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李氏朝鮮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/22 13:30 UTC 版)
| 李氏朝鮮/李朝 | |
|---|---|
| 朝鮮語表記 | |
| ハングル: | 조선(왕조)시대 |
| 朝鮮の漢字: | 朝鮮(王朝)/李朝(封建)時代 |
| 片仮名転写: | チョソン(ワンジョ)/ リジョ(ボンゴン)シデ |
| ラテン文字転写: | Joseon/Chosŏn Wangjo |
| 中国語表記 | |
| 繁体字: | 李氏朝鮮/李朝 |
| 簡体字: | 李氏朝鲜/李朝 |
| ピンイン: | lǐshì cháoxiǎn/lǐcháo |
| 英語表記 | |
| アルファベット: | Joseon Dynasty |
李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)ともいう(李王朝の意)。高麗の次の王朝。
1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる[1])が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。
日清戦争で日本が勝利したことにより、日本と清国との間で結ばれた下関条約は朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と独立をもたらした。これにより朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改めたが、これ以後日本の強い影響下に置かれることとなり、韓国の主権は次第に日本に移されてゆく。1910年8月の韓国併合ニ関スル条約調印によって日本に併合された。
目次
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国名
| 朝鮮の歴史 | ||||||||||||
| 先史時代 | 櫛目文土器時代 無文土器時代 |
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| 古朝鮮 | 辰国 | 檀君朝鮮 箕子朝鮮 衛氏朝鮮 |
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| 原三国 | 三韓 | 濊 | 沃 沮 |
漢四郡 | 耽羅 | 高句麗 | ||||||
| 三国 | 伽倻 | 百済 | 高句麗 | |||||||||
| 新羅 | ||||||||||||
| 南北国 | 統一 新羅 |
渤海 | ||||||||||
| 後三国 | 新羅 | 後百済 | 後高句麗 | |||||||||
| 高麗 | ||||||||||||
| 李氏朝鮮 | ||||||||||||
| 大韓帝国 | ||||||||||||
| 日本統治時代 大韓民国臨時政府 |
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| 連合軍軍政期 朝鮮人民共和国 |
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| 大韓民国 | 朝鮮民主主義人民共和国 | |||||||||||
| * 朝鮮の君主一覧 * 大韓民国指定国宝 |
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| 查·论·编 | ||||||||||||
高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められた。
明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ、そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。壬午事変後に作成された国旗には「大清国属高麗国旗」と明記された[2]。
朝鮮半島には衛氏朝鮮などの朝鮮を国号に持つ王朝がかつて存在したため、日本ではそれらと区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある[3]。
韓国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は植民地史観に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「朝鮮」、李氏朝鮮の王室は「朝鮮王朝」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は古朝鮮と呼び区別している。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。北朝鮮では歴史教育の場で封建統治者を批判する時に限ってのみ「李氏朝鮮封建統治輩」「李朝封建国家」という言葉を使用している。
1897年、清の冊封体制からの離脱・独立の後に国号を大韓帝国(だいかんていこく)と改称した。
歴史
李氏朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から端宗までの王道政治の時代(1393年 - 1455年)、世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政治(1804年 - 1910年)の区分に分けられる。
一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが明の朝貢国であった時代(1393年 - 1637年)と、清の朝貢国であった時代(1637年 - 1894年)、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - 1910年)という3つの時代区分に大きく分けられる。
第1の区分の末期には、文禄・慶長の役(韓国名倭乱)と胡乱(後金(のちの清)による侵攻)と言う大きな戦争が朝鮮半島内で発生しており、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、清の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華思想)や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想(事大主義)や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する中華思想などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮朱子学の発達が進んだ。その後は儒教内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。
19世紀末期になると、欧米列強や日本(大日本帝国)、清などの介入が起こる。結局1894年の日清戦争で日本と清が戦って日本が勝ち、清との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。
しかしこの時代は、国内的にはロシアと日本の対立に巻き込まれ、それに派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥っていった。親日路線派は、親ロシア派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも親日派や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。日露戦争で日本勝利後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の李完用などは日本が韓国を保護国化・併合する方針を採り、一進会は「韓日合邦」を主張した。日露戦争後の第二次日韓協約で日本は韓国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。1910年に日本と韓国は韓国併合ニ関スル条約を結び、韓国は日本に併合された。李王家や貴族は李王家・朝鮮貴族として華族制度に統合された。
李氏朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた儒教道徳に基づく統治である。これは一面では身分制度を強固なものとし、差別意識を助長したり、現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国、北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。文化的には高麗青磁を受け継いだ李朝白磁があり、前代の華麗さに対して優美さを基調としたものと評価されている。儒教道徳を曲解した支配者からの差別も非常に根強かったが、白磁は李朝を通じて優れた職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。
日本の統治下で育った韓国の朴正煕元大統領は自著『国家、民族、私』で、李氏朝鮮について次の言葉を遺している。
- 「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
- 「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
- 「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
建国と混乱 - 太祖から端宗まで
「李成桂#朝鮮王朝建国までの道程」も参照
13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。
14世紀後半、中国遼東の納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真や倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂は1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻してクーデターを起こし(威化島回軍)、高麗の首都開城(開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。
遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王(禑王(禑は示禺))に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。
高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との間で対立があり、李成桂は昌王を廃位し、1389年に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の禑王と昌王は殺された。このとき既に、家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、1392年に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。王位から追い出された高麗王家の王一族は都を追放され、2年後の1394年に李成桂の命令でことごとく処刑されている。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、その難を逃れようと多くの者は改姓をしたと言われている。全氏や玉氏、田氏などは姓を変えて難を逃れた王氏の一族であると言われていた。
高麗王として即位し、王制などもそのままであったが即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の禑王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。
朝鮮に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今のソウル)への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。
李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。1398年に起きた第一次王子の乱により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠(後の太宗)により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代定宗である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから1400年には四男・李芳幹により第二次王子の乱が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。
一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を取った。また、この時代は李氏朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。
明に対しては徹底的な親明政策を取り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封されることになる。また、倭寇対策に対しても積極的な政策を取ることになる。太宗は、1418年に世宗に王位を譲り上王になったが、軍権はそのまま維持し、1419年の応永の外寇の指示にも当たっている。
次代の世宗、いわゆる世宗大王の時代が、李氏朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、1437年には豆満江以南の女真地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。
第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決済する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、度々宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君はたくみに勢力を拡大し、1455年に端宗から王位を強制的に剥奪し、自らが王位に即く。これが世祖である。
応永の外寇
1419年に世宗は応永の外寇と呼ばれる対馬への遠征軍を派遣した[4]が対馬国守護大名の宗貞盛の奮戦により退けられた。
勲旧派と士林派の対立と士禍 - 世祖から明宗まで
世祖が王位につくと反対勢力を排除し、王権を自らの元に集約する。軍政や官制の大幅な改正を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発する様になる。世祖は逆にこの反乱を鎮圧し、中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策をとり外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。また批判勢力を弾圧し、自らに服従する功臣達を優遇した。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。
世祖の死後、幼い王や夭折する王が続いたため、国政は不安定になった。また、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の時代になると士林派勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むことになる。成宗の治世(1469年 - 1494年)は政治的には一応の安定を見たが、成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。
燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は1504年の甲子士禍で士林勢力の大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、1506年、朴元宗らのクーデターにより廃位、追放された。
次代中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる三浦の乱が、1510年に起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、1519年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ(己卯士禍)、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。明宗が即位した年の1545年には乙巳士禍が起きている。
この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。
朋党政治の始まり - 宣祖から光海君まで
朋党政治
1567年の宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は1575年には西人と東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に別れて論争を繰り広げる政治体制の事を朋党政治と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。
東西に別れた士林派は互いを牽制していたが、李珥(李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。1584年に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、鄭汝立の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派の李山海を中心とした北人と穏健派の禹性伝を中心にした南人の2つの派閥に分裂した。
文禄の役と慶長の役
その頃、日本を統一(天下統一)した豊臣秀吉は大陸への進出のために1589年、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべしとする外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月、西人の黄允吉を正使、東人の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えてしまう。1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。
1592年4月13日の文禄の役では体制の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の咸鏡道北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。しかし民衆の中には李氏朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月15日、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する(慶長の役)が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によってようやく終結し、豊臣軍は引き上げた。
慶長の役後の党争と日本との講和
この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。李氏朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって李氏朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には再び活気が蘇った。
一方、この戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが効かなくなると言う事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。
李氏朝鮮では戦争終結後、政権の腐敗などで改善があったものの政争は続いていた。特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の1591年から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の臨海君は世子にふさわしくないと言う理由で排除され、光海君を世子とすることに決まったが、1594年に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は宙に浮いたままになった。1606年、正妃の仁穆王后が永昌大君を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に別れての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。1608年、宣祖が重病に陥ると周囲はあわただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。
光海君は即位すると破綻した財政の再建と現実的な外交施策を展開し、また党争の終結に力を入れようとしていたが、党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ1615年まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。一方で弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金(清)の間に挟まれ、二極外交を展開することになる。既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。しかし光海君によるこれらの政策は、民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになった。
1623年2月12日、光海君は自身の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、仁祖として即位させた。この事件を仁祖反正と言う。
清への従属と換局・蕩平策 - 仁祖から正祖まで
胡乱と清朝の属国化
仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立することで政局の安定を試みた、一方外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開したが、この政策は裏目に出た。
仁祖即位直後の1624年には、李适による反乱事件、李适の乱が起こっている。この反乱は、仁祖が一時期漢城から避難するほどのものであり、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。のち仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、1628年に漂着したオランダ人ペルテブレ(en:Jan Jansz. Weltevree)より大砲を導入するなど軍事力強化の施策を行った。
しかし、軍事力強化の施策を行い始めた矢先に、二極外交を破棄された後金は、まず1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入した(丁卯胡乱)。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時江華島へ避難することになった。その後、朝鮮側の反撃により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と補給に難を抱えていた後金側は結局講和を行う事になった。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は、結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑む代わりに朝鮮は明には敵対しない事を条件に講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦金軍は撤収する。
1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時は斥和論が伸張しており、朝鮮がこの条件を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に別れての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この和議の内容は清に服従すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うなど11項目に及ぶ屈辱的内容であり、三田渡で仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をし、清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった(大清皇帝功徳碑)。清に対する服属関係は日清戦争の下関条約が締結され、朝鮮が清王を中心とした冊封体制から離脱する1895年まで続くことになる。
性理学の発展と貨幣経済の浸透
三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、宋時烈・宋浚吉などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。一方でこれらの朱子学は党争をかき立て、政治を混乱に巻き込む要因にもなった。
経済政策では、崩壊しかけていた貨幣経済の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である銅を日本に依存していた為、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、後の2つの胡乱などにより、思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは1678年の粛宗の時代に入ってからになる。
次代の孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、北伐論(ko:효종의 북벌)が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、ロシアが満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣(1654年と1658年の羅禅征伐、ko:나선정벌)している。
清の中国での覇権が確立した第18代顕宗の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた(己亥礼訟) 。顕宗は終わり無きこの論争を止めさせるため、1666年に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握する様になる(甲寅礼訟)。
粛宗による換局政治による党争の統制
次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行う事で、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。1680年の庚申換局で西人に権力を掌握させると、1689年には、己巳換局で今度は南人の手に政権が移った。1694年の甲戌換局で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は老論と少論に分裂することになる。粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。[要出典]猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張しているため争点となっている。
1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍〈ko:신임옥사〉)。
蕩平策による王権強化
景宗は短命で亡くなり、1724年に第21代王として即位した英祖は熾烈な党争を抑えるために、蕩平政治を行う事になる。党争を抑える為に、要職に付く者を各党派からバランス良く登用する事で、政争を抑え、王権を強くするという政策である。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放された少論、南人派による李麟佐の乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用する事で政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化していった。これらの政策によって王権は強化され、政治は安定を見ることになる。
その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由で荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后や王女の和緩翁主などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正統であるとする老論を中心とした僻派(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心とした時派に別れ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。
なお、この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。
英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正統とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。
キリスト教カトリックの伝来
この頃に中国を経由してカトリックが流入してきており、そのカトリックの儀式が儒教の儀式と相反する事から、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、1791年に最初のカトリック弾圧事件(辛亥邪獄(ko))が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。1795年に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、蕩平政治は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。
この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入も相俟って、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。
安東金氏の勢道政治 - 純祖から哲宗まで
1800年、純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために蕩平支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉邪獄)。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も1815年、1827年、1838年など、断続的に行われた。
1802年、金祖淳の娘が王妃になる。1804年、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。1805年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の本貫である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する勢道政治の時代が始まる。
安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された両班があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり(三政の紊乱)、農民反乱が頻発するようになる(李氏朝鮮後期の農民反乱)。その中でも大きな反乱が、1811年に起きた洪景来の乱である。これは農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、ほどなく勢いを失い、1812年に鎮圧されている。
安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した憲宗、次々代王哲宗にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって李氏朝鮮の政治を牛耳っていた。
一方、1845年にはイギリスの軍艦が済州島付近の海域に侵入。1846年には、フランス海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など、西洋列強の干渉が始まる。
開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期〜中期
59年間に渡る安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなくなっていたために、手をこまねいているしかなかったが、その中から安東金氏より権力を取り戻そうという動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と李昰応(昰は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。李昰応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。
興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。
一方で、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に発生した2つの戦闘で(文珠山城戦闘、鼎足山城戦闘)で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾。擾は手偏に憂)。
一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。
大院君はこれらの成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。
閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替える。1875年には日本軍が開国を求めて江華島に侵入してきた。開国派が主流をなした閔氏政権は、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結する。それに引き続いて、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。
一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。
また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派の煽動も有って、1882年に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された[5]。事変後には済物浦条約が締結され[5]、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。壬午事変により閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。この政策は親日開化派の孤立化を招いた[5]。また混乱から国内では反乱が生じる。
1884年12月、金玉均、朴泳孝ら開化派(独立党)がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され[6]、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。事件後には守旧派にって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した[6]。1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領された(ポート・ハミルトン事件)[7]。
また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発する。東学党の乱が勃発すると、親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾にこの戦争に介入した。乱は2国の介入により、官軍と農民の和議という形で終結するが、清王軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。
その後東学党の乱の鎮圧に朝鮮政府が清に援軍を要請し、それに対抗して日本が朝鮮に出兵を行ったことから日清戦争が勃発し(1894年 - 1895年)日本軍の勝利に終わると、下関条約により、朝鮮と清の冊封関係は終わり、独立国となったが閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。
自分の后が暗殺されるという事態に直面した高宗は恐怖を感じ、1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。
日本による保護国化から併合 - 高宗後期~純宗時代
1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位することとなった。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。
1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、
- 現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
- 加えて財政支出の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。ということであった。
1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合は決定的なものとなった。日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約は締結された。ここに韓国は日本国の一部となった。これにより、518年に及ぶ王朝の支配は終焉を迎え、李氏朝鮮は完全に滅亡した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられた。
日本に併合後まもなく、朝鮮人の一部宗教家や学生らによる三・一独立運動又は三・一鮮人暴動と呼ばれる反日活動があったが、活動事態は大きな成果をあげることなく朝鮮総督府当局の鎮圧により終息した。朝鮮の統治者であった李王家には日本皇室から方子女王が嫁入りするなど皇室に準じた扱いを受けることとなった。
李氏朝鮮に関連した本
- 徳恵姫―李氏朝鮮最後の王女 本馬 恭子 葦書房
- 朝鮮文化史新講―李氏朝鮮末までの伝統文化を中心に (1985年) 金 義煥 東洋書院
- 歴史物語 朝鮮半島 (朝日選書) 姜 在彦 朝日新聞社
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