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しょとう ―たう 0 【初唐】
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唐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/08 11:23 UTC 版)
(初唐 から転送)
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| * 中国の歴史年表 * 朝鮮半島を中国とみなす記述 |
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唐(とう、拼音:Táng、618年 - 690年,705年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。唐の都は長安にあった。
690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
日本では唐の滅亡後も唐(から)、唐土(もろこし)の語は中国、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。詳しくは中国を参照のこと。
目次 |
国号
国号の「唐」はもともとは晋の古名であり、もとは山西省を中心とする地域を指した。古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があり、周の時代には武王の子・唐叔虞が立てた晋の別称としての唐とは別に、今の湖北省の一部に唐を国号とする小国があったことが知られる。唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗の後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの皇帝も唐室の血は引いていない。
李氏
唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。
『旧唐書』・『新唐書』によれば、李氏は李耳(老子)の子孫と称し、西涼の初代王・李暠をその遠祖としている。北周において鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野(だいや)という姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。ただし、唐李氏の系譜についてはこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定[1]によって出され、以後日本学界ではこの考え方がほぼ定説となっている。一方、中国学界では、陳寅恪が『唐代政治史述論稿』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、唐朝の出自であることを論証し、やはり定説となった。近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と見る向きもある[2]が、主流な見解ではない。
歴史
唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史をさらに初唐、盛唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。
初唐(武周期を含む)(7世紀初頭 - )
7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺して(玄武門の変)、高祖を幽閉し第2代の皇帝(太宗)となる。
太宗は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(麗唐戦争)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により(載初元年)国号を周と改めた(武周)。
中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は1代15年で滅亡した。
しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。
7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼ぶ。
盛唐(8世紀初頭 - )
712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年、太平公主を処刑した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだが、751年にトゥーラーンの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。
玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。
都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(皇太子葉護ら)によって、763年に乱を平定した。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。以降、唐は次第に傾いていく。
軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加した。各地に(藩鎮)が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続いた。
中唐(8世紀半ば - )
安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。
これに対し、中興の祖とといわれる憲宗は中央の禁軍を強化することで、中央の命令に服さない節度使を討伐し朝威を回復させた。しかしその後、不老長寿の薬と称された丹砂(水銀)などの怪しげな仙薬を常用するようになると、精神不安定から宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と称される策略を練ったが失敗し、却って宦官の専横を招いた。
晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)
文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。
この頃から、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きた。874年頃から黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させると、斉を建て皇帝就位を宣言した。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去った。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗る。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞っていった。
河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入る。
- ^ 『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』(1940年)
- ^ 劉及辰『京都学派哲学』(光明日報出版社 1993年)または『日本対中国的文化侵略』叢書 (昆侖出版社)
- ^ 渡邊信一郎「唐代後半期の中央財政―戸部曹財政を中心に―」(初出:『京都府立大学学術報告』人文・第40号(1988年)/所収:『中國古代の財政と國家』(汲古書院、2010年)第14章)
- ^ 『中国史2』、p460
- ^ ボストン美術館にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、北宋代の模写であると推察されている。
- ^ 蘇軾曰く「画は呉道士(道玄の元の名)に至りて終われり。」
- ^ 『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』、331p
- ^ 宦官勢力によって父・昭宗が失脚させられた際に皇帝として擁立されたが、2ヶ月足らずで昭宗が返り咲いたため李裕の即位の事実は否定された。通例として歴代皇帝には数えられていない。
「初唐」の用例一覧
内藤湖南 平安朝時代の漢文學 (青空文庫)
嵯峨天皇の御製等の中には其の詩風を受けたものは無い。大體唐詩の時代を初唐、盛唐、中唐、晩唐と四つに分つ中、嵯峨天皇の御製などは專ら盛唐風の詩を作られたのである。白樂天、元微之の存在は其の頃より知られては居つたであらうが、丁度...
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内藤湖南 北派の書論 (青空文庫)
唐人の書に對して南北を合した六朝人の書を主張すると云ふに過ぎない。併しこれにも實は根柢の誤りがあらうと思はれる。全體から言へば支那の書と云ふものは隋から初唐に至つて工妙の極に達したものであつて、其以前は王羲之父子などのやうな、其一...
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土井晩翠 新詩發生時代の思ひ出 (青空文庫)
明代三百年來の詩學の弊風を攻撃し、 『あゝ唐人一代の詩各々神髓あり、各々氣候あり、然るを初唐盛唐中唐晩唐と 無理に區分 して、隨て之を判斷し、此が妙悟、彼が二乘、此が正宗、彼が羽翼……など、支離滅裂して、唐人...
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