後三国時代
後三国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:45 UTC 版)
919年、王建は松嶽郡に遷都し、郡を開州に昇格させ、高麗の後継者を自称して国号を高麗と定め、年号を天授と定めた。920年に後百済に圧迫されていた新羅の景明王に信書を送り同盟を結ぶことにした。 926年10月、後百済は新羅の首都である金城(慶州市)を占領し、景哀王は自殺した。後百済は手強く、一進一退の攻防を繰り広げていた。930年から高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。 933年、後唐に朝貢し、王建は高麗国王に任じられた。 934年、後百済は休戦を申し入れ、王建もその気になったが、老将の庾黔弼一人が反対した。王建は庾黔弼の意見を採用し、後百済軍を打ち破り、熊津(公州市)以北の地を手中に収めた。 935年、後百済で王位継承による内紛が発生し翌936年に初代王である甄萱(キョン・フォン)が高麗に投降した。また935年、新羅最後の王敬順王(金傅)が高麗に帰順した。後百済の内紛に巧みに介入した王建は、936年、遂に朝鮮半島の統一を成し遂げたのである。
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