あんし‐の‐らん【安史の乱】
安史の乱
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安史の乱(あんしのらん)、ないし安禄山の乱(あんろくざんのらん)は、755年から763年にかけて、唐の節度使の安禄山とその部下の史思明、およびその息子たちによって引き起こされた大規模な反乱。 安禄山・史思明両者の姓をとって、「安史の乱」と呼称される。
注釈
出典
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- ^ 山口瑞鳳「沙州漢人による吐蕃二軍団の成立とmKhar tsan軍団の位置」『東京大学文学部文化交流研究施設研究所紀要』4,13-47頁,1981年。森安2007:350頁
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- ^ 『続日本紀』同年12月10日条
- ^ Pinker, 707
- 1 安史の乱とは
- 2 安史の乱の概要
- 3 自立した勢力の一覧
- 4 参考文献
安史の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)
755年、突厥出身の唐の軍人安禄山が反乱を起こし(安史の乱)、首都長安を占領する。 粛宗から回鶻に援軍が要請され、756年に葛勒可汗・葉護太子率いるウイグル軍と唐軍の連合軍は反撃を開始、757年11月に長安を奪回する。762年、唐の代宗が安禄山の残党史朝義を討伐するため、牟羽可汗(ブグ・カガン)に対して再度援軍を要請してきたが、史朝義の唐侵攻の誘いに応じた牟羽可汗はウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠を南下。 ウイグル軍に遭遇した唐の使節の劉清潭から、唐への侵攻を踏みと止まるよう説得されたが拒絶した。唐朝廷は震撼するが、僕固懐恩の娘が牟羽可汗のカトゥン(可敦、皇后)であったことから、僕固懐恩が娘婿である牟羽可汗を説得し、ウイグルは唐との連合を決定する。ウイグル・唐連合軍は洛陽を奪回し、史朝義は763年正月に追撃を受け自殺、8年におよぶ安史の乱を終結させた。
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安史の乱
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三節度使を兼任した安禄山の総兵力は約18万、一方首都長安を防衛する左右羽林軍は6万足らずと安禄山の兵力は羽林に勝った。安禄山は楊貴妃の一族である寵臣の楊国忠と玄宗の寵愛を争うが、この争いは常に玄宗の傍に居る楊国忠が有利であり、安禄山は自らの地位を失う恐怖から755年、ついに乱を起こした(安史の乱)。 安禄山が長安を落とし玄宗は蜀に逃亡、皇太子の李亨が皇帝に即位し粛宗となる。その後、反乱軍側の内部分裂と顔真卿・顔杲卿に代表される勤皇軍の奮戦やウイグルの援兵を受け、763年に乱を鎮圧した。 安史軍の根拠地であった河北には、投降した魏博(天雄軍)の田承嗣・幽州(盧龍軍)の李懐仙・恒冀(成徳軍)の李宝臣などの降臣をそのまま節度使として任命した。 内地にも次々と藩鎮が設置されて藩鎮の総数は50を超え、首都長安・副都洛陽の周辺部を除く多くの地域が藩鎮の統治下に置かれる。裁判権を持たないが軍権と財政権の多く(両税法による税収を除く)を兼ね備えた藩鎮のうち1/5~1/4ほどは反中央傾向が見られ、特にその傾向が強い旧安史軍の三将は河朔三鎮と呼ばれたが、彼等も中央政府の与えた官職による威命が無ければ将兵を統率する事は出来なかった。 これら藩鎮は軍官である節度使(ないし団練使・防禦使・経略使)と財政官を兼任し藩鎮を領有した。長たる藩帥が死去した場合、子孫や配下の有力者がこれを継承した例も見られる。 唐が滅亡した後も唐の正朔を奉じ続けた淮南節度使(呉)のように生産力・経済力のある江南地域は朝廷に対して恭順で、逆に河北は旧安史軍の根拠地だったこともあり中央から遊離して割拠する傾向が強く、中央へ納めるべき税を収めず藩鎮を運営した。中央政府の統治から遊離した藩鎮を河朔型藩鎮と呼ぶ。
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安史の乱
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755年冬、范陽節度使の安禄山が反乱を起こし、洛陽に南進した。玄宗は安禄山の従兄の安思順を長安に呼び戻し、代わりに郭子儀を朔方節度使とした。玄宗がさらに河東節度使を誰に任せるべきか問うと、郭子儀は李光弼を推薦した。756年春、李光弼は河東節度使になり、郭子儀と共に朔方の東の安禄山の領土を攻撃した。李光弼はすぐに常山を陥した。史思明が反撃すると郭子儀と合流して追い払い、安禄山が燕の皇帝に即位した洛陽と范陽との通信を断ち切った。安禄山は洛陽から駆けつけることを考慮した。この時、崔乾祐に率いられた燕軍が哥舒翰が守る潼関に向かっていた。哥舒翰、李光弼、郭子儀はこれを攻撃せずに守りたがったが、宰相の楊国忠(楊貴妃の従兄)は郭子儀が自分の地位を狙うことを恐れて玄宗に崔乾祐を攻撃するよう勧めた。哥舒翰は崔乾祐に敗れて潼関ごと捕らえられた。崔乾祐が長安に進むと、玄宗は長安を捨てて成都に避難した。太子の粛宗は 霊武に避難して即位した。李光弼と郭子儀は燕軍の長安占拠を知らずに太行山に退却した。後に粛宗が2人を霊武に招いた。粛宗は李光弼を同中書門下平章事として兵5千で太原に向かわせた。李光弼が太原に至ると、些細な事から適当な理由を付けて部将の崔衆を処刑したことから恐れられた。 757年春、史思明は粛宗が長安奪回のため李光弼の兵力の大半が霊武に留められていたことに付け込み、衆10万で太原を包囲した。しかし李光弼は度々史思明の攻撃を跳ね返した。やがて、安慶緒が安禄山を殺し、史思明が范陽に呼び戻され、太原には蔡希徳が任じられた。李光弼は蔡希徳を大破し、蔡希徳は敗走した。この功績から李光弼は魏公(後に趙公に改られる)となった。758年初、粛宗が長安を奪回すると、司空とした。 唐は回鶻(ウイグル)の協力を得て洛陽を奪回し、安慶緒は鄴城に奔走したが、燕軍の大半が唐に投降したため、その支配は鄴城周辺に限られたものとなった。史思明も投降したが、李光弼は再び反乱することを恐れて粛宗に烏承恩に暗殺させることを説得した。史思明はこれに気づき、烏承恩を殺して粛宗に李光弼を殺すことを説得した。粛宗が黙殺すると、史思明は再び造反した。758年秋、李光弼は粛宗と会見し、侍中を加えられた。この頃、李光弼、郭子儀、魯炅、李奐、許叔冀、季広琛、崔光遠、王思礼等の部将が安慶緒討伐のため鄴城で合流した。李光弼はこの時総攻撃を提案したが、総監を任せられた宦官の魚朝恩に却下された。包囲された安慶緒が救援を求めたため、史思明は范陽から南進し、759年春に唐軍と戦ったが、混戦となり、李光弼と王思礼のみが兵をまとめて退却することができた。秋、魚朝恩が郭子儀に敗戦の責任を問うと、粛宗は朔方の軍権を李光弼に委ねた。その厳しい軍律に耐えかねた張用済は李光弼を排除して郭子儀を復活させるようとしていたが、李光弼は張用済を捕らえて処刑した。この頃には李光弼は名誉職の李係の下で実質的な唐の軍権を握っていた。
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安史の乱
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天宝14載(755年)、安禄山が反旗をひるがえし安史の乱が勃発した。洛陽は陥落。唐軍は潼関まで退いたが、司令官となった封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。 哥舒翰は病身であり、御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立していた。また、哥舒翰は厳酷で恩愛が少なく、宦官の袁思芸から報告を受け、玄宗が兵士に与えるために送った衣を蔵の中に入れていた。さらに、監軍の李大宜が兵士が飢えている状況で、遊びにふけっていた。ために、士気は振るわなかったと伝えられる。 至徳元載(756年)、潼関に攻めてきた安禄山の息子・安慶緒を撃退する。不仲であった安思順への安禄山からの手紙をでっち上げて弟の安元貞ともども誅殺に追い込んだ。 安禄山が楊国忠誅殺を大義名分としていた。そのため、王思礼は軍を長安の方に進めて、君に楊国忠を誅することを上奏することを求め、楊国忠をさらって殺すことを求める。だが、哥舒翰は謀反人になってしまうとして却下する。 楊国忠も警戒を強め、李福徳と杜乾運を将として哥舒翰に備える。哥舒翰は、杜乾運をおびきよせ殺してしまい、対立が強まった。
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安史の乱
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顔真卿が平原太守に移ったのは、安禄山がまさに反乱の意志を固めつつある頃であった。真卿は、安禄山の不穏な動きを見て、城壁の修理や濠の整備、食糧の準備などをひそかに行っていた。 天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、安禄山は洛陽を目指して挙兵した。その頃、常山郡太守を務めていたのは族兄の顔杲卿(真卿の伯父の元孫の第二子)であり、真卿は彼とともに安禄山に反抗する決意を固め、義兵を挙げた。河北や山東の各地が安禄山の勢力下に帰属する中にあって、真卿・杲卿が味方として軍を挙げたことに玄宗は驚喜したという。 天宝15載(756年)、常山郡は落城し、顔杲卿は安禄山によって惨殺された。一方顔真卿は、清河郡(河北省清河県)の李㟧と結び、魏郡を占領していた安禄山の軍を撤退させることに成功した。しかし、河北の戦局はしだいに不利に傾き、史思明の攻撃によって平原・清河・博平(山東省聊城市)以外の郡は陥落した。顔真卿はこのまま座視しても敗北するだけであると考え、平原城を捨て、当時霊武に避難中であった粛宗のもとへと向かった。 至徳2載(757年)、顔真卿はようやく粛宗のもとにたどり着き(粛宗は更に鳳翔へと移動していた)、謁見が叶った。真卿は憲部尚書(刑部尚書)・御史大夫として職務に当たった。この頃、安禄山が息子の安慶緒に殺され、同年に粛宗は長安に帰り、顔真卿もこれに従って長安に戻った。 しかし、直言を憚らない顔真卿は再び煙たがられ、蒲州刺史・饒州刺史・昇州刺史など地方を転々と異動することとなった。「祭姪文稿」「争座位帖」などはこのころ作られた作品である。その後、一時期中央に復帰したが、永泰2年(766年)に硤州の別籠の職になるなど、再び地方を転々とした。 大歴3年(768年)からは撫州剌史を務め、この頃に「麻姑仙壇記」「魏夫人仙壇碑」「華姑仙壇碑」など道教ゆかりの作品を多く残した。大歴7年(772年)からは湖州刺史を務める。
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安史の乱
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葛勒可汗(在位:747年 - 759年)の代になり、唐において安史の乱が勃発した(755年)。これにより唐の皇帝であった玄宗(在位:712年 - 756年)は退位し、粛宗が皇帝となった(756年)。粛宗は回紇に援軍を求めるため、李承寀を敦煌王に封じ、李承寀は将軍の石定番を回紇への使者に任命して修好を結ばせるとともに、対安禄山の徴兵をさせた。葛勒可汗はこれに承諾すると、娘の毘伽(ビルゲ)公主を李承寀に娶らせた。 至徳2載(757年)9月、唐の元帥は広平王李俶(のちの代宗)で、回紇からは太子の葉護(ヤブグ)と僕固懐恩が回紇軍を指揮して安禄山討伐にあたった。唐・回紇連合軍は11月までに首都の西京(長安)・副都の東京(洛陽)を奪還することに成功し、葉護太子は司空忠義王に封じられた。翌年(758年)、粛宗は葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗に冊立するとともに、寧国公主を葛勒可汗に嫁がせた。 英武威遠毘伽可汗は759年4月に死に、寧国公主は唐へと帰国する。葉護太子は帰国後亡くなったため、その弟である牟羽可汗(在位:759年 - 779年)が立って即位した。宝応元年(762年)4月、唐で粛宗が崩御したため太子の代宗(在位:762年 - 779年)が即位した。代宗は史朝義(安史の乱指導者)がなおも河洛の地にいるので、それを討伐するために劉清潭を回紇に派遣して徴兵させるとともに、旧好を修めさせようとした。しかし8月、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」と牟羽可汗を誘ったため、回紇軍が大軍を擁して南下を始めた。劉清潭はそれに遭遇したので、まず唐への侵攻を踏みとどまるよう牟羽可汗を説得したが聞き入れられなかった。このとき回紇軍はすでに三城の北まで到達していた。牟羽可汗は使者を派遣し、北方の単于都護府の兵馬と食糧を奪取するとともに、劉清潭をひどく侮辱した。劉清潭が密かにこの状況を代宗に報告すると、朝廷内は震撼した。この時、牟羽可汗の可敦(カトゥン:皇后)である僕固氏(僕固懐恩の娘)が牟羽可汗を諫めたため、牟羽可汗は思いとどまり、そのまま唐側に付いて史朝義討伐に参加した。牟羽可汗は僕固懐恩とともに史朝義軍を圧倒し、史朝義を自殺に追い込むと、河北を平定して8年に及ぶ安史の乱を終結させた(763年)。これにより牟羽可汗は唐より英義建功毘伽可汗に冊封され、可敦や左右の殺(シャド)・諸都督・内外宰相以下にも封号が与えられた。 この時期、安史の乱により唐軍が内地へ引いた為に空いたジュンガル盆地へ進出した。
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安史の乱
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至徳二載(757年)九月戊寅の日に、粛宗は邠王李守礼(章懐太子李賢の子)の子の敦煌王李承寀に、開府儀同三司の官を加えて宗正卿に任じ、迴紇の公主を娶って妃とさせた。葉護太子は将の帝徳らと兵馬4千余の部衆を率いて出兵した。唐を助け、逆賊の安禄山を討つためであった。粛宗は大いに喜び、盛大な宴を開催して葉護太子を歓待した。なお粛宗は討伐軍の元帥となった広平王李俶(後の代宗)に命じて、葉護太子と兄弟の約束をさせ、手厚い恩義を施して、葉護太子を遇した。葉護太子は広平王を兄と呼ぶことになった。 至徳二載九月の戊子の日に、葉護太子は迴紇の大首領の達干(タルカン:称号)ら13人がまず扶風に来て、朔方の将士と会った。僕射の郭子儀はこの一行を留めて、3日間の宴を開こうとしたが葉護太子は以下のように答えて固辞した。 唐の国家の危難があるために、私は遠方から来てご援助しようとしているのです。どうして宴会をして、暇をつぶしておれましょうか。 しかし、郭子儀は固くこれを引きとめた。宴が終わると葉護太子はすぐに出発した。その軍隊には毎日、羊200頭・牛20頭・米40石が食料として給与された。元帥の広平王は郭子儀らを率いて香積寺の20里の地点に到着すると、西方は豊水に臨んだ。賊軍は精鋭の騎兵を唐軍の本陣の東に隠し、唐軍の背後を襲撃しようとした。朔方左廂兵馬使の僕固懐恩は迴紇の葉護太子を招いて唐軍の救援を求めた。葉護太子は依頼を受けて賊軍を攻撃し、賊軍の一匹の馬も逃がさなかった。賊軍は大敗を喫したために西京(長安)を放棄した。これによって唐軍は西京を手中に収めた。 至徳二載十月、広平王及び副元帥の郭子儀は迴紇の兵馬を率いて賊軍と陝州の西において戦った。この戦いでは、郭子儀の軍隊は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子はその将軍の車鼻施吐撥裴羅らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、逆にこれを全滅させた。郭子儀は新店にいたり、賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却した。迴紇は唐軍が山を越え、嶺上を西方に進み、白い旗をなびかせたのを望見して、進んでこれを攻撃し、直ちにその背後に出たので、賊軍は大敗して逃げ、塹壕を掘った。郭子儀と葉護太子の軍はは賊軍の逃げるのを20里あまり追撃した。賊軍の人馬は重なりあい、互いに踏みにじられて、死者は数えきれぬほどであったという。郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。賊軍の武将の厳荘は馳せて、大敗したことを安慶緒に報告した。安慶緒はその大敗を聞いてあわてて賊党を率いて、東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。そこで葉護太子は広平王と僕射郭子儀に従い、東京に入城した。葉護太子は広平王から錦・毛氈・宝・貝を贈り物として与えられたのでそれを受け取ったという。 至徳二載十一月癸酉の日に、粛宗が西京に帰還したので、葉護太子は東京から西京に行った。粛宗は百官に勅してこれを長楽駅に出迎えさせた。粛宗は宣政殿に臨御して宴を開いて葉護太子をねぎらった。葉護太子は殿に升り、その配下の武将たちは階の下に列を作って並んだ。粛宗は錦・繍・繪(薄絹)・綵(綾絹)・金銀の器皿を葉護太子に贈り物した。葉護太子が暇乞いして西域に帰るにあたって、粛宗は「国家のために大事をなしとげ、義勇をなしたのは卿らの力である」と言った。葉護は答えて以下のように言った。 迴紇の戦兵は沙苑に駐屯しております。今はいったんは霊夏に帰り、新たに馬を取って来て、その上で范陽を占領して残賊を討伐するつもりです。 至徳二載十一月己丑の日に、粛宗は詔をくだして、以下のように述べた。 葉護の功績は艱難を救い、その大義は国家を保ってくれた。葉護の国(迴紇)は唐とは万里も離れたはるか遠い地方ではあるが、本朝(唐)と徳を一にし、心を同じくするものである。このような事実は古今に求めようとしても、いまだ聞いたこともないことである。迴紇の葉護は、特別に英姿を天から授かり、人よりぬきんでていて、人知れぬ計略を生んだ。その言はかならず忠信であり、その行いは温良をあらわし、その才は万人にも匹敵し、その位は北方諸蕃族の筆頭につらなっている。(唐において)凶悪にして醜いやからが人道を乱したため、中原はまだ不安な状態に陥っている。可汗は(唐と)兄弟の約束があることによって、国家のために父子の軍をおこし、その智謀を発揮し、あの凶悪なる逆賊を討伐した。ひとたび太鼓を鳴らして勇気をふるい、万里の遠きにわたって敵の鋒をくじいたので、20日間で両京は奪還された。その力は山岳を抜くほどに強く、その精神は風や雲を貫くほどにたくましかった。葉護は疲れてもその労を辞すことはなかったし、難事に急いで立ちむかっても、その分際を越えることはなかった。もとよりこのことは、日月に懸け、これを子孫に伝えるべきことがらである。分土に封じたり、封爵の誓いという恩賞のみにどうしてとどめておけようか。それ、位の崇高なのは司空があり、名誉の大なるものは封王が最高である。それゆえ、葉護を司空となし、なお忠義王に封ずべきである。唐は葉護に毎年、絹2万匹を送り、これを朔方軍に届けるから、葉護はよろしく使者を派遣してこれを受領せよ。 乾元二載(759年)四月に迴紇の葛勒可汗が死んだ際に、「その長男、葉護は以前に殺されていたので、迴紇は次男の移地健(牟羽可汗)を即位させ、その妻を可敦(カトゥン:皇后)とした」という史書の記述からすると、帰国後、間もなく殺害されたものと思われる。
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