ずい【隋】
隋
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隋(呉音: ずい、漢音: すい、拼音: [swěɪ]、581年 - 618年[注釈 1])は、中国の王朝である。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。開祖楊堅は後漢代の有名な官僚の楊震の子孫にあたるというが、これには疑義が多い(詳しくは楊堅#出自についてを参照)。
- 1 隋とは
- 2 隋の概要
隋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:00 UTC 版)
詳細は「隋の高句麗遠征」を参照 589年、中国南北朝を統一した隋は現在のベトナム北部を支配し、チャンパ王国を蹂躙し、中国北部や中部の要所を支配して周辺の遊牧民に備えた。598年、高句麗が遼西を攻撃すると、隋の文帝は水陸両路より反撃したが敗れた。612年、煬帝が100万の大軍を動員して高句麗に遠征した。隋軍は遼東を攻めあぐね、30万5千の軍に平壌を攻撃させた 。しかし乙支文徳の活躍により30万5千のうち2,700しか戻らなかったという。煬帝は遠征から引き返した。 煬帝は高句麗を滅ぼすことに固執し、613年と614年に再び攻撃したが、高句麗の戦術、激しい抵抗、部将の活躍の前に大敗した。また、613年の遠征は楊玄感等の内乱や洪水等により引き返すことを余儀なくされた。煬帝の激しい高句麗遠征と大敗は隋の滅亡に寄与することが大きかったという。
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隋
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楊忠は、楊堅によって太祖武元帝と追号された。 高祖文帝(楊堅、在位581年 - 604年) 世祖煬帝(楊広、在位604年 - 618年) 恭帝侑(楊侑、在位617年 - 618年) 恭帝侗(楊侗、在位618年 - 619年) 元徳太子楊昭は、恭帝侗によって世宗孝成帝と追号された。 秦王楊浩は、618年に宇文化及により帝位につけられた。
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隋
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詳細は「中国の書道史#隋」および「中国の筆跡一覧#隋」を参照 時代通称生没年字別称など代表作書論など備考隋 薛道衡 540年 - 609年 玄卿 楷書をよくした。 隋 房彦謙(ぼう げんけん) 547年 - 615年 孝冲 房玄齢の父 隋 丁道護(てい どうご) 不詳 不明 啓法寺碑 楷書をよくした。 隋 史陵(し りょう) 不詳 楷書をよくした。 隋 智果(ちか) 不詳 書評帖
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隋
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581年(開皇元年)、隋が建国されると、上儀同の位を加えられ、東京都官尚書に転じた。東京の官が廃止されると、入朝して都官尚書に任じられた。582年(開皇2年)、熊州刺史として出向した。まもなく死去した。享年は72。
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隋
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600年(開皇20年)、文帝は長男の楊勇を廃嫡して楊広(のちの煬帝)を太子に立てるとともに、楊勇派の史万歳などが処断された(開皇の変)。
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隋
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楊堅 隋の文帝。陳を滅ぼし、天下統一を果たす。独孤皇后に頭が上がらず、皇后の生きていた頃は一切の妾を置かなかった。 煬帝 隋の2代皇帝。物語の前半において多くの寵姫たちと悦楽にふける様が描かれている。暴君として名高い人物であるが、本作においては単なる暴君でなく、それなりに魅力的な人物として描かれている。高麗への出兵、大運河の建造などによって人心を失うことになった。 楊杲 煬帝の子。趙王。史実では宇文化及らにより、煬帝とともに死亡するのであるが、本作においては袁紫煙らとともに隋を脱出。後には異民族の王となる。 朱貴児 煬帝の寵姫の一人。人間の血肉が万病に利く薬であると聞いて、自分の腕の肉を煬帝に差し出すといった一途な面がある。煬帝の寵愛も深く、来世でも男女の仲になる約束を交わしていた。宇文化及らの反乱の際、煬帝とともに死亡する。 袁紫煙 煬帝の寵姫の一人。楊義臣の姪という設定になっている。占いの達人で、才色兼備の女性。宇文化及らの反乱の際、他の寵姫や煬帝の息子である趙王とともに脱出。のち、李勣の妻となっている。
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隋
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科挙は隋の文帝によって始まる。隋より前の六朝時代には、世襲の貴族が家柄によって官僚になるという、貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものとは到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。九品官人法は廃止され、地方長官に人材を推薦させた上で、科挙による試験が行われた。推薦よりも試験の結果に重きを置かれ、官僚の採用が決定されることとなった。 隋代の科挙は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試・省試の二段階であった。隋は二代で滅びるが、科挙はその後、唐に受け継がれた。
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隋
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589年、隋は約270年ぶりに中国統一を果たした。中国統一に先立つ581年に隋の文帝は開皇律令を制定・施行しているが、非常に体系的な内容を有しており、これにより律令制が完成したとされている。律では、残虐な刑罰が廃止され、判りやすい内容へ簡素化されている。官制も整備され三省六部や御史台が置かれ、官僚の登用に当たっては、幅広く門戸を開く科挙を始めた。また均田制に於いて給付と課税の対象がそれまでの夫婦単位から男性個人単位(丁・中男)へと移行している。これは、統一が為されたことにより給付対象が大幅に増え、そのことから来る土地不足が原因と思われる。次の煬帝の代には、その改正である『大業律令』が頒布されたが、『開皇律令』と大差がなかった。
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隋
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北周の覇業を継承した隋の文帝は、南朝陳を併合することで、西晋以来の中国の統一を成し遂げる。が、宗教政策においては、武帝のそれを継承せず、仏教復興政策というよりも、儒教に変わって仏教を中心に据えるほどの仏教中心の宗教政策、いわゆる仏教治国策を展開することとなる。漢代以来の長安城の地を捨てて新たに造成され、唐の長安の礎となる大興は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となる。また、文帝はその晩年、崇仏の度を増し、中国全土の要地に舎利塔を建立し、各地方の信仰の中心とした。その年号をとって、仁寿舎利塔と呼ばれる。これが、日本の国分寺の起源となるものである。また、その発想は、インドのアショーカ王が各地に建てたという仏塔(ストゥーパ)に通じている(中国では阿育王塔という)。 隋の第2代皇帝煬帝は、暴君の悪名高い天子ではあるが、その即位前、晋王時代より、天台智顗を崇敬したことで知られ、智顗より菩薩戒を受けているほか、行在所に初めて内道場を設けてより身近な場所で仏教を信仰した。 6世紀には、次々と仏教宗派が生まれた。但し、中国における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代の南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものであった。 菩提流支(508年 - 535年)による地論宗 真諦(499年 - 569年)による摂論宗 菩提達摩(? - 536年)によるとされる禅宗 智顗(538年 - 597年)による天台宗 吉蔵(549年 - 623年)による三論宗 杜順(557年 - 640年)による華厳宗 道綽(562年 - 645年)による浄土教 これらの中で、隋唐代に教団的色彩を持つに至るのは、天台宗と禅宗である。
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隋
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詳細は「中国の書道史#隋」および「中国の書家一覧#隋」を参照 年代筆跡名筆者書体所蔵・法帖など586年 竜蔵寺碑 張公礼? 楷書 河北省正定県竜興寺の大殿内 592年 杜乾緒等造像記 不明 楷書(八分に近い) 597年 美人董氏墓誌 不明 楷書 602年 啓法寺碑(けいほうじひ) 丁道護 楷書 個人蔵(日本、拓本) 603年 蘇孝慈墓誌 不明 小楷 竜蔵寺碑(りゅうぞうじひ) 建碑は開皇6年(586年)。恒州刺史・鄂国公王孝僊が建碑したもので、張公礼(ちょう こうれい)の書と伝えられる。書体は楷書で、書風は整正温雅であり、唐の虞世南・褚遂良の先駆をなす。碑高215.2cm、碑文30行、各行50字、字の大きさは2.4cmである。仁寿2年(602年)に建碑された『啓法寺碑』(原石佚亡)とともに隋碑の代表作である。 杜乾緒等造像記(とけんちょとうぞうぞうき) 開皇12年(592年)、杜乾緒・張子元・董難当らが石仏一体をつくり、銘を刻したもので、上下6段に分けて八分に近い楷書が刻されている。 美人董氏墓誌(びじんとうしぼし) 開皇17年(597年)、隋の文帝の四男の蜀王楊秀が、19歳で病没した董氏のために墓誌の文を撰し長安郊外の龍首山に葬った。董氏は蜀王楊秀の侍女で容姿端麗の佳人であったといわれるが、美人とは官名で美しい人という意味ではない。清朝の道光年間の初めに陝西省興平県から出土したもので、墓誌の文は楷書で21行、毎行23字ある。北魏の墓誌群にも優れたものが多くあるが、隋代になると一段と磨きがかかり品格も高い。この墓誌はその中でも極めて美しく、初唐の書と比べても遜色がないといわれる。 蘇孝慈墓誌(そこうじぼし) 蘇慈墓誌とも。仁寿3年(603年)。筆者は不明であるが、一説には唐の欧陽詢の若書きともいい、馬偏が3点の所なども彼の皇甫誕碑に符合する。書風は謹厳で鋭利、細楷の優品である。光緒14年(1888年)、陝西省蒲城県から出土したもので、文字が鮮明でまるで新刻のようである。
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隋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)
隋(581年 - 618年、書人、筆跡) 300有余年にわたる異民族による南北両朝の対立も、漢民族である江南の陳王朝を最後に、ついに北方民族の隋の文帝楊堅が南北統一を果たした。しかし、第2代皇帝の煬帝は、苛酷な政治を行って人民を圧迫したため反乱により殺され、隋王朝はわずか37年で滅亡した。隋は南方の文化を取り入れ、王羲之を中心とする南朝の書道を重視した。また、煬帝は運河を開いて南北の交通を盛んにしたため、文化の交流融合がなされ、書においても南北多種多様な書風はいつしか融合統一された。この時代には刻石しか残っていないが、碑や墓誌銘に数多くの傑作を見ることが出来る。その書風は北朝の書よりも温和になり、整斉、洗練されているのが特徴で、初唐の先駆をなした。
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