死者数
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正確な死傷者の数字は存在しておらず、死亡率は地域によって大きく異なる。都市部では、感染爆発前の人口が多いほど異状死の期間が長くなる。ユーラシアでは約7500万人から2億人が死亡した[より良い情報源が必要]。14世紀の黒死病の死亡率は、20世紀最悪とされるインドで起きたペスト菌の感染爆発(ある都市では人口の3%が死亡)よりも遥かに大きかった。黒死病によって夥しい数の遺体が生じたため、ヨーロッパでは数百や数千という人骨を納める大量の埋葬地が必要となった。掘り返された大量の埋葬地が黒死病の生物学的、社会学的、歴史的、人類学的な意味合いの解釈や定義を考古学者に続けさせている。 中世の歴史家フィリップ・ダイリーダーによると、ヨーロッパ人口の45-50%がペストで死亡した可能性が高いという。ノルウェーの歴史家オーレ・ベネディクトーは、それがヨーロッパ人口の60%に及んだ可能性を示唆している。1348 年、この病気は急速に蔓延したため、医師や政府当局がその起源を考える時間を持つ前に、ヨーロッパ人口の約3分の1が既に死亡してしまった。人口密度の多い都市部では、人口の50%が死亡することも珍しくなかった。パリでは人口10万人の半分が死亡した。イタリアでは、フィレンツェの人口が1338年の11万-12万人から1351年には5万人に減少した。ハンブルクとブレーメンでは少なくとも人口の60%が死亡した。この病気によりロンドン市民も同程度の割合で死亡した可能性があり、1346から1353年にかけて約62,000人の死者が出ている。フィレンツェの税務記録は、1348年に同市人口の80%が4ヶ月以内に死亡したことを示している。1350年以前はドイツに約17万あった集落が、1450年までに4万近くに減少した。この病気は一部地域に到来しておらず、最も人里離れた僻地は伝染に対して脆弱ではなかった。15世紀の変わり目までペストはフランドル地方のドゥアイに現れておらず、エノー伯領、フィンランド、ドイツ北部、ポーランド地域の人口にはさほど深刻な影響を及ぼさなかった。黒死病で亡くなった人の看病をした僧侶や修道女は、特に大きな打撃を受けた。 アヴィニョン捕囚の医師レイモンド・シャルメル・ド・ビナリオは、1347-48年、1362年、1371年、1382年のペスト感染爆発による死亡率の減少を観察して「De epidemica」という論文にした。最初の感染爆発では、人口の2/3が病気にかかりほぼ全員の患者が死亡した。二度目では人口の半分が病気になったが、一部しか死ななかった。三度目は1/10が影響を受け、多くの人が生き残った。四度目の発生では20人に1人だけが発病し、その大半が生き残った。1380 年代のヨーロッパでは、主に子供たちが感染した。シャルメル・ド・ビナリオは瀉血が効果がないと認識しており(彼は自分の嫌いなローマ教皇庁職員のために瀉血を処方し続けたが)、ペストは実際のところ全て占星術的要因によって引き起こされており、不治であると主張した。彼は自分自身に治療を一切施さなかった。 この当時の中東(イラク、イラン、シリア含む)については、人口の約1/3が死亡したという推定が最も広く受け入れられている。黒死病によりエジプト人口の約40%が死亡した。カイロでは人口60万人が、恐らく中国西部最大の都市では住民の33-40%が8カ月のうちに死亡した。 イタリアの年代記制作者アニョーロ・ディ・トゥーラは、ペストが1348年5月に到来したシエナでの経験を記している。 父が子供を、妻が夫を、兄弟の片割れがもう一方を見捨てていた。というのも、この病気は息や視線を通して襲ってくると思われていたのだ。そして、そのように人々は死んでいった。また、お金や友情のために死者を埋葬する人など誰も見つからなかった。司祭も連れず、聖務日課も持たずに、遺族の人達ができる限りきれいに家族の遺体を壕に運んできた...大きな穴が掘られ、多くの死者が深く積み重ねられた。昼夜を問わず何百人もの人が死んだ...そして、壕が満載になるとすぐに追加で掘られた...そして私アニョーロ・ディ・トゥーラは...5人の子供を自分の手で埋葬した。そして、大地にまばらに埋められた者達もいたので、犬たちが彼らを引きずり出し、街中の多くの遺体を食い尽くした。全員に死が待ち構えていたので、誰かの死で泣いた人は誰もいなかった。また、あまりに大勢の人が死んだため、誰もが世界の終わりだと信じていた。
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死者数
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「1970年のボーラ・サイクロン」の記事における「死者数」の解説
タナ以前の人口死者数死亡率カラパラ 88,000人 8,000人 9% アムタリ 41,000人 2,000人 5% ガラチパ 319,000人 45,000人 14% チャー・ファッソン 171,000人 38,000人 22% ラルモハン 104,000人 23,000人 22% タズムッディン 167,000人 77,000人 46% ハティヤ 219,000人 18,000人 8% ラムガティ 217,000人 24,000人 11% サドハラム 35,000人 6,000人 17% 合計1,361,000人241,000人17.7%パキスタンとSEATOのコレラ調査研究所によって、11月と2~3月の二回に渡り医療上の救援調査が実施された。一回目の調査目的は被災地で必要な緊急医療の内容を決定することであり、二回目のより詳しい調査は長期的な医療と復興支援を計画するために実施された。二回目の調査においては、該当地域人口のおよそ1.4%が調査された。 一回目の調査結果として、殆どの被災地地表にある水の含塩量は井戸水と同程度だったが、サドハラムは例外であり、同地の水は塩分濃度が0.5%に達し飲用に適さなかった。死亡率は14.2%と推定されたが、これは24万人が死亡したことを意味した。サイクロンに起因する傷病は一般に軽い外傷に限られたが、「サイクロン症候群」と呼ばれる現象が観察された。これは四肢と胸部における重度の擦過傷から成るもので、生存者が高潮に耐えるため樹木にしがみついたのが原因だった。初期にはコレラと腸チフスの流行が懸念されたが、結果的に被災地ではコレラも天然痘も他の伝染病も蔓延している証拠は認められなかった。 二回目の調査では調査対象から幾つかの集団が漏れたため、恐らく無視できないほど過小評価だった。米を収穫する10万人の季節労働者や、嵐で生活基盤を完全に失って三ヶ月の間に被災地から流出した住民が含まれなかった。尤もこのため風聞や誇張が入り込むリスクは低減したかも知れない。このときは死者数の下限を22万4千人と結論した。最大の被害を出したのはタズムッディンであり、同地の死亡率は46.3%とされた。これは同地域だけで約7万7千人が死んだことに相当する。被災地全体を通じた平均死亡率は16.5%とされた。 調査結果によると生存率が最も高かったのは15~49歳の男性であり、死者の過半数は10歳未満の子供だったが、サイクロン前における10歳未満の子供の比率は人口の三分の一に過ぎなかった。つまりサイクロンと高潮の犠牲者は主に老人・子供と病弱者だった。サイクロンから数ヶ月経過後、被災地における年齢的に中位の集団はダッカ周辺の対照群に比較すると死亡率が低かった。これは嵐を通じてさほど頑健でない個人が間引かれてしまったことを反映している。
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死者数
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「新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)」の記事における「死者数」の解説
2021年12月現在、COVID-19が原因で、500万人以上の死亡者が出ている。中国の国家衛生健康委員会によると、死亡した人の大多数は高齢者であった。死亡者の約80%は60歳以上の高齢者で、75%は心血管疾患や糖尿病などの持病があった。COVID-19で死亡した人に関して、症状を発症してから死亡するまでの日数は6日から41日までの範囲であり、中央値は14日であることが示されている。 2020-2021年の2年間の世界各国の超過死亡率を研究した結果で、全世界のCOVID-19による死亡数が5,940,000人に対し、超過死亡者数で18,200,000人で約3倍であった。また、日本のCOVID-19による死亡数が18,400人に対し、超過死亡者数で111,000人で約6倍であった。 国ごとの100万人あたりのCOVID-19確定死者数を示した地図 国別の人口10万人あたりのCOVID-19死者数
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死者数
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通州事件の生存者 1937年8月5日の陸軍省調査では、死者184名(男93名、女57名、損傷がひどく性別不明の遺体34)、生存者は134名、その内訳は「内地人」77名と「半島人」57名であった。 1937年8月5日の在天津日本総領事館北平警察署通州分署の発表では、死者合計225名(内地人114人、鮮人111人)。 陸軍大学が1939年に作成した「支那事変初期ニ於ケル北支作戦史要」によると、通州在留邦人385名のうち223名が虐殺された。 支那駐屯軍司令官香月清司中将が1940年2月に記した『支那事変回想録摘記』には犠牲者邦人104名(内冀東政府職員および関係者約80名)鮮人108名(大多数は阿片密貿易者及醜業婦にして在住未登録なりしもの)とある。 その他、 児島襄は「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34名は性別不明なまでに惨殺されていた」とした。 中村粲は「在留日本人380名中、惨殺された者260名」とし 渡部昇一は、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている。
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死者数
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一部の学者は当時の国税調査の記録などから、安史の乱の死者数が唐の人口の3分の2にあたる3600万人に上ると概算している。スティーブン・ピンカーは著書にてこの死者数を引用し、当時の世界人口の6分の1が失われたと提示したが、議論の余地のある数だとも指摘している。ヨハン・ノルベリは著書にて死者数は8世紀の世界人口の約5%を占める1300万人に及ぶと述べた。
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死者数
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「ニーシャープール鉄道事故」の記事における「死者数」の解説
総死者数は知られていない。政府当局は182人の救助隊員や政府職員を含む、295人の死亡が確認され460人以上が負傷したと確認した。
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