いしだ‐みつなり【石田三成】
石田三成
石田三成
石田三成
石田三成―清涼の士
石田三成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/25 12:49 UTC 版)
石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる[1]。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
注釈
- ^ 近年では水口城は中村一氏の築城で、またその入封は甲賀衆の内紛による没落とされていることから、三成が領有することは考えられないとみられている。 もっとも、後年の小田原征伐のころには7、8万石相当の軍役を負担していた[2]
- ^ 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年(1595年)以降ともいわれており、この場合、三成はすでに佐和山19万石の城主になっている[3]。 ただし、天正18年(1590年)5月に左近の妻が伊勢亀山(関一政の本拠)に留まっている一方、同月に三成から佐竹義久への使者を左近が務めていることから、小田原征伐のころに関氏の厄介になっていた左近が三成に登用されたとするのが近年の有力説である[4]。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
- ^ 当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた
- ^ 布谷陽子は慶長3年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に毛利輝元、大坂の三奉行、小西行長、大谷吉継が三成とともに談合を行ったことが記されていることから、西軍結成計画は複数人によって早くから進行していたものとする[18]
- ^ 家臣の児玉玉三郎右衛門に秀吉に献上する脇差を譲るよう命じた書状の一節。
- ^ 三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へ、その協力が島津家のために必要であることを説得した書状の一節。
- ^ 木食応其は三成と極めて親しい仲で、三成のために大津城の開城交渉にあたった人物である。これは、木食応其が三成への加担を徳川方から責められたときの発言であるので、ある程度割り引いて考える必要があることに留意。
- ^ 本多博之は蔚山での秀秋の失態に史料的な裏付けはなく、また越前への転封については秀吉による筑前直轄領化構想のもと行われたとする[38]。
- ^ 『武功雑記』にも三将に小袖が送られる逸話が載せられているが、家康が三将の体面を気にかけるくだりがないなど細部が異なる。
出典
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、101頁。
- ^ 谷 2018, p. 41.
- ^ 二木謙一『関ケ原合戦-戦国の一番長い日-』中央公論社、1982年。
- ^ 谷徹也「総論 石田三成論」谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-277-3)p46-47
- ^ 安井 1996, p. 19.
- ^ 岡山市教育委員会 編『備中高松城水攻め築堤跡 高松城水攻め築堤公園建設に伴う確認調査』2008年、24頁 。
- ^ a b 伊藤真昭「石田三成佐和山入城の時期について」『洛北史学』4号、2003年
- ^ 谷 2018, pp. 12–13.
- ^ 渡辺世祐『佐和山城に就いて』三省堂書店、1912年。
- ^ 岩沢愿彦 著、高柳光寿博士頌寿記念会 編『戦乱と人物』吉川弘文館、1968年。
- ^ 山田貴司「加藤清正論の現在地」『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戒光祥出版、2014年、24-25頁。ISBN 978-4-86403-139-4。
- ^ 「島津家文書」二‐九七八
- ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』962号文書)
- ^ 『義演准后日記』慶長4年正月29日条
- ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』1015号文書)
- ^ 慶長3年2月7日付細川忠興宛三奉行連署書状。本来、豊臣大名への知行加増は他の大老・奉行との合意のもと行われるものであるが、この書状には「内府公被任御一行旨」とあり、忠興の加増が家康単独で決定したものであることがわかる。慶長5年7月晦日付真田昌幸宛三成書状(『真田家文書・上巻』1981年、51号文書p53)
- ^ 笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件―歴史認識形成のメカニズムとその陥穽―」『日本研究』22集、2000年。 笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版、2000年、27-46頁。
- ^ 布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討ー慶長五年七月十七日前後ー」『史叢』73号、2005年。
- ^ 谷 2018, p. 62.
- ^ 宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」『大日光』78号、2008年。
- ^ 白峰旬「フィクションとしての「問鉄砲」(パート1) : 家康神話創出の一事例(その2)」『別府大学紀要』第54巻、別府大学会、2013年2月、67-78頁、CRID 1390013021067468928、doi:10.32289/dk05406、ISSN 0286-4983。
白峰旬「フィクションとしての「問鉄砲」(パート2) : 家康神話創出の一事例(その2)」『別府大学大学院紀要』第15巻、別府大学会、2013年3月、35-53頁、CRID 1390575971020898560、doi:10.32289/gk01503、ISSN 1345-0530。 - ^ 今井, p. 222.
- ^ 跡部信「秀吉独裁の権力構造」『大阪城天守閣紀要』37号、2009年。
- ^ 戸谷穂高「天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉」『遙かなる中世』21号、2006年。
- ^ 小林厚太「豊臣氏五奉行について:特に発給文書の形式を中心に」『鴨台史学』第7号、大正大学史學會、2007年3月、101-117頁、CRID 1520009407467617280、ISSN 13490893。
- ^ 慶長3年8月5日付徳川家康宛五奉行起請文、8月8日付前田利家宛五奉行起請文、9月3日付五大老五奉行起請文、等(『武家事紀』巻第三十一、所収文書)
- ^ 堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」『國学院大學紀要』第48巻、國学院大學、2010年、341-361頁、CRID 1520009409378827008、ISSN 02865823。
- ^ 森岡榮一・太田浩司「石田三成の生涯-その-出自と業績-」『石田三成-秀吉を支えた知の参謀-』(市立長浜城歴史博物館、1999年)
- ^ 谷 2018, p. 8.
- ^ 本郷和人『戦国武将の明暗』新潮社、2015年、31-32頁。
- ^ 谷 2018, pp. 9–30.
- ^ 『大日本古文書 浅野家文書』21号文書
- ^ 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2016年、114頁。
- ^ 福岡市博物館編『黒田家文書 -本編 第1巻』 1999年、204号文書注解
- ^ 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『九州文化史研究所紀要』53号、2013年。
- ^ 早稲田大学出版部『通俗日本全史』 第13巻、1913年。
- ^ 慶長三年一月十七日付小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状(黒田基樹『近世初期大名の身分秩序と文書』2016年、320頁。)
- ^ 本多博之「豊臣政権下の筑前」『西南地域史研究』11号、1996年。
- ^ 高橋博「豊臣政権の人質政策の形成過程」『戦国史研究』第52号、戦国史研究会、2006年8月、12-22頁、CRID 1520853833747444864、ISSN 02877449。
- ^ 酒井忠勝 著、坂本徳一 訳『関ケ原合戦始末記 : 実録天下分け目の決戦』〈教育社新書 原本現代訳〉1981年。
- ^ 近藤瓶城編『史籍集覧』第26冊1902年、p66
- ^ 『明良洪範』国書刊行会1912年、p467
- ^ 某年10月7日付石田三成自筆書状(「廓坊文書」)
- ^ 谷 2018, p. 11.
- ^ 近藤瓶城編『続史籍集覧』第7冊1930年
- ^ 白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年。
- ^ 関ヶ原合戦後に斬られた石田三成。その遺骨から判明した衝撃的な事実とは渡辺大門、Yahooニュース、2021/5/15
- ^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 『没後四〇〇年特別展覧会 石田三成 ─秀吉を支えた知の参謀─』 1999年10月22日
- ^ 市立長浜城歴史博物館編集・発行 『文化財保護五〇年記念 特別展覧会 石田三成 第二章 ─戦国を疾走した秀吉奉行─』 2000年10月27日
- ^ a b 福永 1993, 1巻, p. 77.
- ^ 現在は東京国立博物館が所蔵(重要文化財、刀 無銘 正宗(名物 石田正宗) e国宝)
- ^ a b 松浦 1978, pp. 201–205.
- ^ 福永 1993, 2巻, pp. 314-315.
- ^ a b 福永 1993, 2巻, p. 122.
- ^ a b 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情
- ^ 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情
- ^ 「石田三成×滋賀県」ポータルサイト(2018年10月6日閲覧)。
- ^ 長浜市観光PRキャラクター「三成くん」(2018年10月6日閲覧)。
石田三成(佐吉)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:19 UTC 版)
本編の主人公。近江国坂田郡石田村の地侍・石田正継の三男。好物はふなずし。
※この「石田三成(佐吉)」の解説は、「石田三成の青春」の解説の一部です。
「石田三成(佐吉)」を含む「石田三成の青春」の記事については、「石田三成の青春」の概要を参照ください。
石田三成(いしだ みつなり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 23:40 UTC 版)
「猛き黄金の国 柳生宗矩」の記事における「石田三成(いしだ みつなり)」の解説
秀吉の家臣。五奉行。柳生家の親類を含めた子女を秀次事件で処刑するなど周囲から反感を買う。家康からは最後まで何もわからなかったと言われた。
※この「石田三成(いしだ みつなり)」の解説は、「猛き黄金の国 柳生宗矩」の解説の一部です。
「石田三成(いしだ みつなり)」を含む「猛き黄金の国 柳生宗矩」の記事については、「猛き黄金の国 柳生宗矩」の概要を参照ください。
石田三成(いしだ みつなり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 03:43 UTC 版)
「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の記事における「石田三成(いしだ みつなり)」の解説
島左近の主君。大名になったばかりの頃仕官させようと牢人であった左近のもとを訪れ、秀吉より与えられた知行4万石の書付を半分に裂き、片方を左近に渡し対等の同志となって欲しいと伝える。また自分は戦が嫌いであると吐露し、それ故秀吉の下、天下を統一し戦国の世を無くしたい。その為に左近の力が必要であることを説き、左近に惚れられる。
※この「石田三成(いしだ みつなり)」の解説は、「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の解説の一部です。
「石田三成(いしだ みつなり)」を含む「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の記事については、「SAKON(左近) -戦国風雲録-」の概要を参照ください。
石田三成 (いしだ みつなり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:53 UTC 版)
「GATE 7」の記事における「石田三成 (いしだ みつなり)」の解説
眼鏡をかけた細身の少年。戦国時代は豊臣側だったが、今世では徳川に味方する。またかつての盟友であった幸村にそのことを自ら告げに現れた。西陣高校に通っている。
※この「石田三成 (いしだ みつなり)」の解説は、「GATE 7」の解説の一部です。
「石田三成 (いしだ みつなり)」を含む「GATE 7」の記事については、「GATE 7」の概要を参照ください。
石田三成(いしだ みつなり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:27 UTC 版)
「のぼうの城」の記事における「石田三成(いしだ みつなり)」の解説
秀吉の側近。秀吉からは今も初名で佐吉と呼ばれる。理知に富むが、武運に恵まれず、他の家臣たちからは後方支援専門だと蔑まれている。北条攻めに置いて秀吉から2万の軍を与えられ、忍城攻略軍の総大将に任命されるが、忍城が既に降伏を決めていることは知らされていなかった。8年前に見た秀吉の備中高松城における水攻めに憧れを抱いており、事前から忍城を水攻めで落とそうと決めていた(史実としてはこれは全くのフィクションである。詳細は石田三成の項を参照)。
※この「石田三成(いしだ みつなり)」の解説は、「のぼうの城」の解説の一部です。
「石田三成(いしだ みつなり)」を含む「のぼうの城」の記事については、「のぼうの城」の概要を参照ください。
石田三成(いしだ みつなり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「石田三成(いしだ みつなり)」の解説
通称は佐吉、後に治部少輔。苗字と通称を略して「石佐」とも呼ばれていた。最初は茶坊主として仕えるが、やがて美貌と人並み外れた算術の才をもって秀吉の寵愛を得、子飼いの文官として重用される。常に笑みを絶やさない柔和な人物だが、理屈や道理に合わぬ事を極端に嫌う合理主義者で冷酷とも思える行動や発言も躊躇わない。頭巾姿に石田家の九曜紋の描かれた羽織を鎧の上に身につけており、考え事をする時には頭を掻く癖を持つ。茶坊主時代は過剰に丁寧な言葉遣いで意見を主張するため、却って反感を買っていた。本編の進行に先立ち、関ヶ原の戦いでの姿が滋賀県彦根市の展覧会で展示された。
※この「石田三成(いしだ みつなり)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「石田三成(いしだ みつなり)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。
石田三成(いしだ みつなり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 00:37 UTC 版)
「利休にたずねよ」の記事における「石田三成(いしだ みつなり)」の解説
秀吉の腹心。宗陳が秀吉の弟・秀長に話を通しておいた木像の安置の件を、死人に口無しとばかりに難癖を付ける。
※この「石田三成(いしだ みつなり)」の解説は、「利休にたずねよ」の解説の一部です。
「石田三成(いしだ みつなり)」を含む「利休にたずねよ」の記事については、「利休にたずねよ」の概要を参照ください。
石田 三成(いしだ みつなり)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/02 04:35 UTC 版)
「○○せよ!! 戦国学園生徒会」の記事における「石田 三成(いしだ みつなり)」の解説
二年生。先代生徒会長の信長、秀吉が作り上げてきた学園を守るため生徒会長に立候補する。
※この「石田 三成(いしだ みつなり)」の解説は、「○○せよ!! 戦国学園生徒会」の解説の一部です。
「石田 三成(いしだ みつなり)」を含む「○○せよ!! 戦国学園生徒会」の記事については、「○○せよ!! 戦国学園生徒会」の概要を参照ください。
「石田三成」の例文・使い方・用例・文例
石田三成と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 石田三成のページへのリンク