農民反乱
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1919年、ヴォルガ川流域で大きな反乱が起き、1919年5月にはウクライナでG.グリゴーリエフの反乱に2万人が参加した。同年夏にはウズベキスタンのフェルガナで農民がイスラムと手を組み赤軍と戦った。 1920年には凶作となり、国の指定する面積への穀物の種付けが農民に強制された。重い負担に不満をもった農民は1920年、ロシアのタンボフ県や西シベリアで反乱を起こした。タムボフ県では凶作と過酷な穀物徴発で飢饉が発生し、8月19日に徴発に反対する社会革命党のアレクサンドル・アントーノフが反乱を起こし、1921年初頭には5万人以上の農民が参加、1000人以上の党員が殺害され、60か所の国営農場が破壊された。農民軍に参加した25-80%は、貧農と中農で、労働者と平等の投票権と農業用の土地所有を求めた。1921年5月にトゥハチェフスキーが指導する赤軍が鎮圧した。 1920年には南ウクライナでもネストル・マフノが反ソビエト農民運動を組織して蜂起、農民4万人が参加した。反ソビエトゲリラは1921年末まで続き、1921年には赤軍正規軍が投入され、毒ガス弾も使用した熾烈なゲリラ掃討戦が実行された。ソビエトは、ウクライナの民族感情の強さを踏まえ、ウクライナの「独立」を認める形で支配することとなった。 1921年1月には、西シベリアで5万5000-6万の農民が反乱し、2月13日にはアルメニア人が蜂起し、首都エレヴァンを占拠した。
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農民反乱
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「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事における「農民反乱」の解説
そのような状況下で、1918年夏ごろから農民反乱が始まった。ソヴィエト連邦存在時には、1918年から1921年の農民の反乱の原因は、単純な階級的理由とされていた。すなわち富農(クラーク)が起こしたもの、反ボリシェヴィキ政党の煽動によるものである。1990年代に入り、ロシアの研究者たちは、反乱は共産党の農民政策に対する農民の大きな不満から起きたものであり、ロシア内戦の一部であり、内戦の行く末を決める要因となったと見做すようになった。ブレスト=リトフスク条約による領土の割譲によって、人口3600万人と商品穀物の35%が失われ、内戦によりウクライナ、南ロシア、シベリアが共産党から離れた。ロシア共産党が掌握しているのはヴォルガ地方と中央黒土地帯だけであった。同地の農民からの食糧調達が激しくなるとともに、また農民反乱も増えた。1919年3月、ヴォルガ中流域で数十万人規模のチャパン戦争、1920年のフォーク反乱(黒鷲反乱)などが起きた。 ことに反乱が激しかったのはタンボフ県である。タンボフ県はモスクワにもっとも近い穀倉地帯で、1918年の秋以来、100件近い食糧徴発隊が入った。1920年には、食糧供出の割り当てが、1800万プード(1プードは約16.38キログラム、すなわち29万4840トン)から2700万プード(44万2260トン)に増えた。農民たちは、食糧を育てあげてもすぐに徴発されることがわかっていたため、作付面積を減らした。割り当てを達成すると飢餓に直結する。タンボフ県の農民たちは、1920年8月、元・社会革命党(エスエル)のアントーノフをリーダーとする反乱を起こした。反乱軍は五万人にも達した。 1921年初めには、農民の反乱はヴォルガ流域から西シベリアにまで広がった。西シベリアでは、ロシア共産党は都市を点状に押さえているに過ぎなかった。1921年1月、政府はモスクワやペトログラードといった工業都市でのパンの配給を3分の1に減らす布告をした。2月にはペトログラード沖のクロンシュタット基地の水兵が反乱を起こした。(クロンシュタットの反乱)ロシア共産党直属の秘密警察チェーカーは反乱軍を徹底的に弾圧した。
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