ホロドモールとは? わかりやすく解説

ホロドモール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 06:27 UTC 版)

ホロドモールウクライナ語: Голодомо́р; ロシア語: Голод в Украине; 英語: Holodomor)は、ウクライナ語で飢え・飢饉を意味するホロド(ウクライナ語: Голодо[注釈 1])と、殺害[注釈 2]、絶滅、抹殺、または疫病[2]を意味するモル(мо́р)との合成語[3]造語 [1]で、飢餓による殺害 (death by hunger) を意味する[4][5][注釈 3]。具体的には、1932年から1933年(または1934年[注釈 4])にかけてウクライナ北カフカースクバーニなどウクライナ人が住んでいた地域をはじめ、カザフスタンなど、ソビエト連邦各地でおきた大飢饉を指す[6][7]。この飢饉は、当時のソ連スターリン政権による計画的な飢餓、または不作為による人災人工的・人為的な大飢饉であったことが明らかになっている[8][9][7][10][11][4]。ソ連政府の五カ年計画において、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化や、クラーク(富農)撲滅運動において反ソ連分子を強制収容所グラグ)に収容したり[12]、さらに穀物の強制徴発、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰などを原因として発生した[7][2][13][11]。「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生し、330万人[14]から数百万人ともされる餓死者・犠牲者を出した[7][15]


注釈

  1. ^ ロシア語でголод (golod)[1]
  2. ^ moryty(殺す、飢えさせる、枯渇させる)とも[1]
  3. ^ 作家のオレクサ・ムジエンコ(Oleksa Musienko)がキーウのウクライナ国立作家同盟ウクライナ語版での1988年2月18日での Literaturna Ukraïna 報告で最初に使用したとされる[1]
  4. ^ Oleh Wolowynaらの研究では1934年にも飢饉の影響による損害があったことがわかっている[4]
  5. ^ なお、ソビエトはフィンランドの分離独立を認めている(12月31日)[19]
  6. ^ ソ連の学者T.ウルラーニスは、ロシア内戦でポーランド人、フィンランド人含めて30万人が犠牲となったとする[35]
  7. ^ 1918-1920年の900万死亡から疫病による死者200万、内戦で被害100万を引いで、600万[35]
  8. ^ 1927年秋に、農民たちは農産物を安く買い叩かれるため、国への販売をしぶった。
  9. ^ 1932-37年ウクライナ共産党政治局員だった
  10. ^ 1931年には両地域の収穫量は全ソ連の45-46%をなした[3]
  11. ^ 公式データでは8354万トン
  12. ^ 1928年は総収穫量の20-25%
  13. ^ 集団農場では、翌年の収穫用に穀物種子を備蓄していた[3]
  14. ^ たとえばヴォルガ下流では集団化開始までは馬一頭あたり10ヘクタールであったのが、32年春には23ヘクタールとなった[80]
  15. ^ ロシア内戦の際、1921年にウクライナでは何十万人が餓死したことをスターリンは知っていたので、飢饉を回避する考えはスターリンになかったとティモシー・スナイダーはいう[79]
  16. ^ ソ連の農村では1932年1月から3月までに576件、4月から6月にかけては949件の蜂起が起きた[80]
  17. ^ ポーストィシェフは、畑での監視には児童が50万人動員され、1万人の児童が、盗む農民(クラーク)と戦っていると党中央に報告した[97]
  18. ^ これは、ウクライナの300万人への死刑宣告を意味した[6]
  19. ^ 国内身分証明書(パスポート)制度は、帝政ロシアで監視のために実施されていたもので、革命運動において移動の自由は重要な要求となり、国内パスポート制度はロシア革命で廃止された[101]
  20. ^ 農民以外でも、かつての資本家や元貴族などの公民権を剥奪された人々にもパスポートは公布されなかった[102]
  21. ^ コルホーズ農民にパスポートが交付されたのは1974年ブレジネフ時代になってからだった[103]
  22. ^ 2月末までに19万人が逮捕されたとする説もある[6]
  23. ^ 飢餓状態の者が栄養を急に摂取すると水、電解質分布の異常、心合併症などを引き起こす病態をリフィーディング症候群という。「極度の低栄養状態における低血糖に伴うリフィーディング症候群」(JSPEN Vol. 2(2):2020)
  24. ^ およびアディゲ共和国カラチャイ・チェルケス共和国なども含む。
  25. ^ シュキリャートフは1950年頃のレニングラード事件でも粛清を実施した。
  26. ^ モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国 (モルダヴィアASSR)は1924年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国に建国され、現在のウクライナの一部と沿ドニエストル共和国の領土にあたる。1940年にモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィアSSR)に編入された。1926年の人口構成ではモルドバ人(30%)よりもウクライナ人(49%)の方が多勢であった。
  27. ^ カンボジアのジェノサイドの研究者ベン・キーアナン (Ben Kiernan) は、社会的基準と民族的基準は簡単には区別できず、カンボジアのジェノサイドには多くの民族的要素があるとする[173]
  28. ^ ネイマークは「スターリンにはクラークをただ比喩的な階級としてだけではなく、国民の一集団として物理的に抹殺する意図があった。」という[174]
  29. ^ レナルト・メリの従兄アルノルト・メリ英語版は、赤軍に従軍していた1949年にヒーウマー島の住民251人をシベリアに強制移住させ、うち43人が移住先で死んだ事件の責任を問われ、2008年に裁判が開始。しかし、翌2009年にアルノルトは死亡した[173]

出典

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ホロドモール

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ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事における「ホロドモール」の解説

詳細は「ホロドモール」を参照 スターリンによる農業集団化クラーク撲滅運動によって、1930年代にはウクライナはじめとして大飢饉(ホロドモール)が発生した

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ホロドモール

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クラーク撲滅運動」の記事における「ホロドモール」の解説

詳細は「ソビエト連邦における農業集団化」および「ホロドモール」を参照 クラーク撲滅運動農業集団化は、ウクライナでの1932年からの飢饉(ホロドモール)や、カザフスタンなどで甚大な被害もたらした

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「ホロドモール」を含む「クラーク撲滅運動」の記事については、「クラーク撲滅運動」の概要を参照ください。

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