景文王
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景文王(けいぶんおう、845年? - 875年8月12日)は、新羅の第48代の王(在位:861年 - 875年)であり、姓は金、諱は膺廉(ようれん)[1]。父は第43代僖康王の子の啓明阿飡(6等官)[2]、母は光和夫人[3]、王妃は先代の憲安王の娘の寧花夫人[4]。861年1月に憲安王が死去し、王子がいなかったために婿の膺廉を王位に就けよとする遺詔に拠って王位に就いた。
- ^ 『三国史記』新羅本紀・景文王紀の分注には凝廉ともいう。また、新羅本紀・真聖女王即位紀には、崔致遠の『文集』第二巻「謝追贈表」を引用して、景文王の諱を凝廉(ぎょうれん)と記している。
- ^ 『三国遺事』王暦では父を啓明角干(1等官)とする。また、『三国史記』新羅本紀では景文王の6年(866年)に、亡父啓明を追封して懿恭大王とした。『三国遺事』王暦では義恭大王(或いは、懿恭大王)とする。
- ^ 『三国史記』新羅本紀の分注では光義夫人とも記す。また、866年に王母「朴氏」を光懿王太后に追封したとする。『三国遺事』王暦では、第45代神武王の娘の光和夫人としている。王母の姓が朴氏と記されることについては、唐に対して同姓不婚を憚ったものである。哀荘王の脚注も参照。
- ^ 『三国史記』新羅本紀では、866年に文懿王妃とされたとする。『三国遺事』王暦では文資王后と記される。
- ^ 井上訳注1980 p.385 注13
- ^ 日本では明治38年に帝国大学(現東京大学)教授坪井九馬三により紹介され有名になり、高木敏雄や南方熊楠などが言及する。
- ^ 金思燁はこの山茱萸に対して「わかはじかみ」の読みをつけている。→金訳1997 p.155
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