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たいほうぐん たいはう― 【帯方郡】

朝鮮半島中部西岸に、後漢末から313年まで約110年間置かれた中国の郡名。楽浪郡併有していた遼東太守公孫度の子、公孫康が郡の南部分割して設置邪馬台国女王卑弥呼との通交で知られる。


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帯方郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/04/10 12:03 UTC 版)

3世紀の朝鮮半島

帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南半を裂いた数県(代では7県〈『晋書地理誌』〉)と、西の族、南の韓族諸国、東南海上の国がこれに属す。後漢から西晋の時代にかけ、郡の経営を通じて韓・倭という東夷の後進地域を大いに活性化したほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。

目次

帯方郡の歴史

公孫氏による創設

後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢郡県の統制が及ばずに荒廃した朝鮮半島を侵食して、現在の平壌付近にあった楽浪郡治を支配下に置いた。その後を継いだ嫡子・は、建安9年(204年)楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡と称し、土着勢力の韓・濊族を討って「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」(『三国志』魏書韓伝)という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。

公孫康の死後、その子・が幼いために康の実弟・恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。が、太和2年(228年)成長した公孫淵は叔父・恭の位を奪い取り、魏からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。しかし淵は、魏朝の仇敵である孫権との同盟を画策するほどの奸雄であった。最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、景初元年(237年)反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属した。

翌年(238年)魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧責めにあって公孫淵とその子・修は滅びる。これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。

魏の直轄経営

襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏の明帝は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はここに初めて公孫氏からの支配をのがれて、魏の直轄地となる。太守・劉昕は、周辺の韓・濊族の首長たちに邑君、あるいは邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて結び直した。邪馬台国・卑弥呼も、翌・景初3年(239年。『魏志倭人伝』の景初2年は誤りとするのが通説)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣したわけである。このとき太守は劉夏に替わっていたが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行を送らせた。

正始元年(240年)にさらに異動があり、新太守となった弓遵は、魏の明帝の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送った。ところがこの弓遵は、同6年(245年)に嶺東へ遠征して濊を討った後、郡内の韓族の反乱にあって居所の崎離営を襲われ、あえなく戦死する。それまで帯方郡が所管していた辰韓八国を楽浪郡へ編入することになり、その決定を現地に伝えたところ、通訳が誤訳を犯して臣幘沾韓を激怒させたというのだ(『魏志韓伝』)。この「臣幘沾韓」が馬韓条の「臣濆沽国」のことならば(岡田英弘『倭国』1977年)、たとえば朝貢路の変更による権益喪失など、その一国の存否に関わる重大な事態が想起される。ほどなく鎮圧されたとはいえ、馬韓55国・弁韓12国・辰韓12国の韓族各国の利害関係と、楽浪郡・帯方郡の統治関係との複雑さをうかがわせた一件である。

そして同8年(247年)弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国狗奴国との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の張政が派遣されるに留まった。

ここまでの帯方郡の動きは『魏志』からつぶさに知れる。歴代太守の記録を見ると、戦死した弓遵の例を除き、外交官としての非軍事的活動が主であることに気づく。また、その頻繁な人事異動には(8年間で4人の太守)、帯方郡の軍閥化を防ぎ第2の公孫氏を生まぬようにするための魏の基本方針と推測される

帯方郡の滅亡

泰始元年(265年)に魏の重臣であった司馬炎(懿の孫)が魏の元帝から禅譲を受けて西晋を興すが、その新しい王朝の繁栄も長くは続かず、永康元年(300年)身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県であった(『晋書地理誌』)。

建興元年(313年)遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、ひとり朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は雪崩をうって瓦解。その民や財貨、技術、文化は、近接する馬韓・弁韓・辰韓によって広く吸収され、次の時代の百済伽耶新羅という新しい国々を育む豊かな土壌となった。

帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残っていたようで、広開土王碑文には(404年)倭が帯方界に進入して高句麗と戦ったことが記述されている。

帯方郡治はどこにあったか

楽浪郡の所在地が、現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し、考古学的に明らかにされた状態といえる。これに対して、帯方郡治の比定地については決め手がなく、現代の38度線を挟んで諸説ある(東潮「古代朝鮮との交易と文物交流」『日本の古代3』1986年)。『魏志倭人伝』では、帯方郡が邪馬台国への旅の出発点であるだけに、かの邪馬台国論争からの関心も厚い(安本美典「魏志倭人伝を読む その3」邪馬台国の会・第232回講演記録)。

(a) 黄海北道鳳山郡説
平壌から南へ50km、黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡治に比定する説(那珂通世、白鳥庫吉、榎一雄、今西竜、井上光貞、井上秀雄、鳥越憲三郎など)。楽浪郡址と同時代の瓦・塼(煉瓦)・銭などが出土しているほか、1912年、付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が見つかり、以来、いわば本命の説となっている。が、ひとりの太守の墓があったらそこを郡治と断定できるのかというと、それはそれで疑問が生じる。墓というものは故人の生前の住まいやゆかりの地、故郷、死亡地、遺族の居所近くなどにも営まれうる。この説が有力といわれながらも決め手を欠くゆえんである。
(b) 黄海南道安岳郡説
平壌の南西60km、安岳郡に比定する説。付近には「元康5年(295)」銘塼のある下雲洞古墳、「太康9年(288年)」銘塼出土の柳雲里北洞があり、楽浪墓制と同じく、漢人の塼槨墓がこの地にも数多く営まれたことを窺わせる。大同江河口の入江を扼する位置にあり、中国遼東半島、山東半島のどちらにも近いという海上交通の要地でもある。が、当地へ帯方郡を誘致する論拠としてならよいが、これらをもって帯方郡治がここにあったと断ずる根拠は薄かろう。むしろ、(a)説の鳳山郡も含め、安岳郡、信川郡など載寧江流域の一帯には、他国からの流入者・亡命者などを含めた中国人社会が形成されていたという見解(東潮・前掲書)が、これらの地に塼槨墓が存在する理由を合理的に説明しうるものとして注目される。
(c) 京畿道ソウル説
現在のソウルに帯方郡治があったとする説(関野貞、小田省吾、白崎昭一郎、坂田隆、江上波夫など)。『漢書地理誌』には、前漢時代の楽浪郡25県の1つとして帯方県が記され、「帯水、西して帯方に至り海に入る」とある。そこでこの「帯水」とはどの川かとなるが、同書には明らかに大同江を指し示す「列水」がある以上、「帯水」を大同江のことと解する余地はない。最有力なのは中部を西流する大河の漢江であり、その河口部のソウルこそが帯方郡治であったという論法になる。このような文献解釈としての説得性が当説の強みであるが、考古学的にはまったく逆に、郡治があった痕跡は希薄である。ソウルを中心として風納里土城、夢村土城、石村洞古墳群などの発掘が行なわれたものの、めぼしい発見は未だない。
(d) 京畿道広州説
ソウルの東南40kmの広州を帯方郡治に比定する説(岡田英弘、ソウルか広州のどちらかだろう〈前掲書〉)。漢江を河口から遡ると、ソウルを過ぎて北上する北漢江と南東に向かう南漢江に分かれる。「帯水、西して帯方に至り海に入る」の「帯水」を(c)説よりも長く捉えて南漢江と解すれば、帯方郡治を広州と考えることも可能である。広州はいまでこそ目立たぬ小村であるが、百済の最初の王都・尉礼城とはここであった。古代の邑城が、海からはやや離れ、少し河口を遡った小高い地に多く存在することを考えると、むしろソウルよりも相応しい場所といえる。が、これといった考古学的裏付けがないのは、(c)説同様、これまた大きな弱点である。

(a)・(b)両説に共通して、黄海北道や黄海南道では、帯方郡に近すぎて2つに郡を分けた意味がなかろうという批判がある。また(a)・(b)説では「韓、帯方の南にあり……方四千里ばかり」(『魏志韓伝』)という1辺4,000里の正方形にはならず、縦長の長方形になってしまうから記述に合わないとの批判もある。前者は感覚的にすぎ、後者は迂遠な論法で、それぞれにそう言いたい気分は伝わるものの、反対論としてパワー不足の観は否めない。が、この2つを掲げて事足れりとするソウル説論者が日本や韓国に存外に多い。

ところで、「公孫康、屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為す」(『魏志韓伝』)とあるように当初は帯方郡に属していた屯有県であるが、『晋書地理誌』の掲げる帯方郡の7県には入っていない。このような、おそらくは楽浪郡と帯方郡の間に存在したであろう県について、その場所がきちんと判明すれば、帯方郡治の位置を推測する有効な手がかりとなるのではあるまいか。『漢書地理誌』、『晋書地理誌』などに記された各県治の地道な比定作業こそが、帯方郡治の在処を明らかにする近道なのかもしれない。

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