫(ムニ)であり、金庾信の妹に当たる[1]654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。韓国では古代の君主の廟号を受けた最初の君主でもある。


  1. ^三国遺事』王暦では王妃について訓帝夫人とし、文明王后はであるとする。
  2. ^日本書紀』巻25・孝徳天皇3年是歳条「新羅遣上臣大阿滄金春秋等、(中略)仍以春秋為質。春秋美姿顔善談咲。」とあるように、このとき金春秋は人質として日本に滞在したことが記されているが、『三国史記』には日本へ行ったという記述はない
  3. ^ 閼川は金庾信の活躍以前に高句麗戦などで活躍した武将であり、上大等毗曇の内乱を鎮圧した後に真徳女王によって上大等に任命されていた。
  4. ^旧唐書』巻211・新羅伝「(永徽)三年(652年)、真德卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王。加授開府儀同三司、封樂浪郡王。」
  5. ^ 当時の新羅の軍事力の中核は王都金城付近を地盤とする中央貴族の私兵であって、必ずしも新羅王が軍事力を掌握していたわけではなかった。百済討伐戦やその後の高句麗討伐戦における王の論功行賞は、下級の地方豪族や投降した敵将など、中央貴族の私兵として属していない層を重視しており、これらの階層が三国統一後の新羅王権を支えていくことになる、と見られている。(→井上1972)
  6. ^ 『三国遺事』紀異・太宗春秋公条には、哀公寺の東に葬られたとある。また死去の年齢が59歳であったと伝える。
  7. ^ 『三国史記』巻32・祭祀志。ただし巻9・恵恭王紀には対応する記事はみられない。


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