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きっかわ-もとはる きつかは― 【吉川元春】



戦国武将覚書

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吉川元春(きっかわ もとはる) 1530~1586

毛利氏 少輔次郎 駿河守 治部少輔
◇父:毛利元就 養父吉川興経 室:熊谷信直女 子吉川元長元氏、経言、松寿
 安芸毛利元就二男安芸吉川氏養嗣子となるが、父元就吉川氏を討ち吉川氏家督掌握する。世に醜婦として知られた安芸有力者熊谷信直の娘を娶って、信直は大い感激して毛利氏との絆を強めたという。以後山陰方面中心各地転戦生涯75合戦に臨み、64度勝ったといわれる名将であった。又、陣中において「太平記」の筆写をする等、歴史文芸への造詣も深かった。毛利氏羽柴秀吉降伏してからは隠居していたが、九州征伐の時、秀吉希望出征し、その最中豊前小倉城病死した。


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吉川元春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/07 04:12 UTC 版)

吉川元春/毛利元春
Kikkawa Motoharu02.jpg
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄3年(1530年
死没 天正14年11月15日1586年12月25日
改名 少輔次郎(幼名)、毛利元春、吉川元春
戒名 随浪院殿前駿州太守四品拾遺海翁正恵大居士
墓所 広島県山県郡海応寺海応寺跡(吉川元春館)跡隣接地
官位 従四位下治部少輔駿河守
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 大江姓毛利氏藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:毛利元就 母:妙玖吉川国経女)
養父:吉川興経
兄弟 毛利隆元、五龍局宍戸隆家室)、吉川元春
小早川隆景二宮就辰穂井田元清
毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康毛利秀包
正室:新庄局熊谷信直の娘)
元長毛利元氏広家
禅岑法師(夭折)、女(益田元祥室)

吉川 元春 / 毛利 元春(きっかわ もとはる / もうり もとはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利元就の次男で母は吉川国経の娘妙玖。毛利氏の統治制度である毛利両川の1人。毛利隆元は同母兄、小早川隆景は同母弟。

吉川氏は藤原南家の流れを汲み、鎌倉幕府御家人として駿河に住し、数々の戦功を立て、安芸に所領を得た(詳細は吉川氏の項を参照)。室町時代には土佐の分郡守護を務めた名家である。元春は吉川国経外孫であり、その関係から天文19年(1550年)に吉川家を乗っ取る形で従兄の吉川興経隠居させ、その養子として父の政略によって送り込まれることとなる。

毛利両川の1人として、弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将でもあり、主に山陰地方の司令官として貢献した。生涯で76度の合戦に臨み、64度の勝利を収め、一度として敗れたことのない武将である、と伝えられている[1]

目次

生涯

幼少時

享禄3年(1530年)、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれる。天文9年(1540年)、尼子晴久が侵攻して来たことにより行なわれた吉田郡山城の戦いで、元服していないにも関わらずに父の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾った。

天文12年(1543年)8月、兄・毛利隆元より「元」の字を受けて元春と名乗った(異説あり)。天文16年(1547年)、独断で熊谷信直の娘新庄局と結婚する。

吉川家相続

天文16年(1547年)7月、母方の従兄の吉川興経の養子となる。これは興経と仲の悪かった叔父・吉川経世をはじめとする吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむなく承服したものであるとされている。条件は吉川興経の生命を保証すること、興経の子千法師を元春の養子として、成長後に家督を相続させることであった。天文19年(1550年)、元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。そして熊谷信直らに命じて興経とその実子である千法師を殺害して、毛利家より格上の吉川家を事実上乗っ取ってしまったのである。

以後、安芸大朝の小倉山城に入った元春であったが、より要害の地である日野山城を築き、拠点を移動している。そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当した。

大内・尼子との戦い

弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、義兄弟の仲であった陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。弘治2年(1556年)からは石見国に遠征し、尼子晴久と何度か戦うも晴久に退けられる(忍原崩れ降露坂の戦い)。弘治3年(1557年)に父が隠居すると、隆景と共に両川として毛利家を実質的に支える中核となった。

永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して大いに武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏せしめている。

しかし永禄12年(1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。布部山の戦いで尼子再興軍を撃破するも、同年には毛利家と敵対する大友宗麟の下に寄食していた大内氏の一族・大内輝弘周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を一気に攻めて自害に追い込み(大内輝弘の乱)、元亀2年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠もる末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである。しかしその後、幸盛は謀略を用いて脱走している。

織田信長との戦い

元亀2年(1571年)、父が死去すると、その跡を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。

しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、天正4年(1576年)に最後の室町幕府将軍である足利義昭が毛利氏を頼って安芸国に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(1577年)からは織田信長の命を受けた織田氏の重臣・羽柴秀吉率いる中国遠征軍が播磨国に侵攻する。元春はこれを迎撃し、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の息の根を止めた(上月城の戦い)。

その後も元春は織田軍と各地で戦い続けたが、天正8年(1580年)には三木城が落城し、城主の別所長治は自害。そして備前国の宇喜多直家や伯耆国の南条元続が織田家に与し、豊後国からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻。天正9年(1581年)には因幡国鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。

天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠もる高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。

そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反で横死を遂げた(本能寺の変)。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠して、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊を通じて毛利家と和睦、備中国から撤退を開始する。撤退後に本能寺の変を知った毛利軍は「秀吉に騙された」と激怒し、元春は羽柴軍を追撃して殲滅するべきだと主張したが、弟の隆景が反対したため、容れられなかったと言われている。

この一件により吉川家は秀吉に対する強い不信を抱くようになり、ひいては毛利家の中で親豊臣姿勢を取る恵瓊などと対立。この対立は子の広家にも遺伝のように受け継がれ、後の関ヶ原合戦徳川家康率いる東軍と内応する遠因になったとも言われる。

最期

天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。

その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(1585年)、隆景は積極的に秀吉の四国征伐に参加したが、吉川軍は元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。

天正14年(1586年)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら九州征伐に参加した。しかしこの頃、元春は化膿性炎症とも言われている)に身体を蝕まれていた。そのため、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。享年57。

人物・逸話

  • 元春という名は、吉川元春の先祖で、安芸に土着した毛利氏の勢力拡大に腐心した毛利元春と同名である。このことからも父・元就が元春に掛けた期待がうかがえる。[要出典]
  • 父・元就をしてその勇猛ぶりは、「我は戦では元春には及ばぬ」と言わしめたとされる。また、元就は元春が単なる勇将というだけでないことも見抜いており、「眼東南を見て、心西北にあり」と評したという。[要出典]
  • 熊谷信直の不器量な娘を娶ったとされる逸話が有名である。勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒めるためであったともされている。ちなみに夫婦仲は円満で、元春とその娘との間には吉川元長吉川広家が生まれている。子としては他に毛利元氏もいる。ただ、武田光和に嫁いだ信直の妹は絶世の美人ということであり(この妹を安芸武田氏が離縁した事も熊谷氏が安芸武田氏を離反する原因となっている)、叔母と姪で容色がそこまで違うのかという疑問もあり、本当に不器量であったかどうかは不明である。これに似たような話に「諸葛孔明選び」がある。
  • 吉川広家が存命中に成立した可能性がある『安西軍策』には元春夫人(熊谷氏)の器量が悪かったとの記述はない。しかし香川正矩の『陰徳記』に「器量が悪い」との記述が現われ、宣阿の『陰徳太平記』に継承されている。一説によると疱瘡を病んだせいで顔が醜くなり、信直はこれを理由に婚約を辞退しようとしたが、元春の側がそのような理由で約束を違えるのを潔しとせず、結婚したとも言う。なお、明智光秀高橋紹運にも同様の逸話があり、真実については不明と言う他ない。
  • 尼子氏討伐の陣中で『太平記』40巻を書写し、これは現在に『吉川本』として伝わっている。
  • 負け知らずと言われた彼であるが、唯一の負けとして存在しているのが第二次月山富田城攻めである。塩谷口を攻めようとした所、茶臼山に伏兵を置いていた尼子武将秋上久家の奇襲攻撃により敗走している。ただし局地戦であり、毛利軍は月山富田城を落としているため負けには当たらないとする見方もある。(毛利元就もこの城が難攻不落だという事を熟知しており無理な力攻めは禁止していた)
  • 幼少の頃、弟の隆景と雪合戦を行なった。その際元春は自ら仲間5人を引き連れて突撃し、勝利を得るという荒武者振りを見せたという。しかし、次の戦いでは隆景の策によっておびき出され、側面を突かれて敗れたという。[要出典]
  • 羽柴秀吉と橋津川で対陣したとき、元春は橋津川の橋を落として背水の陣を敷いた。このため秀吉は、「死兵に当たるべからず」と恐れて撤退したという。また、秀吉の家臣・宮部継潤は「吉川のある限り、毛利の武運は衰えまい」と述べたとされる。[要出典]
  • 黒田如水が用意した鮭料理を、病(化膿性炎症)に悪いと知りながら、断わるのは無礼であるとして食べたため、病状が悪化して死去したと言われている。これは吉川元春の義理堅さを表すエピソードとして語られている。[要出典]
  • 秀吉の中国戦線撤退時に、実際に追撃をしようと進言したのは実は長男の元長と3男の広家で、元春自身は主君・輝元や弟・隆景同様に秀吉の追撃をやめさせたとも言われている。[要出典]

  1. ^ 実際には月山富田城の戦いにおける秋上久家(人物・逸話の項参照)や降露坂の戦い等、敗北した戦もない訳では無い。これは中国の呉起の戦績に近く、その戦績になぞらえたものであるとの指摘もある。


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