【大東亜戦争】(だいとうあせんそう)
太平洋戦争の日本での(本来の)呼び名。
植民地として欧米に搾取され続けていたアジアを開放し、独立させる事を名目とした。
詳しくは太平洋戦争項を参照。
戦勝国となった英米はアジアでの植民地を次々と失い、アジアの各国は独立を迎えていることから、日本は「名目上」において、戦略的勝利を収めたと言えるやもしれない。
大東亜戦争
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大東亜戦争(だいとうあせんそう、旧字体:大東亞戰爭、英語: Greater East Asia War)は、1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)9月2日まで行われた、日本(大日本帝国)と中華民国、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダなどの連合国との全ての戦線の戦争を指す日本側の名称[1][2][3]。
注釈
- ^ 一ノ瀬俊也は海軍側が「太平洋戦争」若しくは「対英米戦争」を提案したという当時の記録は存在しないとしている[14]
- ^ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。
- ^ これらは、米国のメリーランド大学のマッケルデイン図書館にプランゲ文庫として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在、このプランゲ文庫の全ての資料がマイクロフィルム化されており、日本の国立国会図書館で閲覧可能である。なお勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)で、原資料に基づき、多くの検閲の実例を挙げて論証している。
- ^ 「太平洋戦争」という用語は、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用。
- ^ 満州事変に関しては塘沽協定(1933年)で停戦が成立しており、一続きの戦争とみなすことについて否定的な見解もある。ただし、休戦や講和をはさんだ一連の戦争を一続きのものとしてとらえること自体は決して特異な見解ではない(例えば「百年戦争」や「三十年戦争」などの呼称が歴史学で使われている。これらも十五年戦争と同じく、後世の視点で一連の戦争を総括して呼ぶ呼称として生まれた)。庶民の日常感覚では、1937年以降が「戦争」であったことは、同時代の証言として徳田秋声の『縮図』冒頭部分、安岡章太郎の回想がある。
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『大東亜戦争』 - コトバンク
- ^ a b 「なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか: アジア主義者の夢と挫折」p22-31, 田原総一朗 · 2011
- ^ “【気になる!】新書『世界史としての「大東亜戦争」』”. 産経ニュース. 産経デジタル (2022年8月7日). 2022年8月15日閲覧。
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- ^ 例えば「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)など。
- ^ 第89回帝国議会・貴族院「昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会」、1945年(昭和20年)11月30日、発言番号22,23参照、帝国議会会議録検索システム
- ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 60.
- ^ a b c d 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書(第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日)
- ^ 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書(第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)
※この質問を行った鈴木宗男衆議院議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している(太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書(第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。 - ^ “【記者会見】防衛大臣”. 2024年4月14日閲覧。
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 52.
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- ^ 『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993,p101
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- ^ 1989年2月の企画や2006年(平成18年)8月13日読売新聞紙面
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 67.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 65.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 58–59.
- ^ 島田建造著、友岡正孝編「カラー復刻版日本記念葉書総図鑑」、2009年、50頁
- ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」87頁
- ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」204頁
- ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」126頁
大東亜戦争(標準)
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大東亜戦争を開戦より1947年まで戦い抜くキャンペーン・シナリオ。
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大東亜戦争(入門編)
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大東亜戦争
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大東亜戦争(太平洋戦争)
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「板倉光馬」の記事における「大東亜戦争(太平洋戦争)」の解説
潜水学校を卒業の後、1941年(昭和16年)11月、伊号第169潜水艦水雷長兼分隊長。その後先任将校として、12月8日の真珠湾攻撃に参加。駆逐艦攻撃に失敗し反撃され損傷。その後防潜網にかかり海底に沈下、哨戒艇にも発見されながらも、間一髪で真珠湾を離脱した。 1942年(昭和17年)1月にはミッドウェー方面で通商破壊に従事、ただし戦果に恵まれず、ミッドウェー島の米軍基地を砲撃後日本帰還。同年5月、ミッドウェー海戦の支援のため同海域に展開。7月以降ヌメア方面を始めとするオーストラリア方面通商破壊作戦を行った。 1943年(昭和18年)3月、潜水学校甲種学生を経て伊号第176潜水艦艦長に就任。だが着任前にラエで伊176潜が米軍の執拗な爆雷攻撃により損傷したため、日本まで回航後、同4月伊2潜艦長。5月にはケ号作戦(アリューシャン方面の戦い)のためにアリューシャン方面に向かい、キスカ輸送を2回、及び撤収作戦(アダック島付近での気象通報)に参加。このとき隊内で発生した水難事故を契機に、艦内の酒をすべて処分しようとして、乗員と共に艦内の酒を飲み尽くした。酒宴の間は酒の飲めぬ乗員に甲板を見張らせ落水防止のために絶対誰も甲板に出すなと厳命したが、その当の板倉が甲板に登り、部下に「異常ないか?、誰も甲板に上がっていないな?」と確認したのちに甲板から立ち小便をしている最中にバランスを崩して0度近い水温の海に落下し気絶。見張り勤務の部下に救出され、甲板上で蘇生措置を受けて九死に一生を得た。なお、近くにいた平安丸がこれに気づき「イカニサレシヤ」との信号を送るも、伊2は艦長が海に転落したことをごまかすため、「溺者救助訓練ヲ実施セリ。作業完了、異状ナシ」と返信した。板倉は一生一代の大恥としているが、逆に「不死身」のあだ名を奉られる。 同年6月、少佐昇進。10月以降は再度アリューシャン方面にて通商破壊戦に従事。輸送船1隻撃沈(ただし米側に該当船舶なし)。同年12月に伊41潜に移り、ラバウル方面での作戦輸送任務を命じられラバウル移動。途中で肉薄してきたB-24の爆撃に対して、B-24に逆に帽子を振れと部下に命令することによって、味方と誤認させることにより回避に成功。 1944年(昭和19年)1月より4月まで、ラバウルで輸送任務。その間、スルミに1回、ブーゲンビル島ブインに3回の輸送を行った。ブインへの回数が多いのは、ぜひ伊41号潜水艦をという第八艦隊司令長官・鮫島具重中将(かつて板倉が殴った「最上」艦長)のたっての希望による(この時板倉は鮫島に手土産としてウィスキーを届け、鮫島は戦後その空き瓶を持って日本に帰還。死ぬまで大事にしていたという)。ブイン輸送の帰路には座礁の危険を冒して機雷原と島のわずかな隙間を通ってラバウルに帰還している。さらに、ラバウル撤収における第7潜水戦隊司令部要員をトラックへ輸送後、同年4月、内地に帰還。同じ任務に当たった潜水艦が次々と撃沈または消息を絶つ中、これだけの成功をおさめたのは、米軍のレーダー探知に対抗するため、昼間は水上航走、夜間に潜航という、従来の潜水艦の警戒方法とは逆のパターンを取ったためと言われる。 帰還後は、海軍が開発した水陸両用戦車、特四式内火艇を使った特攻作戦「竜巻作戦」の支援を命じられるが、特四式内火艇の完成度が低く、実用に耐えないと判明したため作戦は中止された。 同年5月にはあ号作戦支援のため出撃、アドミラルティ付近を始め各所を点々とするが、戦果はなく、グアム島の不時着搭乗員を収容の後、6月に内地帰還。 同年8月、第一特別基地隊参謀兼大津島分遣隊長。回天隊水雷参謀兼指揮官として、発案者である黒木博司中尉、仁科関夫少尉と共に回天隊の立ち上げに当たる。その後終戦まで、回天隊指揮官として、訓練、出撃、整備など現場の管理統括を行った。この間、部下を死なせるなどの事故もありずっと自らも出撃を希望し続けていたが遂に叶わず、また、終戦時には自決を企図したが説得されて回天隊の戦後処理に当たった。
※この「大東亜戦争(太平洋戦争)」の解説は、「板倉光馬」の解説の一部です。
「大東亜戦争(太平洋戦争)」を含む「板倉光馬」の記事については、「板倉光馬」の概要を参照ください。
大東亜戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 08:34 UTC 版)
「要塞砲塔加農砲 (日本軍)」の記事における「大東亜戦争」の解説
昭和10年には砲塔加農の改修を打切り、既に改修完了の砲塔四五口径四十糎加農・砲塔四五口径三十糎加農もあったが設置は見送られ、以後の設置は南方も含め皆無であった。 そして余剰ぎみとなった保管転換海軍砲も、時間があれば列車砲への転用候補素材である考えられていたが、予備砲身・備品・部品等保管継続の必要品もあったものの、状態不良品も出てきており、戦局の悪化から無用兵器の感が強くなり、用途見込み無い不要兵器・不要部品、の鉄源活用としてスクラップ化もされるものも出てきた。 戦争後期に本土決戦が近づくと、要塞に設置されている火砲も野戦用に転用を図ったが、大型で固定機力操作の砲塔加農は、移設は困難であり、専ら初期企画の海面射界であり、対上陸部隊戦には限定的戦力となるのは否めなかった。 強いて砲塔加農の意義をあげるならば、太平洋沿岸部で終末期に行われた水上艦艇による艦砲射撃を、要塞が存在することで抑止できたことぐらいであろう。
※この「大東亜戦争」の解説は、「要塞砲塔加農砲 (日本軍)」の解説の一部です。
「大東亜戦争」を含む「要塞砲塔加農砲 (日本軍)」の記事については、「要塞砲塔加農砲 (日本軍)」の概要を参照ください。
大東亜戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 19:39 UTC 版)
2007年 - 2009年の月刊誌『ハーザー』の連載記事「日本宣教の突破口」では、大東亜戦争(太平洋戦争)の日本悪玉論はGHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによる洗脳であるとして、大東亜戦争肯定論を唱える。また、南京事件の数字にも疑義を呈している。一年の休刊を経て復刊された2011年1月号のハーザーでもこの連載を続けており、「大東亜戦争は本当に侵略戦争だったのか」と題する記事がある。ただし戦争とは「敗戦した側が悪い」という原則も存在している。 聖霊派の日本リバイバル同盟の戦争責任告白には、日本のリバイバルのためだというので署名したが、日本悪玉論はむしろ日本のリバイバルを妨げると考えるようになったという。 大東亜戦争の日本悪玉論を再検討するようになったのは、自分が学んだ自由主義神学(リベラル神学)による所が大きいとしている。
※この「大東亜戦争」の解説は、「手束正昭」の解説の一部です。
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「大東亜戦争」の例文・使い方・用例・文例
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