初陣とは? わかりやすく解説

うい‐じん〔うひヂン〕【初陣】

読み方:ういじん

初め戦場に出ること。また、その戦い転じて初め試合・競技出場すること。「—を飾る」


初陣

読み方:ウイジンuijin

初め戦場に臨むこと。


初陣

作者杉本苑子

収載図書秋蘭という女
出版社講談社
刊行年月1992.11
シリーズ名講談社文庫


初陣

作者辻勝三郎

収載図書熱河の譜
出版社企画
刊行年月1996.9


初陣

作者兆鳴

収載図書近代朝鮮文学日本語作品集19011938 創作篇 3
出版社緑蔭書房
刊行年月2004.6


初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 05:40 UTC 版)

初陣(ういじん)とは、初めて戦いに参加すること、またはその戦いのことをさす[1]。現代では転じて、スポーツの競技会などに初めて出場した場合や、未経験の事柄に臨むこと全般を指して使われる。

日本の武家社会においては、初めて戦闘行為に参加することは、武門に生をうけた者の正念場とされ、それだけに初陣での高名(こうみょう)は武勇の誉れとされた[2]武士の子弟が初陣を迎える年齢は個人差があり、多くの場合は元服後に、稀に元服前に、ほとんどは10代前半であったが、親は子供の将来の安寧を願い必ず勝てる楽な戦いに参加させることが多かったが、平穏な時代や地域によって事情が異なる事があるので、毛利元就の20歳や長宗我部元親の22歳など遅い例もある。

初陣の例

※は異説のあるもの、記録がはっきりしないもの。

名前 年齢 時期 戦い 備考
源頼朝 13歳 1159年保元4年) 六波羅合戦(平治の乱 敗戦・捕虜となる
毛利元就 20歳 1517年永正14年) 有田中井手の戦い 武田元繁熊谷元直を討ち取る
北条氏康 15歳 1530年享禄3年) 小沢原の戦い 戦功あり
武田晴信 16歳 1536年天文5年) 海ノ口城平賀玄信攻め 攻略
毛利少輔次郎(吉川元春) 11歳 1541年(天文10年) 吉田郡山城の戦い 元服前
長尾景虎(上杉謙信) 13歳 1543年(天文12年) 栃尾城の戦い※ 防戦
織田信長 14歳 1547年(天文16年) 大浜攻め 戦闘なし。放火のみ
島津義久 22歳 1554年(天文23年) 岩剣城攻め 義弘歳久と同時初陣
松平元康(徳川家康) 17歳 1558年弘治4年) 寺部城の戦い 城下の放火
長宗我部元親 22歳 1561年永禄4年) 長浜の戦い 吉良親貞と同時初陣
伊達政宗 15歳 1581年天正9年) 矢野目館の戦い(相馬義胤との戦い)
石田三成 22歳 1581年(天正9年) 洲本城攻め※

脚注

  1. ^ "初陣". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2023年8月6日閲覧
  2. ^ "初陣". 世界大百科事典 第2版. コトバンクより2023年8月6日閲覧

初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)

武田信玄」の記事における「初陣」の解説

信虎諏訪氏村上氏信濃豪族同盟し信濃国佐久郡侵攻進めているが、武家の初陣は元服直後行われていることが多く、『甲陽軍鑑によれば晴信の初陣は天文5年1536年11月佐久郡海ノ口城平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承疑問視されているものの、時期的にこの頃であると考えられている。

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初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:25 UTC 版)

インディペンデンス (CVL-22)」の記事における「初陣」の解説

アメリカ海軍にとってインディペンデンスは、巡洋艦から空母設計変更された最初軍艦であったインディペンデンス慣熟訓練カリブ海で行う。その後太平洋艦隊 (United States Pacific Fleet) に加わるためパナマ運河通過し1943年昭和18年7月3日サンフランシスコ到着7月14日真珠湾向けて出航し到着後はエセックス級航空母艦エセックス (USS Essex, CV-9) 、ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) と第15任務部隊チャールズ・A・パウナル少将)を編成して南鳥島攻撃のための二週間に及ぶ訓練演習を共に行ったその間7月15日付で、インディペンデンス級航空母艦艦種軽空母CVL)に変更されインディペンデンスハルナンバーは CVL-22に変更された。 第15任務部隊による南鳥島攻撃9月1日行われ、島の施設大打撃受けたアメリカ側被害は、戦闘機3と雷撃機1喪失であったこのあとインディペンデンスは第14任務部隊アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に編入された。第14任務部隊作戦10月5日日本時間10月6日)と、7日ウェーク島攻撃であり、艦載機による攻撃重巡洋艦艦砲射撃ウェーク島日本軍施設大打撃を蒙った(ウェーク島空襲)。タロア島からウェーク島救出部隊零式艦上戦闘機7、一式陸上攻撃機7)が出動したが、ウェーク島近海米軍機部隊F6F撃退されている。一連の作戦は、アメリカ海軍で機動部隊運用に関する戦術試験運用として行われたが、パウナル少将の臆病の極み見せた指揮ぶりが問題視された。それでも、14任務部隊反撃らしい反撃を受けることなく真珠湾帰投した。

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初陣

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マッカーサー回想記」の記事における「初陣」の解説

1918年2月から「にじ」師団フランス第7軍団指揮下で戦った6月准将になった

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初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 10:18 UTC 版)

グナエウス・マルキウス・コリオラヌス」の記事における「初陣」の解説

初陣は二十歳になろうかという紀元前499年頃に起こった共和政ローマラティウム覇者とする事になるレギッルス湖畔の戦いであったという。彼は倒れた味方庇って敵を打ち倒し市民冠を与えられた。この名誉は彼を更なる名誉へと駆り立て、その名誉を母が喜ぶ事が彼のなにより幸せであった。彼は父の分まで母に仕えようと、結婚してからも母と共に住んだという。

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初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:17 UTC 版)

挺進連隊」の記事における「初陣」の解説

太平洋戦争大東亜戦争開戦直前12月4日には、挺進第1連隊(1Ri)と、輸送機により空挺兵物資輸送降下担当する飛行戦隊である挺進飛行戦隊(RFR)から成る第1挺進団(1RB)が編成完結した。まもなく、挺進第2連隊(2Ri)も編成された。 開戦後蘭印作戦におけるスマトラ島パレンバンへの降下作戦パレンバン空挺作戦)には第1挺進団挺進第1連隊欠)が投入され日本陸軍最初空挺作戦成功させた。

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初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)

楠木正行」の記事における「初陣」の解説

南朝の慌ただしい動き事前に室町幕府察知しており(藤田精一説)、正平2年/貞和3年1347年8月9日足利直義の命によって、細川顕氏畠山国清らが南朝と戦うための部署就いた(『朽木文書』『田代文書』『徴古雑抄』)。 その翌8月10日西暦9月15日)、正行はついに初陣に臨んだ和泉和田氏棟梁和田助氏(みきた すけうじ)らを率いて紀伊国隅田(すだ)城(和歌山県橋本市隅田町)を攻めたのである『和田文書』)。隅田は、父の正成も元弘の乱後半戦再挙した際に真っ先攻めた地域である。藤田によれば、まず隅田落としたのは、吉野行宮楠木氏根拠地である東条大阪府富田林市南東端)の間の連絡路確実にするための作戦だったのではないか、という。 正行挙兵に、紀伊半島熊野南朝派も呼応して戦ったが(『園太暦同月19日条)、藤田は、伊勢国三重県)に地盤を持つ北畠親房からの支援であろうとしている。こうした状況に、19日には幕府河内・和泉守護細川顕氏出陣し天王寺経由堺浦向かおうとした(『園太暦同日条)。北朝公卿洞院公賢によれば意外にも顕氏は南朝対抗できる兵数揃えるのに苦慮しており、21日になってやっと天王寺出て堺浦出陣した(『園太暦同日条)。 この頃、京には様々な風説届けられており、公賢は、8月22日には南朝軍が撤退したようだと胸撫で下ろしている(『園太暦同日条)。しかし、実際は、正行8月24日には河内国池尻大阪府大狭山市)を攻めている(『和田文書』)。この日の戦自体勝敗不明だが、戦況からして遅くとも9月初頭までには同地制圧した考えられる。 突然の事態北朝幕府恐慌状態にあり(藤田説)、29日には、足利直義東寺戦勝祈願させた(『東寺文書』「五条之部 山城」)。 正行はさらに兵を進めて9月9日には八尾城(同府八尾市)で少なくとも三度目戦い行い連勝重ねた『和田文書』)。 正行快勝確認した南朝は、9月10日幕府との全面対決を公式発表し後醍醐皇子懐良親王らが戦う九州征西将軍府へも一報入れた(『阿蘇文書』)。

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初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 07:50 UTC 版)

第32SS義勇擲弾兵師団」の記事における「初陣」の解説

1945年2月初旬師団最初部隊編成される直ち第5SS山岳軍団所属として戦線投入されたが、第5SS山岳軍団はすでに疲弊しきった状態であった。しかし第5SS山岳軍団は、ソビエト赤軍オーダー川西岸橋頭堡通称屋敷前面赤軍進撃懸命に阻止していた。ソビエト橋頭堡存在ドイツ軍にとって脅威化していたため、その掃討は緊急を要しており、第32SS義勇擲弾兵師団などを中心として2月5日より反撃開始された。作戦初日にツィルテンドルフ(ドイツ語版)、さらに27日にはフォーゲルザング(ドイツ語版)の奪還成功し戦線安定させたが、橋頭堡掃討には至らなかった。 2月中旬師団各部隊編成終了橋頭堡付近戦線投入され防衛戦行った。しかし2月以降橋頭堡ソビエト赤軍増強され、3月2日、再びフォーゲルザングに侵入したこのため師団の第32SS戦車猟兵連隊中心とした部隊反撃したものの撃退され3月末にも再度反撃試みたがこれも撃退された。4月上旬師団第5SS山岳軍団命令を受け、フランクフルト・アン・デア・オーダー要塞部隊撤退路を確保するために「クラウス戦闘団」、「シェットレ戦闘団」の2個戦闘団編成装甲部隊大半派遣した。さらに4月12日師団配属変更され第5SS山岳軍団から第9軍所属第11SS戦車軍団予備部隊になった師団大部分東部戦線北西後方配置されたが、ここには主力となる装甲擲弾兵師団はなかった。 1945年4月16日早朝3時ソビエト赤軍ベルリンへ向けて大攻勢開始した師団担当地区であるヴィーゼナウ(ドイツ語版南西では、ソビエト赤軍突破を許さなかったものの、ギュルデンドルフ(ドイツ語版)の戦線突破された。所属連隊からの救援一度戦線押し戻したが、ソビエト赤軍怒涛の攻撃飲み込まれ最終的に戦線崩壊した翌日ソビエト赤軍はオーダー・シュプレー運河ドイツ語版)を渡り、ラウテンクランツ(ジーディヒウム(ドイツ語版内の集落方面進出したが、師団はこれを運河まで押し戻した。しかしツィルテンドルフ北方突破され、こちらでは撤退せざるをえなかった。18日師団一部はカイザーミュール(ドイツ語版)へ撤退4月21日までここを維持した。また師団は「フレンケン戦闘団」を編成して18日にラウテンクランツ方面反撃加えたものの、撤退せざるをえなかった。さらに戦線後方では「クラウツ戦闘団」が、マルケンドルフ(ドイツ語版)の東より進出したソビエト赤軍激戦交わしていた。 1945年4月19日時点師団は、リヒテンベルクドイツ語版)-マルケンドルフ、リーツェン(ドイツ語版)、ラウテンクランツ北方防衛線を展開していた。ところが師団異動先である第11SS装甲軍団の戦線危機的状況陥ったため、2個戦闘団引き抜いて北方に送ることとなった。そこで編成されたのが「シル戦闘団」、「クーアマルク戦闘団であったシル戦闘団はフュルステンヴァルデ(ドイツ語版方面派遣されたが、「クーアマルク戦闘団」はというと交代部隊未着のために20kmもの戦線展開することになってしまった。これは1km20名で防衛することを意味していた。4月22日時点で、シル戦闘団はノイ・ツィッタウ(ドイツ語版付近防衛線を構築しており、クラウス戦闘団はケーニヒス・ヴスターハウゼン(ドイツ語版)に向け撤退であった

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初陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 04:15 UTC 版)

第340国民擲弾兵師団」の記事における「初陣」の解説

11月16日西部戦線において「西方壁」対す米軍の攻撃始まり11月25日ドイツ軍をユーリッヒ(ドイツ語版)(Jülich)の橋頭堡まで押し戻すことに成功した11月20日第340国民擲弾兵師団直ちルール地方移動するように命令を受け、ユーリッヒ橋頭堡防衛強化のため11月21日の夜、師団輸送列車により移送され到着後すぐに防衛戦巻き込まれ戦線付近に布陣した。11月23日師団はユーリッヒ橋頭堡での激し防戦繰り広げ大損害の末、11月28日にユーリッヒ橋頭離れルール川東岸移動した師団はこれらの戦闘31人の将校と2,400人の戦死者出した12月2日師団配置は第363国民擲弾兵師団交換され12月6日にはリンダーン(ドイツ語版)(Rindern)の戦闘地域であるリンニッヒ(ドイツ語版)(Linnich)に移送されたがフロスドルフ(Flosdorf)における戦闘師団壊滅し12月25日師団それまで行動地域から撤退しアルデンヌ攻勢開始備え予備兵力として西方総軍司令部ドイツ語版)(OB West)に移された。

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初陣

出典:『Wiktionary』 (2021/08/13 06:20 UTC 版)

この単語漢字
うい
第四学年
じん
常用漢字
湯桶読み

名詞

(ういじん)

  1. はじめて戦場に出ること。また、初めての戦い
  2. 正式競技会などに初出場すること。

関連語

翻訳


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