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明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/10/10 14:21 UTC 版)
(明朝 から転送)
明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。
朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。
目次 |
歴史
| 元謀・藍田・北京原人 | |||
| 神話伝説(三皇五帝) | |||
| 黄河・長江文明 | |||
| 夏 | |||
| 殷 | |||
| 周 | 西周 | ||
| 東周 | 春秋 | ||
| 戦国 | |||
| 秦 | |||
| 漢 | 前漢 | ||
| 新 | |||
| 後漢 | |||
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| 晋 | 西晋 | ||
| 東晋 | 十六国 | ||
| 南北朝 | 宋 | 北魏 | |
| 斉 | |||
| 梁 | 西魏 | 東魏 | |
| 陳 | 北周 | 北斉 | |
| 隋 | |||
| 唐 | |||
| 五代十国 | |||
| 宋 | 北宋 | 遼 | 西夏 |
| 南宋 | 金 | ||
| 元 | |||
| 明 | 北元 | ||
| 後金 | |||
| 清 | |||
| 満洲 | 中華民国 | ||
| 中華人民共和国 | 中華民国 (台湾) |
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| * 中国の歴史年表 * 朝鮮半島を中国とみなす記述 |
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朱元璋の建国
モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である。
洪武帝は統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる独裁の体制を築いた。
しかし、1398年洪武帝が死ぬと2代皇帝となった孫の建文帝と帝の叔父である洪武帝の子たちの間が不和となり、北京を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王が反乱を起こした(靖難の変)。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北京へと移った。
領土の拡大
永楽帝は北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の余党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方ではベトナムを陳朝の内乱に乗じて征服した。
さらに海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。
永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、ベトナムでは黎朝が独立した。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される(仁宣の治)。
北虜南倭の危機
一方このころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが力をつけ、モンゴルを制圧したオイラト族長エセン・ハーンは明へ侵攻してきた。1449年、英宗は側近の宦官王振の薦めでオイラトに親征を行ったが、自ら捕虜となる大敗を喫した(土木の変)。
エセン・ハーンは内紛で殺され危機を免れたが、後に帰還して奪門の変で復位した英宗以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず、また政治を顧みない皇帝も多く、国勢はしだいに低調となった。
16世紀に入ると倭寇が中国人の密貿易商人と結びついて活動を始め、沿岸部を脅かすようになった(後期倭寇)。さらにモンゴルではクビライの子孫とされるダヤン・ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴルの再統一を成し遂げた。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは16世紀中ごろに頻繁に中国に侵入し、1550年には北京を攻囲した(庚戌の変)。
明を悩ませた、この時代の倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」と呼ぶ。
明の衰亡
1572年、わずか10歳の万暦帝が即位した。はじめの10年間は内閣大学士張居正が政権を取り、国政の立て直しが計られたが、張居正の死後親政が始まると帝は政治を放棄した。在位は48年に及ぶが、途中日本に攻撃された李氏朝鮮の救援(文禄・慶長の役)などの出費がかさみ、財政が破綻した。このような時局を憂えた人士が無錫の東林書院に結集し東林党という政治集団が作られた。以後、東林党と反東林党の政争が起こる。万暦帝の死後も泰昌帝は即位後まもなく急死し、天啓帝は寵臣の宦官魏忠賢に国政を委ねるなど、政情の混乱が続いた。魏忠賢によって東林書院は閉鎖され、東林党の人士も投獄・殺害された。
天啓帝の7年の治世の後、崇禎帝が即位したときには既に明は末期的症状をきたしていた。さらに即位後まもなく飢饉が起こり、反乱が相次ぎ、さらに後金軍の侵攻も激しさを増した。名将袁崇煥が後金軍を防いでいたものの、後金(清)のホンタイジの策略に嵌った崇禎帝が袁崇煥を疑い惨殺してからは後金軍を抑えられなくなり、更に流賊から台頭した李自成は西安に拠って大順を称し、北京に迫った。1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、滅亡した。
同年、清が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言すると、中国南部にいた明の皇族と官僚は南明を建て清に抵抗したが、雲南からビルマに逃げ込んだ永暦帝を最後に滅ぼされた。福建でも鄭成功が台湾を拠点に抵抗したが、鄭氏政権は後に清に降伏している。南明は日本の徳川幕府に何度も援軍の派遣や物資援助を要請している。御三家や薩摩藩は出兵に対して乗り気であったとの記録がある。日本側は清への手前、公式に援助を行なうことが出来ないため鄭氏の交易利権(長崎貿易)を黙認することによって間接的に援助した。
1724年、明の代王朱彝の孫、朱之璉(注:中文)が清の雍正帝より一等延恩侯の爵位を授けられ、以後はその子孫に明の祭祀が引き継がれた。
政治
洪武帝、永楽帝と創業の二人の皇帝がいずれも独裁的な恐怖政治を行ったため、それ以降の明の政治も同じようになった。皇帝の不興を買えばそれまで権勢並ぶものが無かった高位の臣でも即座に死を賜ることがよくあった。明の官吏は常に誅殺におびえ、朝、家族と水杯をし、死を覚悟して出仕し、夕、帰って再び家族と出会えたことに喜んだという。このため明の官吏は多く事なかれ主義に走り、明の政治は皇帝の出来不出来に全てがかかってくることになり、名君の時は果断に善政が進められるが、暗君の時は目も当てられないような悲惨な状況になった。そして明の不幸は、名君の治世は短く(仁宗洪熙帝は1年、宣宗宣徳帝は10年、孝宗弘治帝は18年)、一方で世宗嘉靖帝は45年、神宗万暦帝が在位48年というように暗君の治世が長いということにあった。
明代後期より富裕な士大夫層が地方の指導者としての地位を確立し郷紳と言う新しい身分層を形成し始める。彼らは基本的に官僚であり、官僚としての地位とその間に積み上げた財産を持って地方の民衆からの尊敬を集めて指導者として、政府の地方官にすら命令するほどの権力を持った。しかし唐以前の貴族とは違い、血縁を持って財産を保持しているわけではなく、一族の中に科挙に合格するものが長い間出ない場合は没落してしまうことになる。郷紳のことを「一代限りの貴族」と表現する人もいる。のちの清代では郷紳層は地方の強い基盤を基に辛亥革命の中で活躍することになる。
官制・税制・兵制
明初の官制はほぼ元制の踏襲であるが、1380年の胡惟庸の獄をきっかけに官制を改めて皇帝独裁体制の確立を図った。
洪武帝は宰相府である中書省を廃止したが、実際に皇帝が一人で全ての政務に当たるのは不可能であり、補佐役として作られた内閣大学士がのちには事実上の宰相職となる。
内閣の下に行政機関である六部がある(詳細は六部を参照)。また官僚の監察機関である御史台の名を改めて都察院とし、軍事の最高機関である枢密院を改めて大都督府とし、更に都督府を中・前・後・左・右に分割して五軍都督府とした。
しかし洪武帝の猜疑心はこれだけでは収まらず、これとは別に皇帝直属の特務機関である錦衣衛を作る。さらに永楽帝の時代に宦官の特務機関東廠を創設した。のちに東廠に対して西廠も作られるが、こちらはすぐに廃止される。これらの特務機関の存在が明の官界を暗くした。また、明代は官僚の給与が低く、これら諸点から歴代でも最も不遇と言われる。給与を抑制したことは賄賂の横行を招き、官界腐敗の原因となった。
地方制度も元代の行中書省の強すぎる権限を嫌って廃止し、それに代わり権限を大幅に縮小した民政・財政担当の承宣布政使司(しょうせんふせいしし)、裁判・監察担当の提刑按察使司、軍事担当の都指揮使司の三つを置いた。布政使は全国に13あり、これとは別に皇帝直属である直隷がある。直隷(河北省)、南直隷(江蘇省・安徽省)、山東、山西、河南、陝西(甘粛省も含む)、四川、湖広(湖北省・湖南省)、浙江、江西、福建、広東、広西、雲南。
布政使の下に府があり、その下に州がある。所によっては州の下に県がおかれる場合もある。
洪武帝は全国を調査して賦役黄冊(戸籍帳)魚鱗図冊(土地台帳)を作り、それを基に両税法により税が徴収されたが、以前の貨幣や布に代わって米や麦などの穀物による納税(原物主義)が行われた。他にも雑税として絹が徴収される事があった。当然の事ながら、官吏の給与は歳入の大半を占める穀物に依っていたが、重農主義による穀物生産の回復に伴って穀物価格が低落傾向に陥り、貨幣や銀を手に入れるために換金を経なければならない官吏や地主の生計を圧迫する事になった。このため予め貨幣や銀で税を徴収するように求める(裏を返せば、穀物価格低下のリスクを農民に押し付ける)意見が高まるようになった。正統元年(1436年)には官吏俸禄の銀支払とこれと表裏一体であった田賦銀納制の導入が行われることとなった。
また、地方を治めるために里甲制が、兵制として衛所制が布かれた。里甲制は裕福な戸1と10戸を組にして里と呼び、里を10で甲と呼んで基本単位として里に対して徴税や労役の義務を課す制度である。また兵士を出す家を分けて置いて軍戸とし、そこから定常的に兵士を供給させるのが衛所制である。
衛所制は政府から軍戸に対して土地を下賜し、その土地からの収入による自足自給を建前としていた。しかし正統期ごろから軍戸の中に窮迫する者が増えて逃亡が増大し、また宦官や地方の軍官などが軍戸に与えられるべき土地を私物化することが増えて、軍戸の生活は破綻した。これに対して中央から食料を送っていたが、これが大きな財政負担となっていた。その食料を軍官たちは様々な手段で私した。例えば兵数を実数よりも過大に報告することで差額を懐に入れるのである。このような事から明末には衛所制は無力化し、国防は各地の軍官に雇われていた私兵が役目にあたることとなる。
里甲制も年が下るごとに課される労役・税の事務作業と項目が複雑化し、負担が過重で不公平の度合いが激しくなった。これに対して万暦期の宰相・張居正が一条鞭法を実施した。それまでの複雑な税体系を簡便化し、銀納の一本にまとめてしまったものである。これにより一時期財政は好転したが、その後の万暦帝の奢侈により張居正の努力は水の泡となってしまった。
科挙
洪武帝は明を建てるとすぐに科挙を行い、大々的に人材を募集した。その後、一時期停止されたが、永楽帝以降は明が終わるまで継続されている。
明代では科挙を受験するには国立学校に所属する必要があった。彼らは生員と呼ばれる。洪武帝は首都に国子監と言う国立学校を設立し、地方にもそれぞれ府・州・県ごとに学校を設立した。しかしこれらの学校は後には単に科挙の資格を得るために在籍し、勉強をする所ではなくなった。またこれとは別に民間には社学と呼ばれる私立学校が存在し、農民の子弟に読み書き・計算などを教えていた。
生員になるに際しての試験があり、その後、第一次の地方試験である郷試がある。郷試に合格した者は挙人と呼ばれ、第二次の中央での試験である会試を受けて合格すると進士と呼ばれ、晴れて官僚になる資格を得る。さらに殿試と言う皇帝の前での試験があるが、これは落ちる事は無い試験である。
官僚になりたがる人数は非常に多く、生員だけで50万がいたとも言われる。それに対して合格するのは毎回3~400人であり、何度も受験している間に年取り白髪になってしまった者もいた[1]。
王府
洪武帝は多くの功臣を粛清する一方で、自分の子供達を各地に「親王」(単に「王」とも)として封建して王府(おうふ)を設置させて地方に軍隊とともに駐屯させて現地を治めさせ、政治的基盤を固めようとした。これには(1)親王自ら兵を率いて国防の先頭に立つ。(2)皇族を繁栄させて万が一の皇統断絶を回避する。(3)皇族の維持にかかる費用を地方に負担させる。(4)儒教的な封建体制再建を確立させる。といった目的があったとされる。
だが、皇太子である朱標が父より先に亡くなり、その息子で洪武帝の孫の世代にあたる建文帝が即位すると、これらの叔父が皇位を脅かすことを恐れて取り潰しを図った。だが、逆にこうした叔父の1人であった永楽帝によって滅ぼされることになった。永楽帝は「親王」の軍事的権限の削減を図ったものの、父の洪武帝同様に自分の子供達を封建することには積極的であった。さらに宣徳帝の時代に漢王朱高煦が反乱を起こしたのを機に軍事力の全面的剥奪に踏み切った。また、自己の開墾地以外の土地の私有を禁じて禄米支給へと切り替え、更に自由な外出や任官までも禁じたため、親王や郡王は事実上居城に蟄居状態に置かれるようになった。
その後、各地に王や郡王(親王の諸子)の増加によって支給する禄米が増加して明の財政は悪化した。そこで皇族のために「皇荘」と呼ばれる荘田を設置して経費を補わせ、また皇荘の一部は皇帝からの下賜された特例としてそのまま皇族の私有の荘田にすることを許した。だが、親王や郡王は役人が自分達を恐れて干渉できないことを良いことに一種の地主と化して皇荘内において思うままに農民からの租税や土地そのものの収奪を行い、そこで得た収益を元手にさらに高利貸しなどの商業活動や土地の集積を進めたり、郷紳などからの投献(寄進)を受けたりして皇荘へと編入していった。このため、官田が王達によって奪われて財政収入が減少するという事態が生じたため、1470年には皇荘の税率を定めて実際の管理を地方官に行わせることを定めたものの、皇帝自らが王達に特例を認める事がしばしばであり、何の解決にもならなかった。特に万暦帝の実弟である潞王・朱翊鏐や3男の福王・朱常洵などは万暦帝の寵愛を背景に数万頃に及ぶ大地主と化して農民に対して更なる収奪を行ったものの、皇帝の不興を買って粛清されることを恐れた官僚たちは具体的な対策を打とうとはしなかった。こうした状況は人々に強い不満を抱かせ、明末の農民反乱の標的に王や郡王があげられることになった。
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