文武王
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文武王(ぶんぶおう、626年 - 681年7月24日)は、新羅の第30代の王(在位:661年 - 681年)。姓は金、諱は法敏。
- ^ 『三国遺事』王暦では王母を訓帝夫人(諡されて文明王后)、王妃を善品海干(波珍飡の別称、4等官)の娘の慈義王后(または慈訥王后)とする。
- ^ または忠清南道論山市連山面、同魯城面などの比定説がある。
- ^ 『文武王』 - コトバンク
- ^ 熊津都督府の都督には百済の義慈王の子の扶余隆があてられていた。
- ^ 安勝は淵蓋蘇文の弟の淵浄土の子とも記される。
- ^ 同じ頃唐は西方で吐蕃との戦いに敗れていたこともあって、東方のみに力を集中することができなくなっていた。
- ^ 文武王の死後、神文王によって高句麗の旧官を大量に新羅の官位制に組み込んだ際にも、高句麗の官制の序列に従って新羅官制の序列下に組み入れられている。
- ^ 理法府そのものはすでに真徳女王の5年(651年)に設置された。文武王の設立した右理法府に対して当初の理法府を左理法府といい、令(長官)2人、卿(次官)2人であった。
- ^ 『三国遺事』巻2・紀異・万波息笛条の所収の『寺中記』による。感恩寺跡の三重石塔は大韓民国国宝第112号。
- ^ 『三国史記』巻8・新羅本紀・神文王紀、及び巻32・祭祀志。ただし巻9・恵恭王紀には祭祀志に対応する記事はみられない。
- ^ “흉노왕의 후손 김일제 유적을 찾아서”. 新東亜. (1999年8月). オリジナルの2017年8月22日時点におけるアーカイブ。
- ^ 趙甲濟 (2004年3月). “騎馬흉노국가 新羅 연구 趙甲濟(月刊朝鮮 편집장)의 심층취재 내 몸속을 흐르는 흉노의 피”. 月刊朝鮮. オリジナルの2012年1月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ “洗濯板として使われてきた新羅文武王陵碑の上部発見”. 中央日報. (2009年9月4日). オリジナルの2022年2月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ “김운회의 '대쥬신을 찾아서' <23> 금관의 나라, 신라””. プレシアン. (2005年8月30日). オリジナルの2012年1月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ “경주 사천왕사(寺)사천왕상(四天王像)왜 4개가 아니라 3개일까”. 朝鮮日報. (2009年2月27日). オリジナルの2014年12月30日時点におけるアーカイブ。
- ^ “제1회: 2부작 문무왕릉비의 비밀 - 제1편: 신라 김씨왕족은 흉노(匈奴)의 후손인가?”. KBS. (2008年11月22日). オリジナルの2012年5月24日時点におけるアーカイブ。
- ^ “제2회: 2부작 문무왕비문의 비밀 - 제2편: 왜 흉노(匈奴)의 후예라고 밝혔나?”. KBS. (2008年11月29日). オリジナルの2012年5月21日時点におけるアーカイブ。
- ^ “채널돋보기 신라 김씨 왕족은 흉노의 후손일까?”. 毎日新聞. (2008年11月21日). オリジナルの2014年12月29日時点におけるアーカイブ。
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