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曹叡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/30 11:18 UTC 版)

曹叡(そう えい)は、三国時代の第2代皇帝




  1. ^ 『三国志』「魏書明帝紀」、景初元年6月。
  2. ^ 『魏書』「明帝紀」では享年36歳としており、それに従うと204年生まれということになるが、「文帝紀」に「(延康元年五月)封王子叡為武徳侯」とあることや、母甄氏が曹丕の妻となったのが建安9年8月であることから、『三国志』の注釈者裴松之は正しくは享年34歳であるとしており、それに従うなら206年生まれということになる。一方、『三国志集解』の著者盧弼は延康元年(220年)以前から武徳侯になっていることを指摘し、享年36歳が正しく、したがって曹叡の実父は曹丕ではない、という説を唱えている。
  3. ^ 魏略
  4. ^ 魏末伝
  5. ^ 曹芳は養子。曹叡は全ての実子に先立たれてしまっていた。娘を葬る際の祭礼の様式が限度を超えていると臣下から諫言されても強行したという逸話がある。
  6. ^ 『献帝春秋』によると、秦朗は曹操の秦夫人の連れ子であり、実父は呂布の将秦宜禄。『魏略』によると、宮中で曹操の子等と兄弟同然に育てられ、曹叡と非常に親しかったという。
  7. ^ 『漢晋春秋』によると、司馬懿は撤退する蜀軍を追撃しようとしたが、蜀軍の士気の高さに驚き追撃を中止した。この事から「死せる諸葛(諸葛亮)、生ける仲達(司馬懿)を走らす」という諺が生まれた。
  8. ^ Wikisource-logo.svg 司馬光: 資治通鑑 - ウィキソース
  9. ^ 「曹魏明帝の『宮室修治』をめぐって」(『東方学』111)のち『六朝政治史の研究』〈東洋史研究叢刊〉京都大学学術出版会、2003年
  10. ^ 楊阜や高堂隆は、人事についてもしばしば直言をもって曹叡を諫め、ために勑勘を被ったことも多かった。
  11. ^ 原文「沈毅剛識、任心而行。蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊、四海分崩、不先■修顕祖、闡拓洪基、而遽追秦皇・漢武、宮館是営、格之遠猷。其殆疾乎」
    ※原文における■にあたる字は、律の行人偏のない「聿」であり、発音はイチ・イツ。
  12. ^ 原文「情繋私愛、撫養嬰孩、傳以大器、託付不專、必參枝族、終于曹爽誅夷、齊王替位」
  13. ^ 『原文「優礼大臣、開容善直、雖犯顔極諫、無所摧戮、其君人之量、如此偉也。然不思建徳垂風、不固維城之基、至使体験偏処、社稷無衞、非夫」
    維城の語は『詩経』の大雅、生民編に「宗子維城」(宗家の嫡男はこれ城なり)として存在する。


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