武烈王
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武烈王(ぶれつおう、603年 - 661年[1])は、新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)であり。姓は金、諱は春秋。
- ^ 日本人名大辞典+Plus. “金春秋”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2021年9月5日閲覧。
- ^ 金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 — 三国史記、巻四十一
- ^ 『三国遺事』王暦では王妃について訓帝夫人とし、文明王后は諡であるとする。
- ^ 『日本書紀』大化2年9月条
- ^ 『日本書紀』大化3年条
- ^ 『旧唐書』巻211・新羅伝「(永徽)三年(652年)、真德卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王。加授開府儀同三司、封樂浪郡王。」
- ^ 武田幸男 編 『朝鮮史』〈世界各国史〉山川出版社、2000年8月、78頁。ISBN 978-4634413207。
- ^ 北海学園大学「隋唐の北東アジア支配と倭国の政変」川端俊一郎
- ^ 当時の新羅の軍事力の中核は王都金城付近を地盤とする中央貴族の私兵の連合であって、必ずしも新羅王が軍事力を掌握していたわけではなかった。百済討伐戦やその後の高句麗討伐戦における王の論功行賞は、下級の地方豪族や投降した敵将など、中央貴族の私兵として属していない層を重視しており、これらの階層が三国統一後の新羅王権を支えていくことになった、と見られている。(→井上1972)
- ^ 『三国遺事』紀異・太宗春秋公条には、哀公寺の東に葬られたとある。また死去の年齢が59歳であったと伝える。
- ^ 『三国史記』巻32・祭祀志。ただし巻9・恵恭王紀には対応する記事はみられない。
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