辛亥革命とは? わかりやすく解説

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しんがい‐かくめい【辛亥革命】


辛亥革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 10:30 UTC 版)

辛亥革命(しんがいかくめい)は、1911年宣統3年)から1912年民国元年)にかけて、で発生した共和革命である。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。10月に孫文の影響を受けた革命軍が武昌漢陽を武力制圧し、黎元洪を都督として中華民国軍政府が成立を宣言した[1]。清国は革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言した[1]1911年12月29日上海孫文中華民国臨時大総統に選出され、1912年2月12日に宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位し、清国は滅亡した[1]。この結果、アジアにおいて史上初[2][3]の独立した共和制国家である中華民国が誕生した。


  1. ^ a b c d e f g 猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、89~93頁。
  2. ^ NHK高校講座 | 世界史 | 第36回 中国の現代史”. www.nhk.or.jp. 2021年11月30日閲覧。
  3. ^ 中国における辛亥革命100周年記念活動: アジア情報室通報 第9巻第3号 | アジア諸国の情報をさがす | 国立国会図書館”. rnavi.ndl.go.jp. 2021年11月30日閲覧。
  4. ^ a b 酒井信彦 (2011年10月21日). “産経新聞の優れた辛亥革命論”. 日本ナショナリズム研究所. http://sakainobuhiko.com/2011/10/post-179.html 2011年11月28日閲覧。 
  5. ^ 保路運動(コトバンク)
  6. ^ 1911年10月、宝豊哥老会白朗が挙兵していた。
  7. ^ 童保暄”. 宁波市图书馆. 2019年4月7日閲覧。
  8. ^ 中国第二历史档案 (2012). 蔣介石年谱:1887~1926. p. 388 
  9. ^ 杭州起义时,蔣介石担任敢死队长,指挥进攻巡抚衙门”. 辛亥革命. 2019年4月7日閲覧。
  10. ^ 王新龙 (2013). 大清王朝4. https://books.google.co.jp/books?id=1vsdAgAAQBAJ&pg=RA1-PT326&lpg=RA1-PT326&dq=%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E5%B0%86%E5%86%9B%E5%BE%B7%E6%B5%8E&source=bl&ots=t4JO4-TBsu&sig=ACfU3U19oopjn0nKHPDbkL_l8OMiYvJflA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjUxczGv73hAhXGgrwKHX5hBpkQ6AEwBXoECAgQAQ#v=onepage&q=%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E5%B0%86%E5%86%9B%E5%BE%B7%E6%B5%8E&f=false 
  11. ^ 辛亥风云在新疆”. 人民網. 2019年4月29日閲覧。
  12. ^ 臨時大総統,由各省都督代表占拠之;以得満総数三分之二以上者為当選。代表投票權,毎省以一票為限。
  13. ^ a b c 江口圭一 「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座 日本通史 第18巻 近代3』岩波書店、1994年7月28日、ISBN 4-00-010568-X、18~22頁。
  14. ^ a b c 櫻井良樹, 「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治― 」『経済社会総合研究センター Working Paper』 29巻 p.1-14 2008年, NAID 120005397534, doi:10.18901/00000407, 麗澤大学経済社会総合研究センター
  15. ^ 太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、6頁。
  16. ^ 中華民国史事日誌。中華民国二年癸丑。第86頁
  17. ^ 西部はダライラマを首班とするガンデンポタンの直轄領およびガンデンポタンに従属する聖俗の諸侯領、東部は四川省・兵部を介して清朝肯定の羈縻支配を受ける諸侯領が分布。
  18. ^ 「西蔵」は、1724年〜32年にかけて行われた雍正のチベット分割に置いて、「ダライラマ領」とされた中央チベットに対する中国語名。
  19. ^ 清朝期の雍正のチベット分割以来、青海甘粛省の西南部、四川省の西北部などに3分割。



辛亥革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:28 UTC 版)

蔣介石」の記事における「辛亥革命」の解説

1911年夏、長期休暇を取ると上海帰国して陳其美秘密裏情報交換計画企画立案を行う。10月頭に帰隊するが、それから間もない10月10日、辛亥革命が勃発する陳其美より帰国要請受けた蔣介石張群、陳星とともに師団長長岡外史中将休暇帰国申し出るが叶わず、飛松連隊長48時間休暇申し出ると、そのまま上海航路日華連絡船長崎丸で帰国して革命参加する10月30日上海着いた蔣は、その後陳其美行動共にする。陳は蔣に信頼寄せており、杭州方面杭州駐在する新軍第二十一鎮(中国語版第八十一標・第八十二標の蹶起支援のため急遽漁民など義勇兵120からなる決死隊任じた蔣介石杭州制圧のために軍勢率いて向かったが、これが初陣ということで死を覚悟し、このとき実家の母、妻、そして長男宛てて遺書書き残している。11月3日から攻略戦開始し第三とともに撫台衙門包囲巡撫増韞捕虜とした。翌日午後に杭州陥落せしめ、浙江省独立宣言した。周承菼は立憲派であった咨議局議長湯寿潜都督選出したが、蔣は王金発とともにこれに反対意見表明同じく蜂起成功し上海都督就任した陳其美は、革命勢力内紛抑えるため蔣を上海引き戻し、滬軍第一師副師長第一団団長の役割与えた。のち第一団は滬軍第二師(長:黄郛第五団へと改編される。蔣は陳、黄郛の厚い信頼得て二人義兄弟契りを結ぶ至った11月22日から南京攻略戦開始された。陳其美陣頭指揮を執ったが、蔣介石上海防衛任されたため、攻略戦には参加していない。この頃蔣介石陳其美護衛役を自負しており、陳の政敵である陶成章暗殺するなどしている。 1912年1月1日南京において中華民国建国宣言され孫文臨時大総統地位就いた2月12日には宣統帝退位し清朝崩壊した同時に孫文臨時大総統地位北洋軍閥袁世凱に譲るなど、政局大きく転換した。この時期蔣介石目立った行動取っていないが、同年3月から第5団の職を張群任せると12月まで日本に赴き、東京代々木山谷発行所「軍声社」を設置中国同盟会会員在日華僑向けの軍事雑誌「軍声」を発行したまた、蔣介石自らも記事寄稿しているが、その中で軍政統一問題」を取り上げていた。蔣介石は、軍事政治統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否か各民族課せられた課題である、と説いていたのである

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辛亥革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 06:02 UTC 版)

張振武」の記事における「辛亥革命」の解説

1911年10月10日、清当局による革命家狩り最中張振武党員連絡取り革命派教師仲間率いて武昌起義として知られる蜂起開始、起義を成功させた。しかし革命派将官死亡逃亡相次いだため、黎元洪都督推薦することとなった張振武は蔡済民中国語版)らとともに黎を捜索し参謀の劉文吉の家の床下隠れていた黎を捕らえ諮議局に連行したが、黎元洪はまだ清朝裏切るのを躊躇っていた。張振武らは黎元洪処刑する脅迫して、ようやく受け入れさせたが、黎元洪張振武恨みを持つようになった10月15日黎元洪都督とする湖北軍政府中国語版)が成立すると、軍務副部長就任する。ただし、部長孫武武昌起義直前事故負傷しており、実質的に職務取り仕切っていた。 その後袁世凱の命を受け馮国璋率い北洋第1軍鎮圧作戦のため南下してきた際(陽夏之戦)、彼は『わが軍兵士たちへ』(敬告我軍人白話文)と題するビラ発行し、軍の士気向上に奔走した。後に黄興らが南京防衛のため武漢から撤退主張した際は、断固防衛すべしと主張した武漢陥落後、各州県の民団維持管理努め、また青山、張公祠、梅子山、扁担山一帯に赴き同地防御や、北洋軍へ投降呼びかけ指揮した。やがて北洋軍が漢陽に迫ると、自ら陣頭立って負傷して川に落ちあやうく溺死するところだった。武昌後送され治療を受ける。27日武昌撤退後湖北軍政府総監察劉公(中国語版)らと武昌防衛尽力黎元洪戦況が不利とみて逃げ出した際には、督署に飛び込んで激しく叱責し、甘績熙らにその監視命じた。またその際、「彼のような臆病者別の方面才能見出した方がよい」(去黎另挙賢能)と発言し黎元洪張振武対す憎悪は一層増すこととなった南北和議中、黎元洪の命で40元を携え上海に赴き、武器購入担当した

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辛亥革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「辛亥革命」の解説

1911年10月10日武昌蜂起によって湖北軍政府成立し、それにつづいて湖南省陝西省江西省山西省上海浙江省広東省各地でも同盟会員蜂起して革命軍勢力広げるなか、11月6日には汪兆銘清朝政府からの大赦下り釈放された。11月下旬には、24省中14省が清朝の支配から離脱し12月には革命軍南京占領した武昌蜂起一報米国コロラド州デンバー滞在中に聞いた孫文は、すぐには帰らずイギリス立ち寄り交渉の末に米英独仏四国借款団から清国政府への融資中止する確約得て清朝革命派反撃する際の財源断ち切ってから帰国した汪兆銘は、清朝を倒すのに功績のあった逸材として脚光を浴びた。ただちに陳璧君駆けつけ、まもなく、胡漢民司会何香凝花嫁介添人として結婚式挙げた。なお、釈放された黄復生は依然として暗殺主義立場立った孫文1911年末に帰国して臨時大総統選出され1912年民国元年1月1日南京首都とする中華民国成立した(辛亥革命)。孫文臨時大総統就任宣言書文案汪兆銘起草したものであった汪兆銘によれば孫文宣言書一字一句改めようとしなかったが、これは汪にとっては望外喜びであった回顧している。

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辛亥革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:20 UTC 版)

支那分割論」の記事における「辛亥革命」の解説

アヘン戦争以来欧米列強遅れて日本中国半植民地化を進めてきたが、清朝近代化挫折したまま、1911年に辛亥革命が発生して倒れ、更に辛亥革命による共和制樹立中華民国建国)も結果的に軍閥主導北洋政府支配する華北中国国民党支配する華南分裂したことで、欧米日本知識人の間には中国人には近代的な政治能力持っていない、中国情勢混乱長期化すれば自分たちの利権在留自国民の安全も脅かされるという観点から、中国大陸分割すべきであるという主張現れるようになった。特に中国地理的に近い日本では日清戦争・日露戦争勝利韓国併合によって対外的自信深めていたことに加えて先の華夷変態」(明清交替)の際に何も手を打たずに却って国を閉ざしてしまった江戸幕府への否定的な感情もあり、この議論大い盛り上がったのである

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辛亥革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 14:59 UTC 版)

陳其美」の記事における「辛亥革命」の解説

同年10月武昌起義勃発と共に陳其美上海での蜂起計画し11月3日実行移した。なお、事前に陳其美上海立憲派とも協議妥結するなど、各階層の幅広い支持得ている。そして、蜂起成功し11月6日陳其美上海各層からの推戴を受け、滬軍都となった。 さらに、陳其美江蘇省浙江省などの革命派とも連合して南京攻撃し12月2日南京占領した。これにより、南京孫文迎え入れ中華民国の成立大きく貢献したのである。ただこの間に、権力闘争のため、政敵である陶成章江蘇省浙江省革命派指導者)を暗殺するなどしている。

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