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淵蓋蘇文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/07/16 10:08 UTC 版)
(泉蓋蘇文 から転送)
淵蓋蘇文(えん がいそぶん、? - 665年)は、高句麗末期の宰相・将軍。泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。
『日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。これは姓の「淵(泉)」を高句麗語の訓読みで「いり(高句麗語で「水源」の意味と推察されている)」、同じく名の「蓋蘇文」を音読みで「かすみ」と発音したものを、日本側で聞き取ったまま文字化したものである。
『旧唐書』『三国史記』などに姓が泉(チョン)と記録されたのは唐の高祖の名(李淵)を避諱したものと言われる。
642年(栄留王25年)に北方に千里長城を築造し唐の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善をはかろうとしていた栄留王と、伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を立てて自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を掌握した最高官職)になって政権をとった[1]。しかし安市城の城主だった楊萬春が彼の権力集中を認めないと抗議したため直接軍隊を率いて安市城を攻撃した。しかし長期間攻撃をしても安市城を占領することができなかったので2人は結局妥協するに至った。淵蓋蘇文は楊萬春の職権を認め、楊萬春は新しい執権者である淵蓋蘇文を承認した。
淵蓋蘇文が自らに権力を集中した頃、高句麗は対外的に緊迫した情勢にあったが、このような情勢の中で強硬策を採り、高句麗に救援を要請しに来た新羅の金春秋(後の武烈王)を監禁し、新羅と唐との交通路である党項城を占領した。
644年(宝蔵王3年)、新羅との和解を勧告する唐の太宗の要求を拒否すると、これに激怒した太宗が弑君虐民の罪を問い、645年に17万の大軍を率いて高句麗に侵入した(麗唐戦争)。楊萬春が安市城でこれを阻止し、60余日間の防戦ののち唐軍を撃退した。その後にも4回の唐の侵入を受けたが、彼はことごとくこれを阻んだ。
一方、643年に唐へ使臣を派遣し、道教の道士8名と『道徳経』を持ちこむなど文化面でも功績を残した。
- 1 淵蓋蘇文とは
- 2 淵蓋蘇文の概要