第三次
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1935年(昭和10年)秋、杉並区教育委員会教育長大石金一が竪穴式住居が地下にあることを確信し、1936年(昭和11年)頃に阿玉台式の土器を炉ぶちに使用した竪穴式住居を発掘。
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第三次
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第三次作戦前夜の作戦会議(恐らく鳥海艦上で開かれたと思われる)で、この作戦を直接指揮した第八艦隊司令部は駆逐艦の出撃を渋った。二回の撤収で既にアメリカ軍に作戦が見破られたとの懸念に加え、連合艦隊は駆逐艦の喪失激減に悩んでおり、第三次作戦は方式を変更して、駆逐艦ではなく大発などの舟艇により島伝いに脱出させようとの意見が出された。これに対し陸軍側は、田沼参謀次長、第17軍の宮崎参謀長らが海軍の作戦会議に出席し、舟艇による脱出は成功の可能性が下がるとして駆逐艦の出撃を要請。議論が平行線を辿った時、駆逐艦「雪風」の菅間艦長と「浜風」の上井艦長から「予定通り駆逐艦でやるべき」との発言があり、臨席していた駆逐艦長全員もこれに賛同し、第三次作戦も駆逐艦隊で行う事が決定した。陸軍第17軍の小沼治夫少将は、会議の結果を受けても作戦当日の駆逐艦隊の行動に対する不安を拭う事ができず、第一連隊旗艦白雪に乗船する橋本信太郎少将に作戦を完遂するよう直談判し、橋本少将の「艦隊司令部の意向がどうであれ我々は任務に邁進するので安心されよ」との言葉を得てやっと安堵している。 最後の撤収は2月7日に行われた。部隊は駆逐艦18隻で7日朝ショートランドを出発した。途中空襲で磯風が被爆し引き返した。同夜、ガダルカナル島に到着しカミンボから殿軍とされた松田部隊を中心とする海軍25名、陸軍2224名を収容しエレベンタに帰還した。また駆逐艦での撤収が失敗した場合に備えてラッセル諸島に1月28日に進出していた海軍38名、陸軍352名を収容した。 第一連隊(カミンボからの収容及び警戒)一番隊:黒潮、白雪 二番隊:朝雲、五月雨 三番隊(輸送隊):時津風、雪風、皐月、文月 第二連隊(ラッセル諸島からの収容及び警戒)第10駆逐隊:風雲、夕雲、秋雲 第17駆逐隊:谷風、浦風、浜風、磯風 第8駆逐隊:大潮、荒潮 第22駆逐隊:長月(艦長の証言ではカミンボで収容)
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第三次
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「ガダルカナル島撤収作戦」の記事における「第三次」の解説
第三次作戦前夜の2月6日午後、ブーゲンビル島で第三次輸送に関する作戦会議が開かれた。第三水雷戦隊の会議に列席した第八艦隊司令部は駆逐艦の出撃を渋った。二回の撤収で既にアメリカ軍に作戦が見破られたとの懸念に加え、連合艦隊は駆逐艦の喪失激減に悩んでおり、第三次作戦は方式を変更して、駆逐艦ではなく大発などの舟艇により島伝いに脱出させようとの意見が出された。これに対し陸軍側は、田沼参謀次長、第17軍の宮崎参謀長らが海軍の作戦会議に出席し、舟艇による脱出は成功の可能性が下がるとして駆逐艦の出撃を要請した。議論が平行線を辿った時、駆逐艦「雪風」の菅間艦長と「浜風」の上井艦長から「予定通り駆逐艦でやるべき」との発言があり、臨席していた駆逐艦長全員もこれに賛同し、第三次作戦も駆逐艦隊で行う事が決定した。第17軍は会議の結果を受けても作戦当日の駆逐艦隊の行動に対する不安を拭う事ができず、宮崎参謀長は小沼治夫陸軍少将を艦隊に派遣する。小沼は第三水雷戦隊司令官橋本信太郎海軍少将(旗艦「白雪」)に作戦を完遂するよう直談判し、橋本少将の「艦隊司令部の意向がどうであれ我々は任務に邁進するので安心されよ」との言葉を得てやっと安堵している。宮崎(第十七軍参謀長)は会議の様子を陣中日誌に以下のように記録している。 午後ハ明七日朝第三次輸送ノ為出航スヘキ第三水雷戦隊ノ会議ニ参列ス、議既ニ了ラントシ結論ハ「第三次入泊ノ困難性ニ鑑ミ乗艦部隊ハ予メ舟艇、筏等ニヨリ泊地付近ニ待機シ各艦ハ小発ヲ携行シ之ヲ泛水スヘキモ陸岸ニ迎ヘニ行クハ状況之ヲ許ス場合ノミ、前項ヲ以テ本則トス」ト第八艦隊司令長官三川中将亦列席シアリ、結論低声極メテ透徹ヲ欠キ積極的ノ状ヲ認ムル能ハス、恐ラク聯合艦隊及方面艦隊ヨリ特別示達ニ接シアルナラン、之ニ実行部隊ノ参謀又ハ艦長ノ意見ハ比較的積極ニシテ上長ノ決定不明確ノ点ヲ確ムルニ努ムル状ヲ認ム、予茲ニ於テ長官ニ断リ一言全般ニ対シ今次ノ協力ヲ謝スルト共ニ明日ノ積極的行動ヲ念願シ特ニ「カミンボ」収容担任指揮官東海林大佐以下ニ熱意ヲ以テ懇望ス同夜「ガ」島ノ山本ヨリ(松田大佐ノ名ヲ以テ)一般状況緩ニシテ敵ハ依然積極的行動ニ出テサルヲ報ス、依テ早朝小沼ヲシテ第三水雷戦隊長ニ将ニ出発ノ直前其艦ニ至テ通報シ、重ネテ積極行動ヲ要望ス — 大本営陸軍部作戦部長宮崎周一中将日記 366-367ページ(昭和18年2月6日記事) 最後の撤収は2月7日に行われた。第一次作戦と第二次作戦に参加した駆逐艦江風(第24駆逐隊)は修理のため外された。第三水雷戦隊司令官と第十戦隊司令官が指揮する駆逐艦18隻は、7日朝ショートランドを出発した。途中空襲で磯風が被爆、長月に護衛されて引き返した。磯風護衛役は途中で江風に交代し、長月は撤収部隊に戻った。同夜、ガダルカナル島に到着しカミンボから殿軍とされた松田部隊を中心とする海軍25名、陸軍2224名を収容しエレベンタに帰還した。また駆逐艦での撤収が失敗した場合に備えてラッセル諸島に1月28日に進出していた海軍38名、陸軍352名を収容した。2月8日午前、撤収部隊はショートランド泊地に到着した。 第一連隊(カミンボからの収容及び警戒、指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官)一番隊:白雪〈三水戦旗艦〉、黒潮 二番隊:朝雲、五月雨 三番隊(輸送隊):時津風、雪風、皐月、文月 第二連隊(ラッセル諸島からの収容及び警戒、指揮官小柳冨次第十戦隊司令官)第10駆逐隊:風雲〈第十戦隊旗艦〉、夕雲、秋雲 第17駆逐隊:谷風、浦風、浜風、磯風 第8駆逐隊:大潮、荒潮 第22駆逐隊:長月(艦長の証言ではカミンボで収容)
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第三次(2003年)
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「ダイナマイト打線」の記事における「第三次(2003年)」の解説
打順守備選手打席打率本塁打打点盗塁備考1 二 今岡誠 右 .340 12 72 1 首位打者、ベストナイン(二) 2 中 赤星憲広 左 .312 1 35 61 打率リーグ8位、盗塁王、ベストナイン(外) 3 左 金本知憲 左 .289 19 77 18 打率リーグ16位 4 右/一 桧山進次郎 左 .278 16 63 1 打率リーグ22位 5 一/三 ジョージ・アリアス 右 .265 38 107 2 打率リーグ25位、ベストナイン(一) 6 三 片岡篤史 左 .296 12 55 1 規定打席未到達 7 捕 矢野輝弘 右 .328 14 79 1 打率リーグ3位、ベストナイン(捕) 8 遊 藤本敦士 左 .301 0 36 9 打率リーグ11位 9 投 控え選手守備選手打席打率本塁打打点盗塁右 濱中おさむ 右 .273 11 48 3 一 広澤克実 右 .306 4 15 0 二/三/遊 沖原佳典 右 .341 1 17 3 一 八木裕 右 .286 0 21 0 捕 野口寿浩 右 .271 1 5 1 ※太字はリーグトップ 広島東洋カープから金本がFA移籍で入団し打線の中核を担ったことで打線の厚みが増し、強力打線を形成。赤星、金本の2、3番コンビが「金星ライン」と呼ばれ高い得点力を誇った他、矢野、藤本の2人が下位打線であるにも関わらず3割を超える打率を残したことで他球団から「恐怖の下位打線」と恐れられた。また代打の切り札として八木が活躍、後半のチーム失速時には広澤が4番を務め、今岡が怪我で離脱した際は沖原が代役を務めるなど控えの層も厚かった。結果として140試合で728得点と1試合5点以上を獲る得点力を発揮し18年ぶりとなるリーグ優勝の原動力となった。 打順変更やポジションコンバートの他、アリアス、片岡の退団や鳥谷敬、アンディ・シーツの入団などにより多少の変更点はあったものの、この年形になった「第三次ダイナマイト打線」としての基本型は2007年頃まで引き継がれた。
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第三次 (2006年 - 現在)
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「バチカンのユーロ硬貨」の記事における「第三次 (2006年 - 現在)」の解説
新ローマ教皇ベネディクト16世の選出に伴い、2006年4月27日よりベネディクト16世の肖像画が描かれた硬貨が新たに発行されている。イタリア語で「バチカン市」を意味するCITTÀ DEL VATICANO と、12の星をかたどっている。 第三次バチカンのユーロ硬貨・裏面€ 0.01 € 0.02 € 0.05 ベネディクト16世の肖像画 € 0.10 € 0.20 € 0.50 ベネディクト16世の肖像画 € 1.00 € 2.00 € 2 の縁(へり) € 硬貨の側面部には、"2" と 6つの"*" ベネディクト16世の肖像画
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第三次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 21:03 UTC 版)
愛季は戦国大名としての地位を確立しつつあったが、天正15年(1587年)、角館城主戸沢盛安と戦った際、仙北淀川の陣中で病死したことで、均衡がくずれた。 愛季の嫡子実季が後を継ぐと、茂季の子である高季(豊島通季)は「湊安東氏の復興」を唱えて南部氏、小野寺氏と連絡し、戸沢氏とも手を結んで天正17年(1589年)2月、実季に対し反乱を起こした。史料によっては天正16年(1588年)とするものもある。 高季を擁する豊島勢は一時湊城を奪い八柳氏、永井氏などの秋田郡一帯の国人衆を組織し、実季を檜山城に籠城させるなど窮地に追い込んだ。実季側は鉄砲わずか300挺で檜山城を守り抜いている。檜山籠城は5か月あまりにおよんだが、南部氏の比内(秋田県内陸北部)侵攻に際し一旦和睦となった。この隙に実季方に赤尾津氏や羽根川氏ら由利十二頭の勢力が参戦し湊城を攻める動きを見せたことから、豊島勢は挟み撃ちに会い壊滅、湊城は再び実季の手に落ちた。豊島勢の残党は「寺内の合戦」に勝利し一矢報いたものの高季(通季)が敗走したことから四散した。 その後、戸沢・小野寺連合軍との「峰の山合戦」を経て和議がまとまり、実季は秋田郡域を確固とした支配下に置くこととなった。通季は南部氏のもとへ逃れてその家臣となった。 この戦いは惣無事令違反と豊臣秀吉に見なされたが、実季の石田三成への工作により家の存続を許され、出羽秋田5万2,000石の安堵を認められた。また、没収された領地のうち2万5,000石は太閤蔵入地とされ、実季はその代官となった。一方、通季も小田原征伐の際に南部信直に伴われて家名再興を願い出たが、増田長盛によって出仕を阻まれた。実季は、居城を湊城に移し、「秋田城介」を名乗り、安東から秋田へ改姓した。
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第三次
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「落語研究会 (落語会)」の記事における「第三次」の解説
1946年2月3日~1946年8月 旗揚げ1946年2月3日 社団法人生命保険協会講堂 会長 久保田万太郎 顧問渋沢秀雄 遠藤為春 参与正岡容 安藤鶴夫 発起人8代目桂文治 4代目柳家小さん 8代目桂文楽 第二次発起人 2代目三遊亭円歌 3代目三遊亭金馬 初代柳家権太楼 2代目桂小文治 5代目柳亭左楽 5代目春風亭柳好 幹事林家彦六 5代目古今亭今輔 「第三次落語研究会は、第一次や第二次の時のように、一部有志の集合でなく、全落語家の結束であります」(第一回プログラム) 幹部落語家(=一部有志?)の合議による選抜を廃止した。
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第三次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:59 UTC 版)
1947年(昭和22年)に八木秀次を発起人として結成される。
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第三次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:02 UTC 版)
1745年、ガルダンツェリンが亡くなると、ジュンガル部およびオイラト部族連合はたちまち分裂状態となった。1750年に息子のラマダルジャー(モンゴル語版、ロシア語版)が継いだが、庶出の異母兄に幽閉され、1752年にはホイト部長のアムルサナー(中国語版、ロシア語版、ドイツ語版)によってバートル・ホンタイジの玄孫であるダワチ(モンゴル語版、ロシア語版)が擁立された。翌1753年からドルベト部などが清に投降するようになり、1754年にはダワチと不和になったアムルサナーまでも清に投降した。 1755年、清の乾隆帝はこの機に乗じてモンゴル軍と満州軍を動員した大軍をジュンガルに進軍させ、わずか100日でタリム盆地に逃げ込んだダワチを捕獲し、ジュンガル帝国を滅ぼした。清朝は四オイラトにちなんで帰属したオイラトの人々を四部に分け、各部にハーンを置き、アムルサナーは四ハーンの一人となった。 しかし、1757年、アムルサナーがこれに不満を抱いてホンタイジと称し、鉄の菊印璽を勝手に使用して清朝に叛き、独立を宣言した。同年2月、乾隆帝はオイラトの掃滅(絶滅)命令を発した。アムルサナーは清軍の追撃を受けてカザフの中ジュズに逃げ込んだが、ザイサン湖に到着した時、天然痘を発病し、トボリスクで死んだ。 清軍は反乱に断固とした態度をとり、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。ジュンガルの残党はしばしば清軍を襲撃する抵抗などしたが、それを掃討する清軍によって持ち込まれた天然痘により、オイラトの人口が激減し、特にジュンガルの人々はほぼ全滅した。虐殺、疫病により数十万の人々が死亡したと言われている。 1759年、清はジュンガルを平定し、ジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した。 その後、1762年、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷き、ウイグル族の住む地域と合わせ、「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(ice jecen、新疆)と呼んだ。
※この「第三次」の解説は、「清・ジュンガル戦争」の解説の一部です。
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