しょ‐とう〔‐タウ〕【初唐】
初唐
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初唐(618年 - 712年、書人、筆跡、書論) 太宗は隋以来の傾向に従って南朝の文化を基盤とした。特に太宗が王羲之を好んだために王羲之を中心とした技巧が練磨された傾向にある。太宗自身、歴代帝王中第一の能書の称があり、初唐に多くの能書家、書論家の輩出を見たのは、この帝によるところが大きい。そして、隋以来、温和で整い洗練されてきた書風は唐代になってますます発達し、ついにその黄金時代を現出している。その中で最も傑出したのは楷書であり、初唐の三大家などによる碑碣が多く残る。楷書は漢に始まり、六朝において練磨され、唐代で結実大成して、ついにその頂点に達した。後の時代に唐代の書跡に及ぶものはなく、永く後世の範となっている。
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初唐
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唐代最初期の作品と言われる、王度 (中国語版)(おうど)『古鏡記 (中国語版)』 では、主人公が嘗て持っていた、古鏡の霊験による妖怪退治の話が述べられている。 同じく初唐の、張鷟 (中国語版)(ちょうさく)『遊仙窟』 は、主人公が仙境で美しい仙女と誼を通じる話。 作者不詳の 『補江総白猿伝』 は、妻を猿に奪われた主人公が妻を奪回する話で、後の大作 『西遊記』等の成立・発展に影響を与えた。
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初唐
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7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき、煬帝のいとこであり、太原留守であった李淵は義寧元年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌隋義寧2年、唐武徳元年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位、唐を建国した。 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを李淵の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと李淵の長男で皇太子の李建成を殺害し実権を握った。李淵はその後退位して、李世民が第2代の皇帝となる。 李世民は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮でまで帝王学の教科書として多く読まれた。 唐の基礎を据えた李世民の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により国号を周と改めた。 中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、神龍元年、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に即き、周は1代15年で滅亡した。 しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。 2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ。
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初唐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈佺期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。
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