もうり‐てるもと【毛利輝元】
毛利輝元 (もうりてるもと)
毛利輝元
毛利輝元(もうり てるもと) 1553~1625
◇父:毛利隆元 室:宍戸隆家女、児玉元良女、羽根元泰女、井上就正女 子:毛利右近衛権少将秀就、日向守就隆
父の死後、安芸・毛利氏当主となるが若年の為、祖父元就、その死後は吉川元春、小早川隆景の両叔父“両川”の後見を受けるが、凡庸な武将であったという。羽柴(豊臣)秀吉と講和して以後は、秀吉に従い、朝鮮出兵では大将として渡海、豊臣家の五大老の一人に列せられた。関ヶ原の戦いでは石田三成や安国寺恵瓊に担がれて、西軍の総帥格になった。合戦では積極的には出なかったが、責任を取らされて防長2国に減封となった。
毛利元秋(もうり もとあき) 1552~1585→椙杜元秋
毛利元清(もうり もときよ) 1551~1597→穂田元清
毛利元綱(もうり もとつな) ????~????→相合元綱
毛利元倶(もうり もととも) 1555~1571→出羽元倶
毛利輝元
毛利輝元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:33 UTC 版)
安芸の戦国大名。中国地方全土を支配する毛利家の若き当主だが、二人の叔父、小早川隆景、吉川元春がつきっきりで後見している。輝元はおっとりしたボンボンだが、叔父二人は広島ヤクザ風である。
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毛利輝元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/29 00:55 UTC 版)
石山本願寺に加勢し水軍で信長を苦しめるが、信長が発明した鉄の船のため毛利水軍は敗北する。とても髭が濃い顔をしており、日の丸の描かれた扇子を愛用している。
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毛利輝元(声:高橋裕吾)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 23:13 UTC 版)
「決戦III」の記事における「毛利輝元(声:高橋裕吾)」の解説
中国の戦国大名。広島弁が特徴。京から追放された義昭を保護し、叔父の吉川元春、小早川隆景と共に織田包囲網に参加。中国に進出した秀吉軍と戦う。
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毛利輝元(もうり てるもと)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:25 UTC 版)
「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の記事における「毛利輝元(もうり てるもと)」の解説
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毛利輝元(もうり てるもと)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「毛利輝元(もうり てるもと)」の解説
通称は右馬頭、後に参議。毛利元就の長男・毛利隆元の嫡男で現毛利家当主。尊大な性格で、叔父にあたる吉川元春・小早川隆景に補佐されている。
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毛利輝元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 05:56 UTC 版)
中国地方の大名。家康に与し水軍を率いて信長の海外脱出を阻もうとするが、鉄甲船の反撃を受け全滅する。夢暴丸と秀吉の大艦隊が攻めて来た際に家康を見限り、秀吉に味方する。家康の降伏後は奉行として秀吉の補佐を務める。
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