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元号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/21 01:27 UTC 版)
(年号 から転送)
元号(げんごう)は、特定の年代に年を単位として付けられる称号である。年号(ねんごう)とも呼ぶ。
- なお日本の歴史学においては、「元号」と「年号」の定義を、「元号」が任意の年を元年と定めて数える紀年数のみを指すのに対し、「年号」はそれに付ける漢字名を指すとして区別することもあるが、一般には両者は混用されており、また中国では「年号」しか使われない。本稿では区別せず「元号」を使用する。
目次 |
総説
元号は紀年法の一種であるが、西暦やイスラム暦や神武天皇即位紀元(皇紀)などの紀元とは異なり、皇帝や王、天皇など天子(君主の称号)の即位、また治世の途中にも随意に行われる改元によって元年から数え直され、元号も改められるというシステムから成り立っている。上述の紀元と同様に「0年」は存在せず、元号の元年は「1年」に当たる。
天子が特定の時代に元号という名前を付ける行為は、天子の在位期間を基準とした在位紀年法に由来し、天子が空間と共に時(世)を支配するという思想に基づいており、「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。
元号が政治的支配の正統性を象徴するという観念は、元号を建てることにより既存の王朝よりも自らの正統性が優越しているか、少なくとも対等であることを示すことができるという意識を生んだ。そのため、時の王朝に対する反乱勢力はしばしば独自の元号を建てた。また時の政権に何らかの批判を持つ勢力が密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように後世から公認されなかった元号を私年号と呼ぶ。
中国王朝の政治制度を受容した周囲の王権は元号制度もともに取り入れているが、これも同様の発想に由来する。中国王朝から見れば、中国王朝を真似て、しかもこれと対等であることを示すために建てられた周辺諸国の元号は、やはり「私年号」であり、使用は許されないものであった。一方で周辺諸国の王権は中国王朝から冊封を受け、周囲の競争勢力に対する自らの正統性の保障としたが、冊封の条件の一つが「正朔を奉ずる」ことであったため、独自元号の使用と冊封は両立しない要素であった。この矛盾の均衡点は中国王朝と冊封国との力関係によって決まっており、地理的に近く何度も国土を占領されている朝鮮半島では独自元号が少ないのに対し、地理的に遠く、中国王朝との戦争に勝っているベトナムや、海を隔て、後には冊封すら受けなくなった日本では長期間独自元号が使用されている。
元号は漢字2字で表される場合が普通だが、まれに3字、4字、6字の組み合わせを採ることもあった。最初期には改元の理由にちなんだ具体的な字が選ばれることが多かったが、次第に抽象的な、縁起の良い意味を持つ字の組み合わせを、漢籍古典を典拠にして採用するようになった。日本の場合、採用された字はわずか72字であり、内21字は10回以上用いられている。
独自の元号が建てられた国家には、以下の項目に挙げる他、柔然、高昌、南詔、大理、渤海がある。また遼、西遼、西夏、金は中国史に入れる解釈もあるが、いずれも独自の文字を創製しており、元号も現在伝えられる漢字ではなく、対応する独自文字で書かれていた。
中国
- 中国における元号の一覧については、「元号一覧 (中国)」参照。
前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に、統治の初年に遡って「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。
武帝以前は王や皇帝の即位の年数によって、単に元年・2年とだけ数えられ、新しい王が即位すると改元されて再び元年から数えられる在位紀年法が用いられていた。治世途中での改元は文帝によるものが最初で、改元後は後元年・後2年(景帝は2度改元し、「中」「後」を用いた)とされた。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣(麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。
中国の元号は、中国王朝の冊封を受けた朝鮮・南詔・渤海・琉球などでもそのまま使われた(南詔・渤海は独自の元号も使用)。
明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。
1911年に辛亥革命によって清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。1916年に袁世凱が帝制(中華帝国)を布いた時には「洪憲」の元号を建てた。ただし、清室優待条件によって宣統帝溥儀は紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部では「宣統」元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。
満州国が1932年に建国すると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位すると「康徳」と改元され、1945年の滅亡まで続いた。中華人民共和国が中国大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用された。
一方、中華民国(台湾)では「民国紀元」が現在に至るまで用いられている。暦学的な厳密さを必要としない局面では、「民国」と表し、「宣統」の次の元号として扱われることが多い。
- ^ 改暦ノ詔書並太陽暦頒布(明治5年11月9日太政官布告第337号) 改暦詔書の全文
- ^ 1840年代から1860年代にかけては、藤田東湖など国学者が皇紀を用いていた。
- ^ 「日本の年号の一考察―平成の改元を中心に―」王福順(2007年9月)
- ^ 「元号に関する世論調査」
- ^ 「元号にかんする考え方は?(1999年11月6日)、日本共産党が西暦を使うのは?(2001年12月16日)」日本共産党中央委員会
- ^ 産経新聞では、国内の記事に関しては元号のみの表記をしている。産経新聞系列のサンケイスポーツも原則元号のみの表記であり、夕刊フジも同様であったが、2007年2月1日より原則西暦表記に変更している。
- ^ 昭和時代には行政庁の政策計画に“昭和7n年”(昭和70年代)なるものまで存在した例や、荒俣宏の小説『帝都物語』に“昭和73年”(1998年、実際の元号は平成10年)の用例がある。平成時代においても、高速道路の開通予定年度などで“平成3n年”(平成30年代)なるものが存在している。また運転免許証の有効年月日が「昭和66年」(当時は3年有効のみ)といった存在しない年度のものを使用していた者も当時は少なくなかった。極端な例では「昭和230年」(西暦2155年)と表記したものも見られた。厚生白書(昭和49年版)
- ^ 若者の被告が相手の裁判 「元号」で検事困る[リンク切れ]
- ^ 1989年に発行された硬貨がこの例に当てはまる。昭和天皇の崩御後も、「平成元年」の金型が出来上がるまでの期間は、刻印の製作が完了していなかった50円と100円硬貨以外の額面の硬貨は「昭和64年」の刻印で発行された。また平成最初の日である1989年1月8日が日曜日であり、新聞社によってはあらかじめ印刷されていた日曜版を後日配達したため、その日付けが「昭和64年1月8日」という幽日になった。
- ^ 「昭和元年6月1日」ひよっこ支部長の司法書士ブログ(BLOG)、2005年2月23日
- 1 元号の概要
- 2 ベトナム
- 3 コンピュータでの処理
- 4 参考文献
「年号」の用例一覧
宮本百合子 新年号の『文学評論』その他 (青空文庫)
宮本百合子 新年号の『文学評論』その他 新年号の『文学評論』その他 宮本百合子 内外の複雑な関係によってプロレタリア作家が組織を解体してから、ほぼ一ヵ年が経過した。その...
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年號ヲ光武ト改ムルノ件 (Wikisource)
ごうをこうぶとあらたむるのけん ) 開国506年8月14日奏本 出典: 度支部大臣官房『現行韓国法典』1910年(隆熙4年) 常用漢字表記: 年号ヲ光武ト改ムルノ件 註: 本文は朝鮮語をルビとして振られている日本語に置き換えている。 本文...
ja.wikisource.org/wiki/年號ヲ光武ト改ムルノ件
年號ヲ建陽ト建ツル件 (Wikisource)
ごうをけんようとたつるけん ) 開国504年11月15日奏本 出典: 度支部大臣官房『現行韓国法典』1910年(隆熙4年) 常用漢字表記: 年号ヲ建陽ト建ツル件 註: 本文は朝鮮語をルビとして振られている日本語に置き換えている。 本文...
ja.wikisource.org/wiki/年號ヲ建陽ト建ツル件
- 伏虎像の謎に迫る!【新年号5部34面】/和歌山わかやま新報
- 吉報届くか智弁&向陽【新年号4部22面】/和歌山わかやま新報
- 地方紙新年号ずらり 15日まで宮日会館で - 県内のニュース宮崎日日新聞
年号に関連した本
- 歴代天皇・年号事典 吉川弘文館
- エロ語呂世界史年号 (エロ語呂暗記法) 江口 五郎 社会評論社
- 日本歴史年号暗記かるた (社会科常識シリーズ) 学習研究社
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