穂井田元清とは? わかりやすく解説

穂井田元清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 10:24 UTC 版)

穂井田 元清(ほいだ もときよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将安芸国戦国大名である毛利元就の四男。名前は穂田元清とも表記する。


  1. ^ https://kotobank.jp/word/-1115136
  2. ^ 安芸桜尾城の支配権を保持したまま猿掛城の権限を手に入れたように、二城を有したことは毛利氏においては異例の出来事であり、元清が猿掛城を手に入れたことに関して八弟の末次元康は不満を顕わにしている。このことから、元清が吉川元春や小早川隆景を除く他の毛利一族よりも優遇されていたことが窺える。
  3. ^ 「毛利博物館蔵文書毛利家旧蔵文書諸家文書」48号
  4. ^ 石畑匡基「戦国期毛利元清の権限と地位」(所収:『古文書研究』第78号(日本古文書学会編、2014年12月)ISBN 978-4-642-08774-2
  5. ^ 文禄2年(1593年11月24日付で元清が石田三成増田長盛に宛てた請書(『相良家文書』第731号)では「毛利治部大輔元清」と署名している。また、天正16年(1588年6月2日付で毛利輝元が益田元祥に宛てた書状(『益田家文書』第406号)では元清を「穂治(=穂田治部大輔)」と記しているため、元清が名字を「毛利」に復したのは天正16年(1588年)から文禄2年(1593年)の間の事と考えられる。
  6. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、39頁。
  7. ^ 元清の他には小早川隆景吉川広家が冠と黒装束を、福原元俊口羽春良渡辺長林就長三浦元忠堅田元慶が元清と同様に冠と赤装束を、粟屋元種国司元蔵折烏帽子と風折狩衣を、その他の供衆は烏帽子直垂をそれぞれ着用し、輝元の供として従った。
  8. ^ 8人は年寄4人と奉行人4人で構成されており、年寄では元清、福原広俊渡辺長安国寺恵瓊が加わり、奉行人からは内藤元栄林就長佐世元嘉二宮就辰が加わっている。
  9. ^ 津野倫明安国寺恵瓊の虚像と実像」(初出:『北大史学』第40号(2000年)/所収:津野『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館2012年ISBN 978-4-642-02907-0
  10. ^ 『毛利家文書』第847号、天正7年(1579年)比定10月8日付 穂田元清書状。


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