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こうかん 【後漢】
ごかん 【後漢】
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後漢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/10 16:08 UTC 版)
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| * 中国の歴史年表 * 朝鮮半島を中国とみなす記述 |
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後漢(ごかん、中国語:东汉、拼音:Dōnghàn、25年 - 220年)は中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と紛らわしいので、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。
目次 |
歴史
前漢は王莽により簒奪されたが、王莽の政治は周代を模して現実からは遊離していたために、国内は混乱し外交でも失敗し、故に外征を行わざるを得なくなり、それも失敗し、収拾のつかない状態になった。この状況で、現在の山東省で呂母の乱が勃発したのを皮切りに全国で反乱が起こり、最終的に南陽(現在の河南省南陽市)の皇族傍系の地方豪族である光武帝により平定された。(新から後漢への移り変わりは新末後漢初を参照)
銅馬や赤眉など多くの民衆叛乱を吸収して自らの勢力とした光武帝は、民衆は疲弊し、それが兵糧を給じる軍兵は相対的に多いため、材官、騎士、都尉などの地方の駐在軍を廃止し、徴兵制から少数の傭兵制へと切り換えた。また本来は中継ぎが役目である尚書を使い、三公ら大臣の権力を奪い皇帝へと集中させた。しかし後に皇帝が若くして亡くなると権力は真空となり、皇帝の権力を利用できる宦官と外戚による権力争い、それに儒教の振興による地方豪族出身の知識人官僚の反抗が展開された。政局の混乱に耐えかねて民衆叛乱が頻発するようになっても、地方軍備の欠如が裏目に出て為すすべがなかった。
光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が、跋扈将軍と揶揄される程専横を極めた外戚梁冀を誅殺してからは完全に宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭い後漢の衰退を止めることは出来なかった。
外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾の乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る(詳しくは「三国時代」を参照)。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡状態であり、権力は無いも同然であった。220年、曹操の子曹丕により、献帝は禅譲を強要されて、後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。
献帝(劉協)は魏によって山陽公に封じられ、その死後は孫の劉康が跡を継いだ。魏に取って代わった西晋でもこの待遇は引き継がれたが、劉康の孫である劉秋の代に、永嘉の乱で漢(匈奴)により殺害され、直系の子孫は絶えた。
魏では漢王朝の宗室は禁錮(公職追放)の扱いを受けていたが、西晋成立後の266年解除された。
特徴
幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官がやはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因であるが、もとを正せば、宦官を重用した和帝と短命の血筋を有した劉家がすべての原因であると言える。
この王朝の皇帝は極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝(19歳で即位)と少帝弁(17歳で即位)の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(享年63歳)である。
政治
後漢の政治体制は基本的に前漢から引き継いでいるので前漢の項も参照すること。
前漢から後漢に推移する時の騒乱により、中国全体の人口は激減していた。前漢末期の2年の記録が人口5767万だったものが、後漢初めの57年には2100万にまで激減している。その後は徐々に回復し、100年後の157年には5648万にまで回復している。しかし黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1616万と言う数字になっている。動乱の途中ではこれより少なかった。
この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている)。とは言っても激減であることは確かであり、再び中国の人口が6000万の水準に戻るのは北宋まで待たねばならない(ただし6000万足らずが当時の中国の人口の限界点であったとも考えられる)。
このように人口の激減があったことを後漢初期と末期の政治・経済について考える時は忘れてはならない。
官制
後漢の三公は太尉・司徒・司空(初期は大司馬・大司徒・大司空)であり、それぞれ前漢の太尉・丞相・御史大夫に相当する。しかし後漢の政治特徴として宦官の重用による側近政治が強くなったことがあり、皇帝の秘書役であった尚書が実質的に政治を動かすようになり、三公は実行機関に過ぎなくなっていた。
地方制度の主な変更は前漢武帝期に創設された郡の長官である太守を監察する役職である刺史である。刺史は600石の秩禄であり、2000石の秩禄である太守に及ばない。これは不都合であるため、元帝の頃に2000石の州牧と替った。何度か刺史と州牧の制度が入れ替わり、時には刺史と州牧は並立していた。しかし、州が地方行政の最高単位となり、刺史には軍権が無いため、後漢も末期になって地方反乱が続出するようになると、軍権を併せ持つ州牧が地方行政の最高役となった。
牧の民政と軍権を併せ持つ権限は強大な物であり、州牧は後には地方の自立勢力となる。黄巾の乱以降の群雄達はほとんどが牧を経験している。
外戚と宦官
第4代和帝は9歳で即位し、皇太后竇氏が垂簾政治を行い、その兄の竇憲らが専権を奮った。その後、和帝は宦官の力を借りて竇憲たちを誅殺する。これが後漢の外戚と宦官の台頭の初めである。
その後、第6代安帝の代にも和帝皇后の鄧氏一族粛清があり、第8代順帝の治世が開始するにあたっては皇后ら閻氏一族が宦官によって粛清されるなど、外戚と宦官との間で皇帝の擁立合戦が続く。第11代桓帝の時に、順帝の外戚であった梁冀が滅ぼされて以後は宦官が優勢となり、外戚勢力は一歩後退する。
地方権力を代表する豪族・外戚と中央の皇帝の側近である宦官との権力対立は深刻な物となり、豪族側は自らを清流・宦官のことを濁流と呼んで非難し、宦官側は豪族達を党人と呼んで弾圧して回った。
166年に司隷校尉(首都圏長官)の李膺が宦官の犯罪を摘発したことをきっかけとして第一次の党錮の禁(とうこのきん)が起きる。李膺を初めとした200余人が逮捕されたが、豪族勢力の働きかけにより釈放されて禁錮(禁錮刑のことではなく、官職追放されて以後仕官が出来ないということ)となった。しかし李膺たちは義士として称えられることになり、三君・八俊と言った人物の格付けを行った。
その後も世論、地方の豪族達による宦官非難の声は止まず、宦官勢力はこれに対抗するために169年に第二次の党錮の禁を起こす。今度は官職追放では留まらず、李膺は逮捕後に獄中で殺され、死者は百人を超えた。更に党人の親族縁者も禁錮とされ、太学の学生たちも逮捕された。
しかし黄巾の乱が勃発すると宦官たちには軍の指揮は出来ず、どうしても豪族達の持つ軍事力を使う他無くなり、禁錮を解いて黄巾党の鎮圧に当たらせた。鎮圧後には既に群雄割拠の下地が出来上がっており、宦官の勢力は189年に袁紹に十常侍たちが皆殺しにされたことで消滅した。
行政区分
詳細は「漢代の地方制度」を参照
- ^ 大秦はローマ帝国のことで、安敦はマルクス・アウレリウス・アントニヌスもしくは先代皇帝であるアントニヌス・ピウスに比定される。しかしローマ側の記録には使者を派遣したということが載っていないので、この使者と言うのは単なる交易商人に過ぎず、ローマ皇帝の名を名乗っただけではないかと考えられる。
「後漢」の用例一覧
後漢書倭伝 (Wikisource)
後漢書倭伝 - Wikisource 後漢書倭伝 提供: Wikisource 移動: ナビゲーション , 検索 ウィキペディア に 後漢書 のページがあります。 『後漢書』東夷伝倭 ( ごか...
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