明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 11:39 UTC 版)
経済
元末からの騒乱により中国は荒廃し、特に華北は一面荒野が広がるほどの状態であった。一方で江南地帯の荒廃はそれほどでもなく、強い経済力を有していた。農民出身の洪武帝は江南が強い力を持つことを警戒して、重農抑商の政策を取っていた。農本主義的な朱子学の振興もその一環であり、商人出身者の科挙受験も厳しく制限された。しかしそれでも江南の経済力は成長を続け、明全体の経済の中心として活躍する。
農業
農民出身であった朱元璋は農業、特に米や麦などの穀物生産を重視する政策を取った。特に重要視したのは、明が創業の地とした江南の豊かな農業資源である。宋の時代には「蘇湖熟すれば天下足る」と呼ばれていたのが、明代にはその一地域であった蘇州・松江のみで「蘇松熟すれば天下足る」と称されるようになった。朱元璋は張士誠の支配地域であったこの地域を真っ先に占領して農地を国の直轄とした。さらに中期ごろからは長江中流域の湖広(現在の湖北省・湖南省)の農地開発が急激に進み、末期には「湖広熟すれば天下足る」と呼ばれた。
貨幣政策
元で発行されていた紙幣(交鈔)にならって明でも宝鈔[注 2] と言う紙幣を発行した。これは完全な不換紙幣であるが、元末には紙幣のシステムは崩壊しており、以前のように銅銭を発行する余裕もなかったために建国当初は実物経済依存が強くなり、洪武帝の農本主義政策の背景になったという指摘もある。
この紙幣の価値を保つための政策は行われておらず、価値は下がり続け、それに代わって外国(メキシコ・日本)から大量に流入した銀が通貨として使われるようになった。これに対して政府は何度か使用禁止令を出したものの効果はなく、一条鞭法の採用によって事実上、銀が通貨となった。また、永楽通宝などの銅銭も発行されたが、洪武帝が銅銭の流通を禁止したこともあって利用は低調で、宝鈔や銀に押されて海外への輸出専用に回されることが多くなった。だが、銅の生産が乏しくなると、銅銭の生産もごく稀にしか行われなくなった。しかしこのことにより、銀が東アジアにおける国際通貨となり、東アジア交易網の形成に貢献している。
財政悪化にともなう税の増徴は、官やそれに繋がった有力者への銀の集中をもたらし、一部の持つ者と大多数の持たざる者の格差を広げる要因となった。沿岸の有力者や辺境を守る軍人達は海禁政策の有無にかかわらず積極的に交易を行って富を蓄え、私軍を保有してさらなる高位を得る者も現われた。前者の代表が鄭芝龍であり、後者の代表が李成梁・呉三桂である。そして、持たざる者の代表者が李自成と言える。これらの融和策を行わなかったゆえに李自成・呉三桂に明が滅ぼされた。
専売制
明も歴代王朝と同じく塩の専売制を行った。明の場合、専売制は軍政と関連していた。まず駐屯地の食料庫に食料を納入した商人は手形を受け取り、その手形を塩と引き換えることの出来る塩引と交換し、塩と引き換えてそれを販売すると言うものである。これは開中法と呼ばれ、明代を通じて行われている。銀が通貨となったのちは、食料の納入が銀の納入に代わっている。
地域ごとに商幇(商人集団)があり、その中でも明代には山西商人と徽州商人の二つが競っていた。明代後期からは塩と交通をおさえた徽州商人が発展した。
手工業
明代は手工業の活性期でもあった。江南を中心とした地方では絹織物・綿織物の生産が増加し、それにともなって農村でのカイコ・綿花の生産も高まり、大きな市場を作っていた。また農民達の副業としての手工業も盛んに行われており、重要な収入源となっていた。
政府は手工業に従事する人々を農民とは別の匠戸と言うグループに分類し、一般の労役の代わりに官営工場での手工業に従事させて政府が欲する分の製品を供給させていた。これを匠役制と言うが、この制度は匠戸に対する過重な負担を生み、逃亡する者が増えたため匠役の代わりに銀を納付させてこの収入で必要とする分を買い求めることに変わった。
また、こうした副業に従事している農民には貧困層が多く、高利貸しから借りた資金で蚕種や桑の葉などの必要物資を買いそろえて蚕を育て、繭から糸が取れる頃に高利貸しからの催促によって生糸を一旦売った後に改めて高利貸しから資金を借りて糸を購入して織物を織るという繰り返しによって成り立っており、商業資本の蓄積は望めても工業化への発達の可能性が低いものであった。
注釈
出典
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