通商破壊
通商破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/17 01:19 UTC 版)
「カールスルーエ (軽巡洋艦・初代)」の記事における「通商破壊」の解説
通商破壊船でカールスルーエはイギリス船17隻とオランダ船1隻、合計76500トンを沈めるか捕獲した。途中からはケーラーは補給船を商船捜索に使用した。
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通商破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/25 13:21 UTC 版)
詳細は「通商破壊」を参照 通商破壊(英語: the guerre de course)とは、敵の通商を妨害するために敵国の商船団を海軍力を以って攻撃することで、間接的に敵を減衰させる戦略である。1690年代の中頃にフランスの大西洋岸の港、特にサン・マロとダンケルクから出撃するフランスの私掠船が、同盟関係にあるイギリスとオランダの交易にとって大きな脅威だった。イギリス政府は、軍艦を商船隊の護衛に、巡視船を私掠船狩りに派遣した。フランスでは、イギリス・オランダに対する私掠船の成功から、軍艦を戦闘のために使う(フランス語: guerre d’esquadron)よりも貿易戦争を支援する通商破壊(フランス語: guerre de course)の方向に変えつつあった。イギリス・オランダの商船隊は、通商破壊艦隊の大きな目標だった。この政策転換の結果、1693年6月17日、トゥールヴィル伯アンヌ・イラリオン・ド・コタンタンがスミルナ行きの同盟船団を襲い劇的な成果を上げた(ラゴスの海戦)。 貿易戦争支援を艦隊の戦略とすることの不利は、自国の商船を無防備にすることである。個々の襲撃隊は敵が大きな部隊を派遣してきたときは散々に打ち負かされてしまう危険性もある。1806年のサン・ドミンゴの海戦(en)におけるレッセグ提督や、1914年のフォークランド沖海戦におけるマクシミリアン・フォン・シュペーの例がある。 通商破壊に対する対抗策としては、護送船団を編成するなどしての直接護衛と、敵の通商破壊艦の掃討など積極的な海戦による制海権確立の2つの戦略が考えられる。護送船団による直接護衛が正しく運用されれば、個々の通商破壊艦を掃討するよりも通商保護の手段として効果的な場合がある。しかし、敵国が有力な海上戦力を保有して海戦を挑んでくる場合、直接護衛方式では対処可能な護衛艦を整備するために膨大な資源を要し、しかも実際に戦闘となった場合には足手まといな商船を保護しながらの困難な戦術行動を強いられる。したがって、積極的な決戦を求める戦略のほうが、効果的に通商保護できる場合もある。
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通商破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 07:30 UTC 版)
「1794年5月の大西洋方面作戦」の記事における「通商破壊」の解説
大西洋の方では、フランスのニエリ、イギリスのモンタギュ、それぞれの戦隊が敵方の商船に通商破壊を行っていたが、その時点では船団の中心となる食物運搬船を見つけられなかった。ニエリはニューファンドランド島からのイギリス護送船団と交戦し、10隻を拿捕した。その中には護衛のフリゲート艦カスター(英語版)もいた。カスター艦長のトーマス・トラウブリッジは、戦闘中ほとんどの時間を、ニエリの旗艦サンパレイユの艦上で戦った。モンタギュも5月15日、ちょっとした成功を収めることができた。ニエリが拿捕したイギリスの商船を取り戻し、同時にフランスのコルベット艦マリー=ギトンを拿捕し、また、フランス艦隊の正確な行先と規模の情報を把握して、このことをハウに知らせた。大西洋中部での哨戒を再開したニエリは、その数日後にアメリカからの護送船団を見つけ、船団の防御を増員するために、自分の戦隊の艦2隻を護送船団に移動させた。そして、イギリス艦がこの船団の航路へ、脅しをかけようとしているのではないかとの兆候を探るために、大西洋東部へ引き返した。またヴィラレーにも、イギリス艦隊の位置と速度の情報を持たせた、複数のフリゲート艦を派遣した。 ニエリとモンタギュが、大西洋上で偵察行動をしている一方で、ハウは、フランス艦隊を捕らえようと、ビスケー湾への一連の航海に出て、湾内をあちこち移動した。しかし5月5日から18日までの間は何も見つけだすことができず、ブレストに戻った。ブレストには偵察用のイギリスのフリゲート艦がいて、フランスの艦隊が立ち去ったことを報告した。ヴィラレーは濃霧にうまく隠れ、その前日に、イギリス艦隊の目と鼻の先を通過していた。この艦隊は、ニエリの戦隊の後を追っていた。ヴィラレーの目的は、ニエリと護送船団との両方に出会って、戦力を合体させることだった。そうすれば、イギリスよりも多くの人数で船団を護衛でき、無事にフランスに戻すことが可能になるからだった。ハウから巧みに身をかわし、ニエリと船団との合流にはまだ数日あるヴィラレーは、ここで予期せぬ収穫を得た。53隻から成るオランダの艦隊に出くわしたのだった。護衛艦であるアリアンス(英語版)、ワークザイムハイト(英語版)はフランス艦隊が近づくのを見て逃走し、ヴィラレーは思いのままにその艦隊を攻撃して、20隻の貨物船を拿捕した。
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通商破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 10:07 UTC 版)
青年学派の他の構成要素は、敵の通商と経済を縮小させるために一般商船を攻撃する通商破壊であり、これも英国への対抗戦術として考えられた。 23ノットの速力を誇り、敵海軍の船団護衛艦との近接戦闘でも戦闘能力を喪失し難い、デュピュイ・ド・ロームのような装甲巡洋艦がこの目的のために設計され、1888年に着工されている。
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