特別攻撃隊
特攻作戦
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昭和19年12月20日、桜花特攻部隊である第七二一海軍航空隊とペアで第十一航空戦隊を結成し、主力正規爆撃隊へと変容した。定数は陸偵24・戦闘48・陸爆48だが、フィリピン進出の際に出撃した戦闘701飛行隊が第七六一海軍航空隊に転出して以後、護衛戦闘機隊が七六二空に編入されることはなかった。 再編後は、香取飛行場に偵察11飛行隊・攻撃501飛行隊・陸軍第七飛行戦隊、豊橋飛行場に攻撃262飛行隊、鹿屋飛行場に第九八飛行戦隊を置いて訓練に当たった。 昭和20年2月上旬頃より、沖縄の地上戦への備えが始まった。七六二空は2月11日をもって第五航空艦隊に転籍し、正規爆撃の一翼を担うことになった。その間、攻撃第406飛行隊が新たに七六二空に編入された。 3月1日 南九州に展開。鹿屋(偵11彩雲14機・攻501銀河9機)、出水(攻406陸攻10機・銀河28機)、宮崎(攻262銀河7機・七戦隊飛龍27機)、築城(攻262銀河16機)、大刀洗(七戦隊飛龍10機・九八戦隊飛龍13機)、鹿児島(九八戦隊飛龍13機)。 3月11日 第二次丹作戦(ウルシー環礁薄暮強襲=特攻)決行。「梓特別攻撃隊」と命名された銀河24機が参加。うち15機がウルシー在泊中の米艦隊への突入を無電で報告。戦果は1機が空母「ランドルフ」に体当たりして中破させたのみ。突入を断念してヤップ島の基地に不時着した3機(指揮官・黒丸直人大尉機を含む)のうち、無傷だった1機(落合勝飛曹長機)のみが、不時着した3機の搭乗員全員を乗せて14日に鹿屋に帰還。 3月18日 九州沖に敵機動部隊接近、七戦隊・九八戦隊・攻501出撃、7機喪失。 3月19日 出水基地より攻406出撃、1機が急降下爆撃で空母フランクリンを大破させる。 3月20日 攻501・九八戦隊出撃、4機喪失。 3月21日 攻406・攻501出撃、12機喪失。 3月26日 天一号作戦発動。攻501・七戦隊・九八戦隊出撃。 4月1日 地上戦開始。 4月3日 攻262、8機のうち3機が特攻。 4月11日 33機で対艦攻撃。 4月12日 30機で対艦攻撃。 4月14日 18機で対艦攻撃。 この頃から南九州への基地強襲が激化する。陸軍太刀洗飛行場は主目標となり、七戦隊・九八戦隊の組織的攻撃は急激に散発的になる。 5月12日 第三次丹作戦決行。銀河12機参加。しかし出撃直後に迎撃され断念。 10回にわたる菊水作戦にも、七六二空は散発的に参加しているが、6月21日の攻撃を最後に本土決戦用に温存策が図られることになり、指揮下の飛行隊は攻撃第501飛行隊に統合され、主力部隊は、島根県斐川町に造成された大社基地という秘匿飛行場に疎開・展開した。五航艦では、七六二空を決号作戦時の夜間雷撃隊として活用するべく、8月3日に第六三四海軍航空隊・第九三一海軍航空隊とともに第32航空戦隊を編成したが、敗戦とともに解散した。
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特攻作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)
2月21日、ジャンボリー作戦の打撃からどうにか立ち直った日本軍は航空機による反撃を開始し、千葉県香取航空基地から出撃した第六〇一海軍航空隊の爆撃機「彗星」12機、攻撃機「天山」8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給した後に硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。同隊突入前に、千葉県木更津の第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔をまいてレーダーを攪乱(かくらん)した。第六〇一海軍航空隊は航空母艦飛行隊として訓練されていた精鋭であり、わずか32機であったにも関わらず、護衛空母「ビスマーク・シー」を撃沈、正規空母「サラトガ」に5発の命中弾を与えて大破させた他、「キーオカック」(防潜網輸送船) (英語版)も大破させ、護衛空母「ルンガ・ポイント」とLST-477 (英語版)を損傷させるなど大戦果を挙げた。 大破した正規空母「サラトガ」の戦闘報告によると「この攻撃はうまく計画された協同攻撃であった。攻撃が開始されたとき、4機の特攻機が同時にあらわれたが、各機は別々に対空砲火を指向させなければならないほど、十分な距離をとって分散していた。もしこれが自殺攻撃による一つの傾向を示しているのであれば、自殺機のなかには対空砲火を指向されないものが出てくる可能性があり、対空射撃目標の選定について混乱を生じさせることは確実なので、この問題はおざなりにできない」とあり、第二御盾隊が精鋭らしく互いに連携をとりながら対空砲火を分散させる巧みな戦術で攻撃したことがうかがえる。第二御盾隊による戦果は硫黄島の守備隊も視認しており、第27航空戦隊司令官市丸が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した。梅津美治郎陸軍参謀総長と及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇に上奏した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたというが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、再び実行されることはなかった。 その後も小規模ながら断続的に航空支援が行われ、アメリカ軍の物資集積所への空爆や守備隊への補給品の空中投下なども行われたが、3月25日深夜、木更津基地から6機の一式陸攻が離陸、うち根本正良中尉機のみが硫黄島に到達し、単機爆撃を行ったのが(根本機は生還)硫黄島における日本軍最後の航空攻撃となった。硫黄島への航空支援については、日本軍は終始消極的で、作戦に投入した機数はわずか延べ75機に過ぎなかった。 また、回天特別攻撃隊「千早隊」(伊44、伊368、伊370)が編成され、2月20~22日に出撃したが、回天警戒のため編成されていた護衛空母「アンツィオ」、「ツラギ」と駆逐艦18隻の 対潜水艦部隊に、「伊368」と「伊370」が撃沈され、戦果もなかった。その後、「伊36」と「伊58」で「神武隊」が編制され、3月1日に硫黄島に向けて出撃したが3月6日に作戦中止の命令が出て、両艦は引き返した。回天作戦中は母艦となる潜水艦は通常魚雷による戦闘が禁止されていたが、この作戦中、「伊58」の橋本以行艦長が、目の前を航行する敵艦を攻撃する絶好の機会を逃したことから、海軍上層部に回天作戦中の通常魚雷での攻撃の許可を求める意見書を提出したところ認められた。このことが後の重巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈することに繋がった。
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