退位
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退位(たいい、英語: abdication)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。しばしば譲位と混同されるが、その意味合いは異なる。
注釈
- ^ 1905年の国民投票によるスウェーデンとの同君連合の解消。
- ^ 辛亥革命による最初の退位。
- ^ 張勲復辟後の再退位。
- ^ 1935年の国民投票により復位。
- ^ フランコ政権に成立した法律により、1975年のフランコの死によって君主制を復活した(この法律に定めた王位継承者はフアン・カルロス1世)。
- ^ ベネディクト16世の場合、教会法の規定は一貫して「辞任」という表記であり、厳密には退位ではない。また後継者は辞任後の選挙で決定され、指名は禁じられているので譲位でもない。よってここでは参考としての掲載である。詳細は教皇の辞任及びベネディクト16世の辞任を併せて参照。
- ^ 天皇が君主であるかについては議論が分かれる。
- ^ 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲国の儀により三種の神器を引き渡すという和約であったが、譲国の儀などの条項は北朝朝廷により反故とされ、譲国の儀なしに神器が後小松天皇の手に渡っている。
- ^ 昭和59年4月17日の参議院内閣委員会における太田淳夫議員質問に対する山本悟宮内庁次長の答弁。
- ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第1条第2項
- ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第2条
- ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3条
- ^ ただし、法の施行日(2019年4月30日)以前に第125代天皇・明仁が崩御するなどしてこの特例法が効力を失う可能性もあった(天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則第2条)。
出典
- ^ 「生前退位」は「歴史の書物にない表現」 皇后さま、違和感表明 NHKの反応は…
- ^ 「退位」と「譲位」の使い分けは? 天皇陛下めぐる報道
- ^ 産経「譲位」に用語変更 朝日も「生前退位」不使用 他社は表記の混乱も
- ^ a b c 『中央公論』2016年9月号 p46 「ヨーロッパ王室における「譲位」の現状」君塚直隆(関東学院大学教授)
- ^ a b c d e f g h i 海外の主な制度及び事例の概要について
- ^ a b c d e f g h i j k 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 2016年12月14日 配付資料 海外制度関連規定(PDF/ 67KB)
- ^ 『読売新聞』2017年1月5日 p7 「ワールドビュー」 欧州総局長・森太
廃位
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マヨリアヌスはアウィトゥス帝の廃位後に皇帝に即位した。 リキメルのモノグラムが刻印されたリウィウス・セウェルス帝の青銅貨 一方、イタリアの住民の間では異邦人のアウィトゥス帝に対する憤激が高まっていた。アウィトゥス帝はその奢侈と好色がローマ市民の非難の的となったという。アウィトゥス帝は通常はローマ人が充てられていた公職にガリア系貴族を任命した。これに加えて、先年のローマ劫掠で被害を蒙っていたローマ市民はヴァンダル族の海上交通路支配により食糧不足にも苦しめられており、アウィトゥス帝とともにローマに入った異邦人兵たちの存在によってさらに悪化していた。国庫はほとんど空になっており、市民の圧力によって西ゴート族の護衛兵を解散したが、アウィトゥス帝は彼らの給与の支払いのために幾つもの銅像を鋳潰さざるを得なかった。 民衆の不満、皇帝護衛兵の解散そして自らの戦勝による人気を勘案したリキメル将軍と皇宮護衛隊長(comes domesticorum)マヨリアヌス はアウィトゥス帝に反旗を翻した。初秋にアウィトゥス帝はローマからの退去を余儀なくされて北へ逃れた。リキメルは元老院にアウィトゥス帝の廃位とラヴェンナにいた軍務長官レミィストゥスの殺害の命令をさせ、9月17日にレミィストゥスをパラティウム(ラヴェンナの古代の港クラッセ(英語版))で処刑した。 アウィトゥス帝は先年に故ペトロニウス・マクシムス帝の命令で西ゴート族に使節をした際の同僚だったメッサノスを新たな軍務長官に任命し、兵を集めるためにガリア(ヒダティウスの年代記によるとアレラーテ)に赴いた。そして兵を率いてイタリアに入り、プラケンティア(現在のピアチェンツァ)でリキメルの軍と戦った。市内に入ったアウィトゥス帝の軍隊は10月17日か18日にリキメルの大軍の攻撃を受け、メッサノスと彼の部下が虐殺され、アウィトゥス帝は逃げ出した。捕えられたアウィトゥス帝をリキメルは助命し、彼をプラケンティアの司教にした。 東ローマ皇帝レオ1世からパトリキ(貴族)の称号を与えられたリキメルが西方の支配を行い、西ローマ皇帝はしばらく空位が続いたが、457年4月1日にマヨリアヌスが軍隊によって皇帝に推戴され、蛮族出身で皇帝にはなれないリキメルもこれに同意した。 ガリアのアウィトゥス帝の支持者たちは廃位された後も依然として彼らの皇帝の承認を続けた。シドニウス=アポリナーリスはマルセリウスによって企てられたクーデターの失敗の話を伝えており、彼らの目的はおそらくはアウィトゥス帝の復位であった。ヒスパニアに在住していた同時代の歴史家ヒダティウスによれば457年はアウィトゥス帝の治世として数えられていた。廃位されたアウィトゥスが何を考えていたのかも、彼の死んだ日そして理由も明確ではなく、幾つかの異なる話が伝えられている。 トゥールのグレゴリウスによれば、元老院が廃帝アウィトゥスの死罪を命じるとアウィトゥスは郷里アヴァニアの聖ユリアヌス聖堂の浄財集めの名目でガリアに逃れたが、その旅の最中に死んだという。その他の史料は廃帝は彼の後継者(マヨリアヌス帝)によって絞殺または餓死に至らしめられたとしている。アウィトゥスは廃位から間もない456年末か457年に死去し、ブリウドの聖ユリアヌスの墓所の隣に埋葬された。
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廃位
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「リチャード2世 (イングランド王)」の記事における「廃位」の解説
ランカスター公が1399年に死去したのを機会に、ボリングブルックに対して広大なランカスター公領の没収と永久追放への変更を命じた。これにより貴族層の離反は決定的になり、ボリングブルックは復讐の機会を窺った。そのような状況を横目に、5月にリチャード2世はアイルランドへ2度目の遠征を敢行した。1度は服従したゲール人が反乱を起こし、食い止めようとしたマーチ伯が戦死したため報復と鎮圧の意図があった。 しかし、7月にボリングブルックが兵を挙げると、ノーサンバランド伯父子とウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルら北部貴族を始め、リチャード2世に失望していた諸侯や有力者の多くがこれに合流、留守を守っていたヨーク公も降伏した。翌8月にアイルランド遠征から帰途にあったリチャード2世は、ウェールズとの国境付近で優勢なボリングブルック軍に呆気なく降伏して捕らわれ、ロンドン塔に幽閉されて9月28日に開かれた議会で翌29日に正式に廃位された。そしてボリングブルックは30日にヘンリー4世としてイングランド王に即位し、ランカスター朝を開いた。 退位したリチャードは身柄を各地に移され、1400年2月14日にヨーク南西のポンテフラクトにあるポンテフラクト城(英語版)で33歳で死去した。1月にリチャードに重用され、ヘンリー4世即位と共に権勢を失った元サリー公、元エクセター公、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサー、ソールズベリー伯ジョン・モンタキュートの4人が公現祭でヘンリー4世暗殺を企て、失敗して処刑されていたが、直後にリチャードが死去したこともヘンリー4世の関与が疑われている。 リチャードの詳しい死因は不明で、前王の尊厳を奪われ、過酷な処遇を受けて餓死させられたと伝えられている一方、自殺・他殺説もある。遺体は当初ハートフォードシャーのキングス・ラングリー修道院(英語版)へ埋葬されたが、1413年4月に即位したヘンリー5世が12月に遺体をロンドンへ運び出し、ウェストミンスター寺院に改葬した。 捕縛されるリチャード2世(15世紀の作品) 廃位式(15世紀の作品) リチャード2世の葬列(15世紀の作品)
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廃位
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「アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ (セルビア公)」の記事における「廃位」の解説
アレクサンダルは国内政策をめぐって議員らと対立し、1858年12月の聖アンデレの日に召集された国民議会において退位を強いられた。 廃位されたアレクサンダルはテメシュヴァール近郊の私有地に退いたが、復位したミハイロ・オブレノヴィッチ3世が暗殺されるとその陰謀に武器と資金を提供した疑いをかけられ、平穏な暮らしは一変した。アレクサンダルはいわれのない疑いに傷心し、濡れ衣を着せようとする政敵を嫌悪するとともにカラジョルジェヴィッチ家の人間による公位奪還に尽力した。 1885年5月3日にテメシュヴァールで死去し、ウィーンに埋葬されたが、1912年に、息子のペータル1世によって中央セルビアのオプレナツ(Oplenac)に建てられた聖ゲオルギオス記念教会へ改葬された。
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廃位
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顕徳王后の母、阿只と王后の弟、権自慎は成三問などとともに端宗復位運動をして1456年に処刑されて、端宗は1457年旧暦6月21日に魯山君に降格される。 一方もう死亡した顕徳王后とその父権専は、阿只と権自慎の罪によって連座刑が下され、権専は1456年旧暦7月7日、顕徳王后は1457年6月26日にそれぞれ廃庶人になった。
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「廃位」の例文・使い方・用例・文例
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