安史の乱とは? わかりやすく解説

あんし‐の‐らん【安史の乱】

読み方:あんしのらん

755年、唐の中期玄宗皇帝晩年に、節度使安禄山(あんろくざん)と史思明らが起こした反乱763年粛宗の代に鎮圧以後、唐の中央集権体制弱体化した


安史の乱

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安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、節度使安禄山とその部下の史思明、およびその息子たちによって引き起こされた大規模な反乱。 禄山・思明両者の姓をとって、「安史の乱」と呼称される。


注釈

  1. ^ 山口瑞鳳やハンガリーのJ・セルブらは1980年代にこの長慶会盟締結のときに、ウイグル帝国とチベット帝国との間にも講和が結ばれたとする仮説を提唱した[16]

出典

  1. ^ 森安孝夫『興亡の世界史5 シルクロードと唐帝国』講談社,2007年
  2. ^ a b Johan Norberg (1 September 2016). Progress: Ten Reasons to Look Forward to the Future. Oneworld Publications. p. 95. ISBN 978-1-78074-951-8. https://books.google.com/books?id=rk34DAAAQBAJ&pg=PA95 
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  19. ^ 続日本紀』同年12月10日
  20. ^ Pinker, 707


「安史の乱」の続きの解説一覧

安史の乱

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新疆の歴史」の記事における「安史の乱」の解説

755年突厥出身の唐の軍人安禄山反乱起こし(安史の乱)、首都長安占領する粛宗から回鶻援軍要請され756年葛勒可汗葉護太子率いウイグル軍と唐軍連合軍反撃開始757年11月長安奪回する。762年、唐の代宗安禄山残党史朝義討伐するため、牟羽可汗(ブグ・カガン)に対して再度援軍要請してきたが、史朝義の唐侵攻誘い応じた牟羽可汗ウイグル10万率いてゴビ砂漠南下ウイグル軍に遭遇した唐の使節の劉清潭から、唐への侵攻踏み止まるよう説得されたが拒絶した唐朝廷は震撼するが、僕固懐恩の娘が牟羽可汗カトゥン可敦皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿である牟羽可汗説得しウイグルは唐との連合決定するウイグル・唐連合軍洛陽奪回し史朝義763年正月追撃を受け自殺8年におよぶ安史の乱を終結させた。

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安史の乱

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藩鎮」の記事における「安史の乱」の解説

三節度使を兼任した安禄山の総兵力は約18一方首都長安防衛する左右羽林軍は6足らず安禄山兵力羽林勝った安禄山楊貴妃一族である寵臣楊国忠玄宗寵愛を争うが、この争いは常に玄宗の傍に居る楊国忠が有利であり、安禄山は自らの地位を失う恐怖から755年、ついに乱を起こした(安史の乱)。 安禄山長安落とし玄宗は蜀に逃亡皇太子李亨皇帝即位し粛宗となる。その後反乱軍側の内部分裂顔真卿顔杲卿代表される勤皇軍の奮戦ウイグル援兵を受け、763年に乱を鎮圧した。 安史軍の根拠地であった河北には、投降した魏博(天雄軍)の田承嗣幽州盧龍軍)の李懐仙・恒冀(成徳軍)の李宝臣などの降臣をそのまま節度使として任命した内地にも次々と藩鎮設置され藩鎮総数50超え首都長安副都洛陽周辺部を除く多く地域藩鎮統治下に置かれる裁判権持たないが軍財政多く両税法による税収を除く)を兼ね備えた藩鎮のうち1/5~1/4ほどは反中傾向見られ、特にその傾向が強い旧安史軍の三将は河朔三鎮呼ばれたが、彼等中央政府与えた官職による威命が無ければ将兵統率する事は出来なかった。 これら藩鎮軍官である節度使(ないし団練使・防禦使・経略使)と財政官を兼任し藩鎮領有した。長たる藩帥が死去した場合子孫配下有力者がこれを継承した例も見られる。 唐が滅亡した後も唐の正朔奉じ続けた淮南節度使(呉)のように生産力経済力のある江南地域朝廷に対して恭順で、逆に河北は旧安史軍の根拠地だったこともあり中央から遊離して割拠する傾向強く中央納めるべき税を収め藩鎮運営した中央政府統治から遊離した藩鎮を河朔型藩鎮と呼ぶ。

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安史の乱

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李光弼」の記事における「安史の乱」の解説

755年冬、范陽節度使安禄山反乱起こし洛陽南進した。玄宗安禄山従兄安思順長安呼び戻し代わりに郭子儀朔方節度使とした。玄宗がさらに河東節度使を誰に任せるべきか問うと、郭子儀李光弼推薦した756年春、李光弼河東節度使になり、郭子儀と共に朔方の東の安禄山領土攻撃した李光弼はすぐに常山を陥した。史思明反撃する郭子儀合流して追い払い安禄山が燕の皇帝即位した洛陽范陽との通信断ち切った安禄山洛陽から駆けつけることを考慮した。この時、崔乾祐率いられた燕軍が哥舒翰が守る潼関向かっていた。哥舒翰李光弼郭子儀はこれを攻撃せずに守りたがったが、宰相楊国忠楊貴妃従兄)は郭子儀自分地位を狙うことを恐れて玄宗に崔乾祐攻撃するよう勧めた哥舒翰は崔乾祐敗れて潼関ごと捕らえられた。崔乾祐長安に進むと、玄宗長安捨てて成都避難した太子粛宗霊武避難して即位した李光弼郭子儀は燕軍の長安占拠知らず太行山退却した。後に粛宗2人霊武招いた粛宗李光弼同中書門下平章事として兵5千で太原に向かわせた。李光弼太原に至ると、些細な事から適当な理由付けて部将の崔衆を処刑したことから恐れられた。 757年春、史思明粛宗長安奪回のため李光弼兵力大半霊武留められていたことに付け込み、衆10万太原包囲した。しかし李光弼は度々史思明攻撃跳ね返した。やがて、安慶緒安禄山殺し史思明范陽呼び戻され太原には蔡希徳が任じられた。李光弼は蔡希徳を大破し、蔡希徳は敗走した。この功績から李光弼魏公(後に趙公に改られる)となった758年初、粛宗長安奪回すると、司空とした。 唐は回鶻ウイグル)の協力得て洛陽奪回し安慶緒は鄴城に奔走したが、燕軍の大半が唐に投降したため、その支配は鄴城周辺限られたものとなった史思明投降したが、李光弼は再び反乱することを恐れて粛宗に烏承恩に暗殺させることを説得した史思明はこれに気づき、烏承恩を殺して粛宗李光弼を殺すことを説得した粛宗黙殺すると、史思明は再び造反した。758年秋、李光弼粛宗会見し侍中加えられた。この頃李光弼郭子儀炅、奐、許叔冀、季広琛、崔光遠、王思礼等の部将安慶緒討伐のため鄴城で合流した李光弼はこの時総攻撃提案したが、総監任せられ宦官朝恩却下された。包囲され安慶緒救援求めたため、史思明范陽から南進し、759年春に唐軍戦ったが、混戦となり、李光弼王思礼のみが兵をまとめて退却することができた。秋、朝恩郭子儀敗戦責任を問うと、粛宗朔方の軍李光弼委ねた。その厳しい軍律に耐えかねた張用済は李光弼排除して郭子儀復活させるようとしていたが、李光弼は張用済を捕らえて処刑したこの頃には李光弼名誉職李係の下で実質的な唐の軍握っていた。

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安史の乱

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哥舒翰」の記事における「安史の乱」の解説

天宝14載(755年)、安禄山反旗ひるがえし安史の乱が勃発した洛陽陥落唐軍潼関まで退いたが、司令官となった封常清敗戦の罪で、高仙芝退却着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰兵馬元帥任じられ潼関赴任した哥舒翰病気をもって固辞しようとした玄宗拒絶されたと伝えられる哥舒翰病身であり、御史中丞の田良丘に指揮ゆだねた統率がとれず、騎兵率い王思礼と歩兵率い李承光が対立していた。また、哥舒翰厳酷恩愛少なく宦官の袁思芸から報告を受け、玄宗兵士与えるために送った衣を蔵の中入れていた。さらに、監軍大宜が兵士飢えている状況で、遊びふけっていた。ために、士気は振るわなかったと伝えられる至徳元載756年)、潼関攻めてきた安禄山息子安慶緒撃退する不仲であった安思順への安禄山からの手紙をでっち上げて弟の安元ともども誅殺追い込んだ安禄山楊国忠誅殺大義名分としていた。そのため、王思礼は軍を長安方に進めて君に楊国忠誅することを上奏することを求め楊国忠さらって殺すことを求める。だが、哥舒翰謀反人になってしまうとして却下する楊国忠警戒強め李福徳と乾運を将として哥舒翰備える。哥舒翰は、乾運をおびきよせ殺してしまい、対立強まった

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安史の乱

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顔真卿」の記事における「安史の乱」の解説

顔真卿平原太守移ったのは、安禄山がまさに反乱意志固めつつある頃であった。真卿は、安禄山不穏な動き見て城壁修理や濠の整備食糧準備などをひそかに行っていた。 天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し安禄山洛陽目指し挙兵した。その頃常山郡太守務めていたのは族兄顔杲卿(真卿の伯父の元孫の第二子)であり、真卿は彼とともに安禄山反抗する決意固め義兵挙げた河北山東各地安禄山勢力下に帰属する中にあって、真卿・杲卿が味方として軍を挙げたことに玄宗驚喜したという。 天宝15載(756年)、常山郡落城し、顔杲卿安禄山によって惨殺された。一方顔真卿は、清河郡河北省清河県)の㟧と結び、魏郡占領していた安禄山の軍を撤退させることに成功した。しかし、河北戦局はしだい不利に傾き史思明攻撃によって平原清河博平山東省聊城市以外の郡は陥落した顔真卿このまま座視しても敗北するだけであると考え平原城を捨て当時霊武避難であった粛宗のもとへと向かった至徳2載(757年)、顔真卿はようやく粛宗のもとにたどり着き粛宗は更に鳳翔へと移動していた)、謁見叶った。真卿は憲部尚書刑部尚書)・御史大夫として職務当たったこの頃安禄山息子安慶緒殺され同年粛宗長安帰り顔真卿もこれに従って長安戻った。 しかし、直言憚らない顔真卿は再び煙たがられ蒲州刺史饒州刺史昇州刺史など地方転々と異動することとなった。「祭姪文稿」「争座位帖」などはこのころ作られ作品である。その後一時期中央復帰したが、永泰2年766年)に硤州の別籠の職になるなど、再び地方転々とした。 大歴3年768年)からは撫州剌史を務めこの頃に「麻姑仙壇記」「魏夫人仙壇碑」「姑仙壇碑」など道教ゆかりの作品多く残した。大歴7年772年)からは湖州刺史務める。

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安史の乱

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回鶻」の記事における「安史の乱」の解説

葛勒可汗在位747年 - 759年)の代になり、唐において安史の乱が勃発した755年)。これにより唐の皇帝であった玄宗在位712年 - 756年)は退位し粛宗皇帝となった756年)。粛宗回紇援軍求めるため、李承寀を敦煌王に封じ李承寀は将軍の石定番回紇への使者任命して修好結ばせるとともに、対安禄山徴兵をさせた。葛勒可汗はこれに承諾すると、娘の毘伽(ビルゲ公主李承寀に娶らせた。 至徳2載(757年9月、唐の元帥広平俶(のちの代宗)で、回紇からは太子葉護ヤブグ)と僕固懐恩が回紇軍を指揮して安禄山討伐あたった。唐・回紇連合軍11月までに首都西京長安)・副都東京洛陽)を奪還することに成功し葉護太子司空忠義王封じられた。翌年758年)、粛宗葛勒可汗英武威遠毘伽可汗冊立するとともに寧国公主葛勒可汗に嫁がせた。 英武威遠毘伽可汗759年4月死に寧国公主は唐へと帰国する葉護太子帰国亡くなったため、その弟である牟羽可汗在位759年 - 779年)が立って即位した宝応元年762年4月、唐で粛宗崩御したため太子代宗在位762年 - 779年)が即位した代宗史朝義(安史の乱指導者)がなおも河洛の地にいるので、それを討伐するために劉清潭を回紇派遣して徴兵させるとともに旧好修めさせようとした。しかし8月先に史朝義が「粛宗崩御乗じて唐へ侵攻すべし」と牟羽可汗誘ったため、回紇軍が大軍擁して南下始めた。劉清潭はそれに遭遇したので、まず唐への侵攻踏みとどまるよう牟羽可汗説得した聞き入れられなかった。このとき回紇軍はすでに三城の北まで到達していた。牟羽可汗使者派遣し北方単于都護府兵馬食糧奪取するとともに、劉清潭をひどく侮辱した。劉清潭が密かにこの状況代宗報告すると、朝廷内は震撼した。この時、牟羽可汗可敦カトゥン皇后)である僕固氏(僕固懐恩の娘)が牟羽可汗諫めたため、牟羽可汗思いとどまりそのまま唐側に付いて史朝義討伐参加した牟羽可汗は僕固懐恩とともに史朝義軍を圧倒し史朝義自殺追い込むと、河北平定して8年に及ぶ安史の乱を終結させた(763年)。これにより牟羽可汗は唐より英義建功毘伽可汗冊封され、可敦左右の殺(シャド)・諸都督内外宰相以下にも封号与えられた。 この時期、安史の乱により唐軍内地引いた為に空いたジュンガル盆地進出した

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安史の乱

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葉護太子」の記事における「安史の乱」の解説

至徳二載(757年九月戊寅の日に、粛宗は邠王守礼章懐太子李賢の子の子敦煌李承寀に、開府儀同三司の官を加えて宗正卿任じ迴紇公主を娶って妃とさせた。葉護太子は将の帝徳らと兵馬4千余の部衆を率いて出兵した。唐を助け逆賊安禄山を討つためであった粛宗大い喜び盛大な宴を開催して葉護太子歓待した。なお粛宗討伐軍の元帥となった広平俶(後の代宗)に命じて葉護太子兄弟約束をさせ、手厚い恩義施して葉護太子遇した葉護太子広平王を兄と呼ぶことになった至徳二載九月戊子の日に、葉護太子迴紇大首領の達干(タルカン称号)ら13人がまず扶風来て朔方将士会った僕射郭子儀はこの一行留めて、3日間の宴を開こうとしたが葉護太子は以下のように答えて固辞した。 唐の国家危難があるために、私は遠方から来て援助しようとしているのです。どうして宴会をして、暇をつぶしておれましょうか。 しかし、郭子儀固くこれを引きとめた。宴が終わると葉護太子はすぐに出発した。その軍隊には毎日、羊200頭・牛20頭・米40石が食料として給与された。元帥広平王は郭子儀らを率いて香積寺20里の地点到着すると、西方豊水臨んだ賊軍精鋭騎兵唐軍本陣の東に隠し唐軍背後襲撃しようとした。朔方左廂兵馬使の僕固懐恩は迴紇葉護太子招いて唐軍救援求めた葉護太子依頼受けて賊軍攻撃し賊軍一匹の馬も逃がさなかった。賊軍大敗喫したために西京長安)を放棄した。これによって唐軍西京手中に収めた。 至徳二載十月広平王及び副元帥郭子儀迴紇兵馬率いて賊軍陝州の西において戦った。この戦いでは、郭子儀軍隊最初曲沃駐屯した。葉護太子はその将軍の車鼻施吐撥裴羅らを率いて南山沿って東へ進み、谷の中で賊軍伏兵遭遇したが、逆にこれを全滅させた。郭子儀新店にいたり、賊軍遭遇して戦ったが、賊軍勢い強く郭子儀軍隊は数里退却した迴紇唐軍が山を越え嶺上西方進み、白い旗をなびかせたのを望見して、進んでこれを攻撃し直ちにその背後出たので、賊軍大敗して逃げ塹壕掘った郭子儀葉護太子の軍はは賊軍逃げるのを20里あまり追撃した賊軍人馬重なりあい、互いに踏みにじられて、死者数えきれぬほどであったという。郭子儀葉護太子の軍は敵の首を十余も斬り、地上倒れ伏した屍体30里も続いたという。賊軍武将の厳荘は馳せて大敗したことを安慶緒報告した安慶緒はその大敗聞いてあわてて賊党率いて東京洛陽)を後にして敗走し黄河渡った。そこで葉護太子広平王と僕射郭子儀従い東京入城した葉護太子広平王から錦・毛氈宝・貝贈り物として与えられたのでそれを受け取ったという。 至徳二載十一月癸酉の日に、粛宗西京帰還したので、葉護太子東京から西京行った粛宗百官に勅してこれを長楽駅出迎えさせた。粛宗宣政殿に臨御して宴を開いて葉護太子ねぎらった葉護太子は殿に升り、その配下武将たちは階の下に列を作って並んだ粛宗錦・繍・繪(薄絹)・綵(綾絹)・金銀器皿葉護太子贈り物した。葉護太子暇乞いして西域帰るにあたって粛宗は「国家のために大事をなしとげ義勇をなしたのは卿らの力である」と言った葉護答えて以下のように言った迴紇の戦兵は沙苑に駐屯しております今はいったんは霊夏に帰り新たに馬を取って来てその上で范陽占領して残賊討伐するつもりです。 至徳二載十一月己丑の日に、粛宗は詔をくだして、以下のように述べた葉護功績艱難救い、その大義国家保ってくれた。葉護の国(迴紇)は唐とは万里離れたはるか遠い地方ではあるが、本朝(唐)と徳を一にし、心を同じくするものであるこのような事実古今求めようとしても、いまだ聞いたともないことである。迴紇葉護は、特別に英姿天から授かり、人よりぬきんでていて、人知れぬ計略生んだ。その言はかならず忠信であり、その行い温良あらわし、その才は万人にも匹敵し、その位は北方諸蕃族の筆頭つらなっている。(唐において)凶悪にして醜いやからが人道乱したため、中原はまだ不安な状態に陥っている。可汗は(唐と)兄弟約束があることによって、国家のために父子の軍をおこし、その智謀発揮し、あの凶悪な逆賊討伐した。ひとたび太鼓鳴らして勇気をふるい、万里遠きわたって敵の鋒をくじいたので、20日間で両京奪還された。その力は山岳を抜くほどに強く、その精神は風やを貫くほどにたくましかった葉護疲れてもその労を辞すことはなかったし、難事急いで立ちむかっても、その分際を越えことはなかった。もとよりこのことは、日月懸け、これを子孫伝えるべきことがらである。分土に封じたり、封爵誓いという恩賞のみにどうしてとどめておけようか。それ、位の崇高なのは司空があり、名誉の大なるものは封王が最高である。それゆえ葉護司空となし、なお忠義王封ずべきである。唐は葉護毎年、絹2万匹を送り、これを朔方軍に届けるから、葉護はよろしく使者派遣してこれを受領せよ。 乾元二載(759年四月迴紇葛勒可汗死んだ際に、「その長男葉護以前殺されていたので、迴紇次男の移地健(牟羽可汗)を即位させ、その妻を可敦カトゥン皇后)とした」という史書記述からすると帰国後、間もなく殺害されたものと思われる

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