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とっくつ 【突厥】

⇒とっけつ(突厥)

とっけつ 【突厥】

〔Türkチュルク)の複数形rküt の音訳という〕六世紀中頃から約二世紀の間、モンゴル高原から中央アジアにかけて支配したトルコ系遊牧民族。また、その国家。六世紀末東西分裂モンゴル高原支配した東突厥630年に唐に滅ぼされ、再興したが、八世紀半ばウイグルに滅ぼされた。中央アジア支配した西突厥は七世紀中頃唐に服属し、のちトゥルギシュに滅ぼされた。とっくつ


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突厥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/18 15:26 UTC 版)

突厥可汗国
(Türük)Old Turkic letter UK.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter T2.svg
柔然 552年 - 582年 東突厥
西突厥
突厥の位置
6世紀、突厥の最大版図
公用語 ソグド語テュルク語
首都 ウテュケン山
可汗
552年 - 552年 伊利可汗
553年 - 572年 木杆可汗
587年 - 599年 都藍可汗
面積
6000000km²
変遷
建国 552年
東西分裂 582年
モンゴルの歴史
モンゴルの歴史
中国 モンゴル高原
獫狁 葷粥 山戎
月氏 匈奴 東胡
 
丁零 鮮卑
魏晋南北 高車 柔然
鉄勒 突厥
  東突厥
回鶻
五代 黠戛斯 達靼 契丹
北宋 ナイマン ケレイト
南宋 (乃蛮) (客烈亦) モンゴル
モンゴル帝国
大元
北元(韃靼)
ハルハ
中華民国 モンゴル国
中華人民
共和国
モンゴル人民共和国
モンゴル国

突厥漢音:とつけつ、とっけつ[1]拼音:Tūjué、古テュルク語Old Turkic letter K.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter T2.svg【Türük】[2]Old Turkic letter UK.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter T2.svg【Türük】[3]トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族[4]で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事した[5]が、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。

目次

名称

原音

中国史書の伝える“突厥”という語については、これまで“Türk(テュルク)”にモンゴル語複数語尾である-üd(-üt)が付いた形“Türküt(テュルキュト)”の漢字音写であるとする説[6]が有力であった。しかし、近年になってから“突厥”という語は単純に“Türk”という音そのものを写した漢字であるという説[7]が支持されるようになってきた。[8]

意味

周書』異域伝,『隋書』北狄伝では、「彼らが住んでいた金山(アルタイ山脈)の形が兜鍪の形に似ていたことから、彼らの言葉で“兜鍪”を意味する“突厥”を部族名とした。」とある。

また、“テュルク”という名称の意義については「強力な(もの)」とする説[9]が有力であるが、異論もある[10]

歴史

起源

中国の史書にはいくつかの伝説が記載されている。

  1. 突厥人は匈奴の別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏という。別の部落を成した。後に隣国に破られ、一族は尽く滅ぼされた。10歲の男児がいたが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。雌狼がいて肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。隣国の王は男児の生存を聞くと、再び兵士を遣って殺した。兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌狼は高昌国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。狼はその中に隠れ、10人の男子を生んだ。10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。阿史那はその一つである。子孫は繁栄し、次第に数百家となった。数世代を経ると、各々洞窟を出て茹茹(柔然)に臣従した。彼らは金山(アルタイ山脈)の南側に住み、茹茹の鉄工となる。金山の形が兜鍪に似ており、俗に兜鍪を突厥と言うため、それを号とした。[11]
  2. 或いは云う。突厥の祖先は索国の出で、匈奴の北に在った。その部落大人(たいじん:部族長)は阿謗歩といい、兄弟が17人いた。阿謗歩らは愚かなため、国を滅ぼした。兄弟の一人である伊質泥師都は、狼から生まれ、風雨を呼び寄せる能力を持ち、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、四つ子を生んだ[12]。その一人である大児は踐斯処折施山に住み、山上にある阿謗歩の一族を寒露から助けたため、主(あるじ)に推戴され、訥都六設となり、突厥と号した。訥都六には10人の妻がいて、全ての子は皆母方の一族の姓を名乗った、阿史那は愛妻の子である。訥都六設が死ぬと、10人の母は子の中から一人を選んで立てるべく、大樹の下に集り、木へ最も高く飛べた者を立てると誓った。阿史那の子は幼かったが最も高く跳んだので、諸子から長に推戴され、阿賢設と号した。 [13]

これらに共通することは、狼から生まれた点であり、こうした狼祖伝説は同じテュルク系高車にも見られる。

また、『隋書』では「突厥の先祖は平涼の雑胡で[14]、姓は阿史那氏。後魏(北魏)の太武帝沮渠氏を滅ぼしたため、阿史那は五百家をもって茹茹(柔然)に走り、代々金山に住んで鉄工に従事した。その金山の形状が兜鍪のようであり、俗に兜鍪を突厥と呼ぶため、突厥を号とした。或いは云う、その先祖は西海の北に国があったが、隣国に滅ぼされ、老若男女尽く殺された。一児のみは殺すのに忍びず、足の筋と腕を切断して大沢の中に棄てた。一頭の牝狼がいて、毎日そこで肉を与え、この男児に食べさせたので、死なずに済んだ。その後、男児は狼と交わりを遂げ、狼は身篭った。隣国の人間は再び人に命じて男児を殺させると、その側に雌狼が居た。派遣された者は殺そうとしたが、雌狼は神によって、忽然として海東へ至り、山上に止まった。その山は高昌の西北に在り、下ると洞穴があった。雌狼が中に入ると、方200余里の草の茂る平坦地に出た。その後、雌狼は10の男子を生み、その中の一姓が阿史那氏で、最も賢く、君長となった、故に牙門には狼頭の飾りを設け、本源を忘れていないことを示す。」とある。[15]

現在、突厥の起源は丁零(ていれい)や狄歴(てきれき)に遡ると考えられ、『北史』では赤狄の末裔と記されている。特に西丁零の習俗がよく合致し、匈奴とは言語がやや異なると考えられる。南北朝時代には高車(こうしゃ)と呼ばれた集団がこれに当たり、突厥は鉄勒(てつろく)と呼ばれた集団の一部を成した。後年の『トニュクク碑文』には「九姓ウイグルは我々の同族である」と刻まれている。

勃興

訥都六設(ナテュルク・シャド)の孫にあたる吐務は、大葉護(だいヤブグ)と号し、柔然の臣下であった。彼には2人の子がおり、長男は土門(ブミン)、次男は室點蜜(イステミ)といった。吐務が死ぬと土門が後を継いだ。5世紀後半は柔然隷属下の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していたが、487年に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、西魏や西域との貿易を行い、6世紀初頭には西魏との間に正式な通商が結ばれた。

西魏大統12年(546年)、北の鉄勒が柔然を攻撃してきたので、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。土門はこれに乗じて柔然に求婚した。しかし、柔然可汗阿那瓌(在位:520年 - 552年)は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので激怒し、使者を送って罵った。土門はその使者を斬るなり柔然の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢し、西魏に求婚した。大統17年(551年)6月、土門は西魏の長楽公主を娶って妻とした。この年、西魏の文帝崩御したので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。廃帝元年(552年)1月、土門は柔然を撃ち、懐荒の北にて大破した。阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉へ逃れ、柔然の余衆は阿那瓌の叔父である鄧叔子を立てて可汗とした。土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。

最盛期

北周・北斉・陳・後梁と突厥

伊利可汗が亡くなると、子の乙息記可汗(在位:552年 - 553年)が継いだが、まもなく亡くなったため、その弟である木汗可汗(ムカン・カガン、在位:553年 - 572年)が後を継いだ。木汗可汗は即位するなり柔然を撃ち滅ぼし、柔然可汗の鄧叔子は西魏に亡命した。木汗可汗はさらに西の囐噠(挹怛、エフタル)を破り、東の契丹を敗走させ、北の契骨(キルギズ)を併合し、諸外国を次々と征服していった。これにより突厥の版図は、東が遼海(日本海?)以西、西が西海(アラル海)に至り、南は沙漠(ゴビ砂漠)以北、北は北海(バイカル湖)に至る大帝国となった。次に木汗可汗は西魏に鄧叔子の誅殺を請願した。西魏の宇文泰はこれを許可し、鄧叔子を青門外で殺した。こうして完全に柔然を滅ぼした木汗可汗は、中国の北朝と好を結ぶようになり、互いに姻戚関係となる。初めは北周北斉の両方から求婚されていたが、木汗可汗は北周を選び、保定3年(563年)から4年(564年)にかけての北斉討伐に参加した。この戦いでは何の成果も上がらなかったが、その後も突厥と北周の関係は良好であった。

しかし、次の他鉢可汗(在位:572年 - 581年)の時代になると、577年に滅んだ北斉の残党と組むようになり、たびたび北周の北辺を侵すようになった。北周は何度か突厥と交渉し、大象2年(580年)になってようやく北斉の残党である高紹義を連行することに成功した。

東西に分裂

581年、他鉢可汗が病死し、子の菴羅が即位したが、木汗可汗の子の大邏便が心服せず、制御できなかったので、大可汗位を爾伏可汗(ニワル・カガン)であった摂図に譲った。国人たちも「四可汗(乙息記可汗、木汗可汗、他鉢可汗、褥但可汗)の子の中では摂図が最も賢い」とし、摂図は正式に即位して沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)と号し、都斤山(鬱督軍山、ウテュケン山)を都とした。摂図(以後は沙鉢略可汗)は大邏便が今まで官位をもったことがないということだったので、阿波可汗(アパ・カガン)という称号を与えた。2月、北周の静帝楊堅禅譲し、が建国されると、北斉の営州刺史だった高宝寧が北方民族と結託して反乱を起こしたので、沙鉢略可汗はこれと合流し、臨渝鎮を攻め落とした。その後も反乱軍は隋軍に勝利し、隋の北辺を侵した。

開皇2年(582年)冬、隋の高祖文帝は河間王の楊弘、上柱国の豆盧勣竇栄定左僕射高熲右僕射虞慶則元帥とし、長城を出て反撃に出た。沙鉢略可汗は阿波可汗,貪汗可汗らを率いて迎撃するが、敗走し、飢えと疫病に悩まされ、あえなく撤退した。沙鉢略可汗は阿波可汗の気性が荒いのを危惧し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲撃し、阿波可汗の母を殺した。これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の達頭可汗(タルドゥ・カガン)のもとへ亡命した。このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に兵をつけて沙鉢略可汗を攻撃させた。このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが離反し、阿波可汗に附いた(これが西突厥となる)。

沙鉢略可汗は西の達頭可汗に悩まされ、東の契丹を畏れたので、隋に救援を求め、白道川内に移り住むことを許された。その後、沙鉢略可汗は晋王の楊広より補給をもらい、これにより阿波可汗を攻撃して捕えることができた。

開皇7年(587年)1月、沙鉢略可汗は子を遣わして朝貢した。この年、沙鉢略可汗の牙帳が火事になったため、沙鉢略可汗は火傷を負った。その数ヵ月後、沙鉢略可汗は死去した。遺言により弟の処羅侯が立つが、甥の雍虞閭に譲ろうとして、両者譲り合いをした結果、結局遺言どおり、処羅侯が葉護可汗(ヤブグ・カガン)として即位し、雍虞閭は葉護(ヤブグ:大臣)となった。しかし、葉護可汗が即位後まもなく流れ矢にあたって死去したため、国人たちは雍虞閭を立てて都藍可汗(在位:587年 - 599年)とした。都藍可汗は早速遣使を送って隋に朝貢した。

開皇12年(592年)大義公主は西突厥の泥利可汗と謀反を起こしたので、都藍可汗は大義公主を斬首した。一方、都藍可汗は達頭可汗と敵対し、たびたび征伐し合ったので、文帝はこれを和解させ、双方は兵を引いた。

隋による離間策

開皇17年(597年)、沙鉢略可汗の子の染干は突利可汗と号して、勝手に隋と関係をもったことから、大可汗である都藍可汗は激怒し、隋と国交を断絶し、たびたび辺境を侵すようになった。開皇19年(599年)、隋は漢王の楊諒を元帥として都藍可汗を撃たせた。都藍可汗は達頭可汗と手を組んで、突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。突利可汗は長孫晟と隋に逃げ込んだ。6月、高熲楊素は達頭可汗を撃ち、これを大破した。文帝は突利可汗を拝して意利珍豆啓民可汗(在位:587年 - 609年)とし、義成公主を娶らせた。なおも都藍可汗が啓民可汗を攻撃し、隋の辺境を侵すので、越国公の楊素,行軍総管の韓僧寿,太平公の史万歲,大将軍の姚辯の軍勢は都藍可汗を攻撃した。この年の12月、都藍可汗が部下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗となって啓民可汗と対立した。しかし、隋と組んだ啓民可汗の方が常に優位となった。

仁寿元年(601年)、それまで啓民可汗に付属していた鉄勒の斛薛(こくせつ)部などの諸部が叛いたので、文帝は詔で楊素を雲州道行軍元帥とし、啓民可汗を率いて北征させた。歩迦可汗はふたたび啓民可汗を攻めたが敗北し、吐谷渾に奔走した。

東突厥

7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire(Sui Dynasty)=、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire(Sassanid Dynasty)=サーサーン朝

啓民可汗の代では毎年数回は隋に朝貢していたが、子の始畢可汗(在位:609年 - 619年)の代になると、隋朝の衰えに乗じて中国に侵入するようになり、朝貢を行わなくなった。大業13年(617年)5月、唐公の李淵より援軍の要請があったため、始畢可汗は2千騎の援軍を派遣して隋朝打倒に協力し、その翌年(618年)、隋が滅んでが建国された。初め、始畢可汗は唐に使者を送って入朝させたが、武徳2年(619年)になって梁師都劉武周とともに中国侵入を謀った。しかし、始畢可汗はその年に亡くなってしまう。

頡利可汗(在位:620年 - 630年)の代になると、東突厥は頻繁に中国へ侵入し、略奪を行った。唐はそのたびに東突厥を撃退するが、その勢いがおさまらず手を焼いていた。しかし、貞観元年(627年)の薛延陀部を始めとする鉄勒諸部が東突厥に叛いたことに始まって、東突厥に臣従していた諸民族が次々と離反すると、貞観3年(629年)、唐の太宗は大規模な東突厥討伐を行い、小可汗の突利可汗(テリス・カガン)らを投降させる。その翌年(630年)には大可汗の頡利可汗が捕えられ、東突厥は一時滅んで唐の羈縻支配下に入る。

永淳元年(682年)、阿史那骨咄禄がイルティリシュ・カガン(Iltiriš-qaγan)と号して唐の羈縻支配を脱し、独立を果たす(突厥第二可汗国)。阿史那骨咄禄は武則天政権の唐にたびたび侵入・略奪を行い、中国を苦しめた。そんな中、唐朝は武則天の帝位簒奪によって一時的に滅ぼされ、周が建てられる(690年)。

阿史那骨咄禄が亡くなり、弟の阿史那默啜の代になると、初めのうちは周朝に入朝したものの、次第に傲慢になり、遂には周朝を滅ぼして唐朝を復活させようと中国侵攻を謀った。これに対し武則天は唐の廬陵王を皇太子とすることで、東突厥の中国侵攻を思いとどまらせた。その後の神龍元年(705年)、武則天が廬陵王に譲位して唐は復活を果たす。晩年の阿史那默啜は西方攻略に忙殺され、鉄勒討伐中に戦死する。阿史那骨咄禄の子である默棘連は阿史那默啜の一族を殺して毘伽可汗(ビルゲ・カガン、在位:716年 - 734年)となり、闕特勤(キュル・テギン)や暾欲谷(トニュクク)とともに、安定した国づくりを行い、唐とも友好的な外交を行った。

毘伽可汗の死後は東突厥内部で争いが頻発し、短命な可汗が交代するようになる。そして、この衰えに乗じた回紇(ウイグル),葛邏禄(カルルク),拔悉蜜(バシュミル)の3部族によって東突厥の可汗が殺され、東突厥は滅んだ。

西突厥

西突厥は統葉護可汗(在位:619年頃 - 628年)のもとで最盛期を築いたが、その死後内部分裂を繰り返し、2可汗並立の時代が続いた。太宗の崩御に乗じて阿史那賀魯が一時的に勢いを盛り返すが、高宗の討伐軍に敗れ、阿史那賀魯が捕えられると、西突厥も唐の羈縻支配下に入る。

羈縻政策下では、阿史那賀魯征討に功のあった阿史那弥射阿史那歩真の2人によって西突厥諸部が統括され、その両家が代々可汗位を襲名し、唐の反乱鎮圧などに参加した。

長寿年間(692年 - 694年)に弥射家の興昔亡可汗が途絶え、741年頃には、歩真家である十姓可汗の阿史那昕が突騎施(テュルギシュ)の莫賀達干に殺されると、西突厥の阿史那氏可汗が滅亡し、西突厥では突騎施部が台頭する。以後、突騎施部は黄姓黒姓に分かれて互いに争うようになった。

大暦年間(766年779年)の後は、葛邏禄(カルルク)族が盛んになり、黄姓と黒姓の突騎施二姓は葛邏禄に臣従し、その他は回鶻(ウイグル)に附くこととなり、ここにおいて西突厥は完全に滅んだ。

習俗・文化

突厥は匈奴柔然などと同様、遊牧民であるので、穹廬氈帳に住み、水草を追って移動し、牧畜狩猟を生業とした。老人を賤しみ、壮健な者を貴び、戦で死ぬのを重きとし、病で死ぬのを恥とした。食事は肉を主食に酪(らく:ヨーグルトの類)を飲み、葡萄酒は作らず馬乳酒を作って飲む。可汗は金銀の食器と黄金の家具を使用。また、今までの遊牧国家同様、婚姻において、夫に先立たれた妻は、夫の兄弟の妻となるレビラト婚の形式をとる。刑法は、謀反を起こした場合、殺人及び姦人の婦、馬を盗んだ場合は皆死罪となる。葬儀は死者をまず帳に留めて、近親の男女と羊馬を殺して帳前に陳列し、これを祭り、弔問者は7回顔に傷をつけて血と涙を流した後、死者を馬具や副葬品と一緒に火葬する。毎年諸貴人を率いて先祖が生まれたとされる洞窟を祭り、五月中旬には川の畔に人を集めて、多くの羊馬を殺して天神を祭った。鬼神を敬い、巫覡を信じた。突厥は、東は中国、西は東ローマ帝国ペルシャと、中央アジアシルクロードを利用して東西交易を活発に行い、さまざまな文化を取り入れた。

文字・言語

突厥は、東アジアにおいて、漢民族以外で、日本のかな文字と同様に、比較的早い5世紀に独自の文字(突厥文字)を持った民族である。そのことは、1889年以後に、モンゴル高原で発見された『突厥碑文』などによって世に知られることとなった。なかでも有名なのは、第二可汗国期の「闕特勤碑文」(ホショ・ツァイダム碑文)である。しかし、初めのうち(第一可汗国期)公用語はソグド文字ブラーフミー文字を使用していた[16]

突厥(テュルク)の言語はその名の通りテュルク語を使用していたが、それは支配民族であるテュルク系の遊牧民のみで使用されており、可汗国全体の公用語としてはソグド語が使われていた。それは当時、ソグド人シルクロード交易において優越的な立場にあり、中央アジアから中国に至るまでの地域でソグド語が広く使用されていたためである[17]

宗教

歴代の遊牧国家同様、突厥もシャーマニズムを信仰していた。しかし、佗鉢可汗(タトパルカガン、在位:572年 - 581年)の時代に彼が仏教帰依したということが中国史書、突厥碑文の両方に記されている。

経済

戦争業と牧畜業を主として製鉄業や農業・手工業も行っており、突厥人は皆武芸を修練し戦争に参加したとある。多くの奴隷を抱える奴隷制社会でもあり、供給源は犯罪者・戦争捕虜・略奪による拉致などで、征服部族は奴隷的使役に就かされた。奴隷や隷属部族は農業や手工業のほか牧畜業や戦争にも使用されたが、苦役を課された隷属部族の反乱が絶えなかった。

政治体制

突厥の君主は柔然と同様に可汗(カガン:Qaγan)といい、中国で言う皇帝にあたる。皇后にあたるのは可賀敦(カガトゥン:Qaγatun)という。

また、親族が名乗る特勤(テギン:Tägin)があり、その下には以下の順の官職がある。

  • 葉護(ヤブグ:Yabγu)…西部に多く見られ、東部の突利(töliš)に対照する。
  • 設(シャド:šad)…直属部族以外の兵馬を統べ、自由な徴税権限を与えられた、大きな権限を持つ官職。概ね東西2名が置かれた。
  • 啜(チュル:Čur)…五つの咄陸部を統領する官職。
  • 俟斤(イルキン:Erkin)…五つの弩失華部を統領する官職。
  • 吐屯(トゥドゥン:Tudun)…征服された他部族や他国からの徴税、労役の割当を担当する官職。
  • 阿波(アパ:apa)
  • 頡利発(俟利発、イルテベル:Ëltäbär)…政策決定の評議、政務を処理する官職。
  • 達干(タルカン:Tarqan)…兵馬を監督する官職。老練の者がなったとある。
  • 閻洪達…頡利発と同じく政策決定の評議、政務を処理する官職。
  • 梅緑(buïruq)…冗官。

などおよそ28の官職がある。これらの官職は代々世襲によって受け継がれ、父兄が死ぬと子弟が後を継いだ。また、権限の範囲がはっきりとせず、定員も無かったとされる。

可汗廷(首都)は都斤山(ウテュケン山:Ütükän yïš)に置かれ、牙帳は東側を入口とし、日の出を敬った。

可汗

  • 大可汗…国家(イル:ël)の最高権力者であり、即位の際は国の有力者たちの協議によって、突厥の中心氏族である阿史那氏の中から選ばれる。基本は父子相続だが、木汗可汗(在位:553年 - 572年)以降、兄弟相続の傾向にあり、協議の決定は先代の遺言や、母親の尊卑に左右される。
  • 小可汗…大可汗によって選ばれ、基本的には東西に1人ずつ置かれる。

  1. ^ 宮崎市定は「とっくつ」と読むべきだと主張した。
  2. ^ バイン・ツォクト碑文(トニュクク碑文)
  3. ^ ホショ・ツァイダム碑文
  4. ^ 『突厥与回紇史』、『回紇史』参照
  5. ^ 『突厥与回紇史』、『勅勒与柔然』参照
  6. ^ ドイツのヨーゼフ・マルクァルト(Josef Marquart)、フランスポール・ペリオ(Paul Pelliot)の説。Pelliot,P;L'origine de T'ou-kiue,nom chinois des Turks,T'oung Pao,XVI,1915.
  7. ^ プーリイブランク(E.G.Pulleyblank)の説。Pulleyblank,E.G.;The Chinese Name for the Turks,Journal of the American Oriental Society,85-2,1965.
  8. ^ 平凡社、1972
  9. ^ ミュラー(F.W.K.Müller)の説。
  10. ^ コノノフ(A.N.Kononov)の意見。Kononov,A.N;Opyt analiza termina Türk,Sovetskaya etnografiya,1947,No 1.
  11. ^ 『周書』列伝第四十二 異域伝下
  12. ^ このうちの一人は契骨(キルギス)となる。
  13. ^ 『周書』列伝第四十二 異域伝下
  14. ^ 他の史書と大きく異なり、おそらく錯誤
  15. ^ 『隋書』列伝第四十九 北狄
  16. ^ ブグト碑文
  17. ^ 森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』


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