初陣
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 05:40 UTC 版)
初陣(ういじん)とは、初めて戦いに参加すること、またはその戦いのことをさす[1]。現代では転じて、スポーツの競技会などに初めて出場した場合や、未経験の事柄に臨むこと全般を指して使われる。
日本の武家社会においては、初めて戦闘行為に参加することは、武門に生をうけた者の正念場とされ、それだけに初陣での高名(こうみょう)は武勇の誉れとされた[2]。武士の子弟が初陣を迎える年齢は個人差があり、多くの場合は元服後に、稀に元服前に、ほとんどは10代前半であったが、親は子供の将来の安寧を願い必ず勝てる楽な戦いに参加させることが多かったが、平穏な時代や地域によって事情が異なる事があるので、毛利元就の20歳や長宗我部元親の22歳など遅い例もある。
初陣の例
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年8月) |
※は異説のあるもの、記録がはっきりしないもの。
名前 | 年齢 | 時期 | 戦い | 備考 |
---|---|---|---|---|
源頼朝 | 13歳 | 1159年(保元4年) | 六波羅合戦(平治の乱) | 敗戦・捕虜となる |
毛利元就 | 20歳 | 1517年(永正14年) | 有田中井手の戦い | 武田元繁・熊谷元直を討ち取る |
北条氏康 | 15歳 | 1530年(享禄3年) | 小沢原の戦い | 戦功あり |
武田晴信 | 16歳 | 1536年(天文5年) | 海ノ口城の平賀玄信攻め | 攻略 |
毛利少輔次郎(吉川元春) | 11歳 | 1541年(天文10年) | 吉田郡山城の戦い | 元服前 |
長尾景虎(上杉謙信) | 13歳 | 1543年(天文12年) | 栃尾城の戦い※ | 防戦 |
織田信長 | 14歳 | 1547年(天文16年) | 大浜攻め | 戦闘なし。放火のみ |
島津義久 | 22歳 | 1554年(天文23年) | 岩剣城攻め | 弟義弘と歳久と同時初陣 |
松平元康(徳川家康) | 17歳 | 1558年(弘治4年) | 寺部城の戦い | 城下の放火 |
長宗我部元親 | 22歳 | 1561年(永禄4年) | 長浜の戦い | 弟吉良親貞と同時初陣 |
伊達政宗 | 15歳 | 1581年(天正9年) | 矢野目館の戦い(相馬義胤との戦い) | |
石田三成 | 22歳 | 1581年(天正9年) | 洲本城攻め※ |
脚注
初陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
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初陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:25 UTC 版)
「インディペンデンス (CVL-22)」の記事における「初陣」の解説
アメリカ海軍にとってインディペンデンスは、巡洋艦から空母へ設計変更された最初の軍艦であった。インディペンデンスは慣熟訓練をカリブ海で行う。その後太平洋艦隊 (United States Pacific Fleet) に加わるためパナマ運河を通過し、1943年(昭和18年)7月3日にサンフランシスコに到着。7月14日に真珠湾に向けて出航し、到着後はエセックス級航空母艦のエセックス (USS Essex, CV-9) 、ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) と第15任務部隊(チャールズ・A・パウナル少将)を編成して、南鳥島攻撃のための二週間に及ぶ訓練演習を共に行った。その間の7月15日付で、インディペンデンス級航空母艦は艦種が軽空母(CVL)に変更され、インディペンデンスのハルナンバーは CVL-22に変更された。 第15任務部隊による南鳥島攻撃は9月1日に行われ、島の施設は大打撃を受けた。アメリカ側の被害は、戦闘機3と雷撃機1喪失であった。 このあとインディペンデンスは第14任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に編入された。第14任務部隊の作戦は10月5日(日本時間10月6日)と、7日のウェーク島攻撃であり、艦載機による攻撃と重巡洋艦の艦砲射撃でウェーク島の日本軍施設は大打撃を蒙った(ウェーク島空襲)。タロア島からウェーク島救出部隊(零式艦上戦闘機7、一式陸上攻撃機7)が出動したが、ウェーク島近海で米軍機動部隊のF6Fに撃退されている。一連の作戦は、アメリカ海軍での機動部隊運用に関する新戦術の試験運用として行われたが、パウナル少将の臆病の極みを見せた指揮ぶりが問題視された。それでも、第14任務部隊は反撃らしい反撃を受けることなく真珠湾に帰投した。
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初陣
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1918年2月から「にじ」師団はフランス第7軍団の指揮下で戦った。6月准将になった。
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初陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 10:18 UTC 版)
「グナエウス・マルキウス・コリオラヌス」の記事における「初陣」の解説
初陣は二十歳になろうかという紀元前499年頃に起こった、共和政ローマをラティウムの覇者とする事になるレギッルス湖畔の戦いであったという。彼は倒れた味方を庇って敵を打ち倒し、市民冠を与えられた。この名誉は彼を更なる名誉へと駆り立て、その名誉を母が喜ぶ事が彼のなによりの幸せであった。彼は父の分まで母に仕えようと、結婚してからも母と共に住んだという。
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太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前の12月4日には、挺進第1連隊(1Ri)と、輸送機により空挺兵や物資の輸送降下を担当する飛行戦隊である挺進飛行戦隊(RFR)から成る第1挺進団(1RB)が編成完結した。まもなく、挺進第2連隊(2Ri)も編成された。 開戦後、蘭印作戦におけるスマトラ島パレンバンへの降下作戦(パレンバン空挺作戦)には第1挺進団(挺進第1連隊欠)が投入され、日本陸軍最初の空挺作戦を成功させた。
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初陣
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南朝の慌ただしい動きを事前に室町幕府は察知しており(藤田精一説)、正平2年/貞和3年(1347年)8月9日、足利直義の命によって、細川顕氏や畠山国清らが南朝と戦うための部署に就いた(『朽木文書』『田代文書』『徴古雑抄』)。 その翌8月10日(西暦9月15日)、正行はついに初陣に臨んだ。和泉和田氏の棟梁和田助氏(みきた すけうじ)らを率いて紀伊国隅田(すだ)城(和歌山県橋本市隅田町)を攻めたのである(『和田文書』)。隅田は、父の正成も元弘の乱後半戦で再挙した際に真っ先に攻めた地域である。藤田によれば、まず隅田を落としたのは、吉野行宮と楠木氏の根拠地である東条(大阪府富田林市南東端)の間の連絡路を確実にするための作戦だったのではないか、という。 正行の挙兵に、紀伊半島熊野の南朝派も呼応して戦ったが(『園太暦』同月19日条)、藤田は、伊勢国(三重県)に地盤を持つ北畠親房からの支援であろうとしている。こうした状況に、19日には幕府の河内・和泉守護細川顕氏が出陣し、天王寺経由で堺浦へ向かおうとした(『園太暦』同日条)。北朝公卿の洞院公賢によれば、意外にも顕氏は南朝に対抗できる兵数を揃えるのに苦慮しており、21日になってやっと天王寺を出て堺浦へ出陣した(『園太暦』同日条)。 この頃、京には様々な風説が届けられており、公賢は、8月22日には南朝軍が撤退したようだと胸を撫で下ろしている(『園太暦』同日条)。しかし、実際は、正行は8月24日には河内国池尻(大阪府大阪狭山市)を攻めている(『和田文書』)。この日の戦自体の勝敗は不明だが、戦況からして遅くとも9月初頭までには同地を制圧したと考えられる。 突然の事態に北朝・幕府は恐慌状態にあり(藤田説)、29日には、足利直義が東寺に戦勝を祈願させた(『東寺文書』「五条之部 山城」)。 正行はさらに兵を進めて、9月9日には八尾城(同府八尾市)で少なくとも三度目の戦いを行い、連勝を重ねた(『和田文書』)。 正行の快勝を確認した南朝は、9月10日、幕府との全面対決を公式発表し、後醍醐皇子の懐良親王らが戦う九州征西将軍府へも一報を入れた(『阿蘇文書』)。
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初陣
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「第32SS義勇擲弾兵師団」の記事における「初陣」の解説
1945年2月初旬、師団、最初の部隊が編成されると直ちに第5SS山岳軍団の所属として戦線へ投入されたが、第5SS山岳軍団はすでに疲弊しきった状態であった。しかし第5SS山岳軍団は、ソビエト赤軍のオーダー川西岸橋頭堡(通称、楡屋敷)前面で赤軍の進撃を懸命に阻止していた。ソビエト橋頭堡の存在はドイツ軍にとって脅威と化していたため、その掃討は緊急を要しており、第32SS義勇擲弾兵師団などを中心として2月5日より反撃が開始された。作戦は初日にツィルテンドルフ(ドイツ語版)、さらに27日にはフォーゲルザング(ドイツ語版)の奪還に成功し戦線を安定させたが、橋頭堡の掃討には至らなかった。 2月中旬、師団の各部隊は編成を終了、橋頭堡付近の戦線に投入され防衛戦を行った。しかし2月末以降、橋頭堡のソビエト赤軍が増強され、3月2日、再びフォーゲルザングに侵入した。このため師団の第32SS戦車猟兵連隊を中心とした部隊が反撃したものの撃退され、3月末にも再度反撃を試みたがこれも撃退された。4月上旬、師団は第5SS山岳軍団の命令を受け、フランクフルト・アン・デア・オーダー要塞部隊の撤退路を確保するために「クラウス戦闘団」、「シェットレ戦闘団」の2個戦闘団を編成、装甲部隊の大半を派遣した。さらに4月12日、師団の配属が変更され、第5SS山岳軍団から第9軍所属第11SS戦車軍団の予備部隊になった。師団の大部分は東部戦線の北西後方に配置されたが、ここには主力となる装甲擲弾兵師団はなかった。 1945年4月16日、早朝3時、ソビエト赤軍がベルリンへ向けて大攻勢を開始した。師団の担当地区であるヴィーゼナウ(ドイツ語版)南西では、ソビエト赤軍の突破を許さなかったものの、ギュルデンドルフ(ドイツ語版)の戦線が突破された。所属連隊からの救援で一度は戦線を押し戻したが、ソビエト赤軍の怒涛の攻撃に飲み込まれ最終的に戦線は崩壊した。翌日、ソビエト赤軍はオーダー・シュプレー運河(ドイツ語版)を渡り、ラウテンクランツ(ジーディヒウム(ドイツ語版)内の集落)方面に進出したが、師団はこれを運河まで押し戻した。しかしツィルテンドルフ北方で突破され、こちらでは撤退せざるをえなかった。18日、師団の一部はカイザーミュール(ドイツ語版)へ撤退、4月21日までここを維持した。また師団は「フレンケン戦闘団」を編成して、18日にラウテンクランツ方面で反撃を加えたものの、撤退せざるをえなかった。さらに戦線後方では「クラウツ戦闘団」が、マルケンドルフ(ドイツ語版)の東より進出したソビエト赤軍と激戦を交わしていた。 1945年4月19日の時点で師団は、リヒテンベルク(ドイツ語版)-マルケンドルフ、リーツェン(ドイツ語版)、ラウテンクランツ北方で防衛線を展開していた。ところが師団の異動先である第11SS装甲軍団の戦線が危機的状況に陥ったため、2個戦闘団を引き抜いて北方に送ることとなった。そこで編成されたのが「シル戦闘団」、「クーアマルク戦闘団」であった。シル戦闘団はフュルステンヴァルデ(ドイツ語版)方面へ派遣されたが、「クーアマルク戦闘団」はというと、交代部隊の未着のために20kmもの戦線に展開することになってしまった。これは1kmを20名で防衛することを意味していた。4月22日の時点で、シル戦闘団はノイ・ツィッタウ(ドイツ語版)付近で防衛線を構築しており、クラウス戦闘団はケーニヒス・ヴスターハウゼン(ドイツ語版)に向け撤退中であった。
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初陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 04:15 UTC 版)
「第340国民擲弾兵師団」の記事における「初陣」の解説
11月16日、西部戦線において「西方の壁」に対する米軍の攻撃が始まり、11月25日、ドイツ軍をユーリッヒ(ドイツ語版)(Jülich)の橋頭堡まで押し戻すことに成功した。11月20日、第340国民擲弾兵師団は直ちにルール地方へ移動するように命令を受け、ユーリッヒ橋頭堡の防衛強化のため11月21日の夜、師団は輸送列車により移送され到着後すぐに防衛戦に巻き込まれ戦線付近に布陣した。11月23日、師団はユーリッヒ橋頭堡での激しい防戦を繰り広げ大損害の末、11月28日にユーリッヒ橋頭を離れルール川の東岸に移動した。師団はこれらの戦闘で31人の将校と2,400人の戦死者を出した。12月2日、師団の配置は第363国民擲弾兵師団に交換され12月6日にはリンダーン(ドイツ語版)(Rindern)の戦闘地域であるリンニッヒ(ドイツ語版)(Linnich)に移送されたがフロスドルフ(Flosdorf)における戦闘で師団は壊滅し12月25日、師団はそれまでの行動地域から撤退しアルデンヌ攻勢の開始に備え予備兵力として西方総軍司令部(ドイツ語版)(OB West)に移された。
※この「初陣」の解説は、「第340国民擲弾兵師団」の解説の一部です。
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