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エジプト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/24 12:37 UTC 版)

エジプト・アラブ共和国
جمهورية مصر العربية
エジプトの国旗 エジプトの国章
国旗 国章
国の標語: なし
国歌: 我が祖国
エジプトの位置
公用語 アラビア語
首都 カイロ
最大の都市 カイロ
政府
元首代行 ムハンマド・フセイン・タンタウィ(エジプト軍最高評議会議長・国防相兼任)
首相 カマル・ガンズーリ
面積
総計 1,001,450km229位
水面積率 0.6%
人口
総計(2008年 82,999,000人(14位
人口密度 76人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 8,965億[1]エジプト・ポンド (£)
GDPMER
合計(2008年 1,621億[1]ドル(49位
GDPPPP
合計(2008年 4,426億[1]ドル(28位
1人あたり 5,898[1]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1922年2月28日
通貨 エジプト・ポンド (£)(EGP
時間帯 UTC (+2)(DST: (+3))
ISO 3166-1 EG / EGY
ccTLD .eg
国際電話番号 20

エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく)、通称エジプトは、中東アフリカ共和国首都カイロ

西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川河谷デルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。

目次

国号

正式名称はアラビア語جمهورية مصر العربية (翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر (標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言: [mɑsˤɾ] マスル) 。

アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形ミスライム (מצרים, ミツライム) となる。

公式の英語表記は Arab Republic of Egypt 。通称 Egypt。形容詞はEgyptian(イジプシャン)。

日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト漢字では、埃及と表記し、と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。

歴史

古代から中世

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタに支えられて世界四大文明の一つである古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッド王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年にペルシアに支配され、ペルシア帝国紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系プトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。

プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えたが、639年イスラム帝国将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。

アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。とくに250年間続いたマムルーク朝のもとで中央アジアカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、1517年にマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国のもとでもマムルーク支配は温存された。

近代から現代

1798年フランスナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけにエジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人、ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済軍事の近代化を進めて、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。

しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1882年にアフメド・ウラービー (en:Ahmed Orabi)が中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)もイギリスによって武力鎮圧され、エジプトはイギリスの保護国となる。

1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日エジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年パレスチナ戦争第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年自由将校団クーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命[2])、1953年に最後の国王フアード2世が廃位され、共和政へと移行し、エジプト共和国が成立した。

ガマール・アブドゥル=ナーセル第二次中東戦争に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義の中心となった。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルのもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。

1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。しかしサーダートが進める政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させ、体制に対する抵抗が激化した。サーダート自身も1981年イスラム過激派ジハード団によって暗殺された。代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、ムバーラクが追放されるまで30年以上に渡って継続された[3]

アルカイダを中心にしたイスラム過激派が未だ多く潜伏しており、外国人などを狙ったテロも後を絶たない。1997年にはイスラム原理主義過激派の「イスラム集団」が外国人観光客を襲撃したルクソール事件などが発生している。

2011年1月、近隣諸国の民主化運動が波及し、30年以上に渡って独裁体制を敷いてきたムバーラクの辞任を求める大規模なデモが発生。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱をまねいた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマル・ガンズーリ英語版を暫定首相とする政権が発足し、軍・司法などをのぞく権限の大部分が移譲された。




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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 p49
  3. ^ エジプト副大統領が野党代表者らと会談、譲歩示す
  4. ^ 2011年12月現在では、定数498議席のうち、3分の2(332議席)が政党(連合)リストによる比例代表制で、3分の1(166議席)が小選挙区制で選出される
  5. ^ エジプト・シャラフ内閣が総辞職表明 デモの混乱で引責 朝日新聞 2011年11月22日
  6. ^ エジプト軍議長「近く挙国一致内閣」とテレビ演説 朝日新聞 2011年11月23日
  7. ^ エジプト軍議長、元首相に組閣要請 選挙管理内閣を想定 朝日新聞 2011年11月25日
  8. ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷  p.58
  9. ^ “エジプト:ガザ、出入り自由に 検問所開放、外交転換鮮明に”. http://mainichi.jp/select/world/news/20110526dde007030008000c.html 2011年5月26日閲覧。 
  10. ^ 「朝倉世界地理講座 アフリカⅠ」初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日(朝倉書店)p198
  11. ^ ミリオーネ全世界事典 第10巻 アフリカⅠ(学習研究社、1980年11月)p206
  12. ^ IMF
  13. ^ The Dairy Star of Egypt 2007年1月23日
  14. ^ a b c d CIA World Factbook "Egypt" 2010年1月31日閲覧。
  15. ^ [2]
  16. ^ [3]


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