ラバウル【Rabaul】
ラバウル
ラバウル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 06:46 UTC 版)
昭和17年(1942年) 8月8日 先遣隊9機ラバウル到着。当日よりツラギ爆撃に出動。 8月20日 ラバウル空襲、2機地上撃破。 8月29日 6機でガダルカナル島初空襲。以後、敵陣地爆撃に従事。 9月7日 ポートモレスビー初空襲。 9月9日 ガダルカナル島行き敵輸送船団を爆撃。以後、対艦爆撃を追加。 9月12日 川口支隊の総攻撃を支援。 10月9日 第17軍の上陸を支援。 10月13日 金剛・榛名のヘンダーソン飛行場砲撃を支援。 10月25日 第17軍の総攻撃を支援。 11月1日 「第七〇五海軍航空隊」(705空)に改称。 11月5日 鼠輸送開始、防空哨戒に従事。 12月1日 第707海軍航空隊解隊、要員を編入。 昭和18年(1943年) 1月21日 ケ号作戦(ガダルカナル島撤退)開始。防空哨戒に従事。 1月30日 レンネル島沖海戦勃発、第701海軍航空隊と共同で対艦攻撃。 4月7日 「い号作戦」発動。ソロモン方面(X攻撃)には参加せず、ニューギニア方面(Y攻撃)準備。 4月12日 Y攻撃実施。12日・14日の2日間でモレスビー港・ラビ飛行場を爆撃。 4月18日 「海軍甲事件」勃発。山本五十六連合艦隊司令長官戦死、宇垣纏同参謀長重傷。 5月以降、一部部隊をテニアンに撤退させ、再編した後にラバウルへ派遣する形で、705空のラバウル駐留は継続された。残存部隊は第751海軍航空隊に混じって散発的なソロモン諸島・ニューギニア方面の対地爆撃に参加している。昭和18年8月頃より、マーシャル諸島方面への米軍侵入が頻発するようになったため、内南洋に展開する第755海軍航空隊を援護すべく、705空にテニアンへの撤退が命じられた。
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ラバウル
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元山海軍航空隊は戦爆連合隊として、仏印進駐を皮切りに太平洋戦争劈頭のインドシナ戦線で活動していたが、昭和17年4月に陸攻隊がラバウルに派遣される一方、戦闘機隊はインドシナに残留することになって、統一指揮が不可能になった。6月に陸攻隊が内地に帰還したことを機に、戦闘機隊も帰還したが、その際に陸攻隊と完全に分離し、大湊海軍航空隊戦闘機隊を編入して、1942年9月20日、252空が木更津飛行場で開隊。第十一航空艦隊第二二航空艦隊に編入。定数・戦闘機60。木更津で練成に従事。 ソロモン諸島で連合軍の反攻が始まったことから、252空はラバウル進駐を目指して練成が始まる。1942年11月1日進出、航空母艦大鷹に搭載し木更津発。第一空襲部隊(第二一航空戦隊)に編入。11月7日ラバウル着。11月12日初動、ガダルカナル島ルンガ岬陣地爆撃隊の護衛。11月17日 ブナ守備隊援護のためラエ飛行場に進出。以後、連合軍の空襲部隊を迎撃。12月23日ニュージョージア島ムンダ飛行場に分遣隊24機進出。12月29日 ムンダ分遣隊、進出翌日からの空襲により壊滅、ムンダ飛行場を放棄。1943年1月3日ブナ守備隊玉砕。ラエ飛行場よりラバウルに撤退。1月4日ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)発動。支援のためブインに進出。1月25日ガダルカナル島航空撃滅戦に参加。1月28日バラレ島に進出。1月29日レンネル島沖海戦勃発、陸攻隊を護衛。2月1日 - 7日ケ号作戦支援。3月11日 ラバウル残留隊、最後の戦闘。陸軍爆撃機のブナ攻撃直衛任務で9機出撃。ブナ上空で連合軍の戦闘機約20機と空戦を行い、18機の撃墜(内、不確実6機)を報じる。 1943年2月20日転進開始。本隊はバラレよりカビエンに進出。一部はブインに残留。2月23日カビエンよりマーシャル諸島方面に進出。3月2日先遣隊、ウェーク島に到着。3月12日ラバウル方面残留隊、マーシャル諸島の本隊に合流下令。全機クェゼリン環礁ルオット・ウェーク島・ナウル島・マロエラップ環礁タロアに展開。4月21日ナウルに敵機襲来、4機で迎撃。7月19日ウェーク島に敵機襲来、B-24撃墜2機、4機喪失。9月1日南鳥島に敵機動部隊襲来、ルオット本隊のウェーク進出を企図、のち解除。9月18日タラワ島に敵機襲来、マロエラップ派遣隊の大半をタラワに派遣。10月1日ルオット本隊、マロエラップに前進。10月6日ウェーク島に敵機動部隊・水上艦襲来。空襲・艦砲射撃で派遣隊機体喪失。11月19日ギルバート諸島全土とナウルでタラワ上陸事前空襲。ナウル派遣隊迎撃。11月21日米軍マキン・タラワに上陸。ルオット発の救援陸攻隊の護衛を図るが荒天のため引き返し。23日マキン玉砕(マキンの戦い)、25日タラワ玉砕(タラワの戦い)。11月23日ミレ島空襲、マロエラップ隊迎撃。 11月24日翌日までマロエラップ隊の零戦は、爆装してマキン島の艦船に攻撃を実施。21機撃墜報告・16機喪失。飛行隊長周防元成大尉は、爆装で動きが鈍くなり被害が多かったため、飛びもしない分かっていない者が飛べと言う机上の計画で部下を死なすわけにはいかんと司令部に抗議する。 11月下旬から12月上旬に頻発したギルバート沖航空戦・マーシャル沖航空戦には不参加。12月に入るとタラワからマーシャル諸島各基地に米陸軍機による空襲が連日のように行われ、邀撃に追われる。12月7日 各地の派遣先より撤退。マーシャル諸島北東にあり、米軍の進攻可能性が最も高いマロエラップに集合する。稼動機30。12月25日マキン島飛行場を第二八一海軍航空隊・第五三一海軍航空隊と連合で強襲。1944年1月30日米機動部隊によるクェゼリン環礁上陸事前空襲。マロエラップに延べ90機襲来、機体払底。2月5日搭乗員、マロエラップ脱出。マロエラップに残留していたのは、奇しくも元山空だった第七五五海軍航空隊36名と二五二空24名だった。旧元山空の残留者計60名は、七五五空にかろうじて残った陸攻3機に分乗し、トラックに脱出した。二五二空で脱出したのは副長舟木中佐以下の搭乗員で、司令柳村大佐以下の地上要員は残留した。離陸時、柳村司令は自ら発光信号を手にとって「サヨウナラ サヨウナラ」と見えなくなるまで発信し続けていたという。柳村司令はその後3月31日に戦死した。
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ラバウル
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「バンプレストオリジナルの機動兵器一覧」の記事における「ラバウル」の解説
OGIN……地球連邦軍側の艦船として登場。シロガネと共にDC残党追撃の任に就いていたがスレードゲルミルによって撃沈された。艦体色は白。
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