織田信長とは? わかりやすく解説

織田信長

作者坂口安吾

収載図書織田信長
出版社富士見書房
刊行年月1987.5
シリーズ名時代小説文庫

収載図書坂口安吾全集 6
出版社筑摩書房
刊行年月1991.5
シリーズ名ちくま文庫

収載図書十四人の信長
出版社講談社
刊行年月1991.11


織田信長

作者海音寺潮五郎

収載図書十四人の信長
出版社講談社
刊行年月1991.11

収載図書武将列伝戦国揺籃
出版社文藝春秋
刊行年月2008.4
シリーズ名文春文庫


織田信長

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十六人
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


織田信長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 23:11 UTC 版)

織田 信長(おだ のぶなが)は、日本戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名。戦国の三英傑の一人。


注釈

  1. ^ a b 余語正勝が天正11年6月2日1583年7月20日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。余語正勝については不明だが、兄弟の余語勝久(勝直)が信長に仕えていたことから、正勝も信長の家臣だったと考えられる。
  2. ^ a b 信長の誕生日は、ルイス・フロイスの言に基づき5月11日ないし12日であるとする説と、天野信景『塩尻』等に準拠して5月28日であるとする二つの説がある[6]
  3. ^ 天正10年9月11日柴田勝家夫妻が妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  4. ^ a b 信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[360]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[360]。歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[360]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[360]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[360]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[360]。このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[360]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[360]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 詳細は#生涯を参照。
  6. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  7. ^ a b c d 詳細は#人物を参照。
  8. ^ 詳細は#信長の政権構想を参照。
  9. ^ 詳細は#朝廷政策を参照。
  10. ^ a b 詳細は#「凶逆の人」から勤王家へを参照。
  11. ^ a b 詳細は#革新者か否かを参照。
  12. ^ 異母兄として織田信広がおり[7]、信広の同母弟・秀俊は系図上は信長より後に生まれたこととなっているものの、信長より先に生まれた可能性も否定しがたい[7]。これらは庶流の扱いとなる。
  13. ^ 那古野城譲渡の時期は、通説では天文4年とされているものの、実際にはかなり遅く、天文13年頃の可能性もある[14]
  14. ^ 井原今朝男の説によれば、道三が名跡を継承した美濃斎藤氏は室町時代の公家である甘露寺親長の妻(南向)を出し、その孫にあたる娘が斎藤氏の口入(仲介)で尾張の織田兵庫頭の室になったことで、甘露寺家を介して両家が縁戚になったことが確認され(『親長卿記』文明15年9月17日条・明応4年4月16日条・21日条)、斎藤氏と織田氏の婚姻には伝統的背景があると解される[19]
  15. ^ この信秀の死没については、その時期にいくつかの説があったものの、2011年現在は天文21年とするのが定説となっている[20][21]
  16. ^ 織田信秀の発給文書の終見は天正19年(1550年)11月朔日付の祖父江金法師(津島郷士)宛の跡職安堵状で、12月になると代わって信長が安堵状を出すようになるため(同年12月23日付笠寺如法院座主宛別当職安堵状)、天文19年末の段階で信秀が病床にあって信長への事実上の代替わりが行われていたとみられる[22]
  17. ^ 『信長公記』には、信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたという逸話が記録されている[23]
  18. ^ 信長が上総介を名乗った理由は、今川氏の代々の当主が上総介を称したことを意識したとも考えられる[25]。信長が上総守を称したのはごく短期間であるものの[26]、これについても今川氏の称する上総介よりも「上総守」が上位であると信長が考えたのではないかと推測する説もある[26]
  19. ^ 一般に「信行」として知られているが、同時代史料で確認できる名前は、「信勝」あるいは「達成」・「信成」である[27]。以降、本文では「信勝」で統一。
  20. ^ 通説では天文23年7月12日に斯波義統殺害が行われたとされてきたが、『定光寺年代記』の記述によれば、天文22年の7月12日が正しいと考えられるという[35]
  21. ^ かつての通説では弘治元年の出来事とされてきたが、天文23年が正しいと考えられる[36]
  22. ^ このとき自害した守護代・織田彦五郎については史料から実名を確定できない[37]。下村信博は、この守護代について単に「織田彦五郎」、あるいは「織田彦五郎信友」と記載している[36]。一方、柴裕之は、彦五郎について、文書に残る「大和守勝秀」と同一人物だと比定している[37]
  23. ^ なお、信光と確執のあった林秀貞が信光暗殺に関与していたという説もある[38]
  24. ^ 道三残存軍が織田軍へ合流し、美濃国譲り状を末子である斎藤利治により信長へ直接渡したとされる。
  25. ^ 『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという。
  26. ^ 天野は同年に斎藤義龍と長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛しているのも同様の趣旨とみている[45]
  27. ^ 池上裕子は、このときに今川氏が3万人以上の軍勢を動員できたとは考え難く、多く見積もっても2万5千人程度しか動員していないであろうと述べる[46]
  28. ^ この戦いにおける信長の勝因は、1980年頃までは奇襲作戦の成功にあるとされていた[50]。その後、『信長公記』の記述をもとに、信長は奇襲ではなく、正面攻撃を行ったとする藤本正行の説が広く知られるようになった[50][51]。しかし、2006年には『甲陽軍鑑』の記述をもとに黒田日出男が奇襲説を再評価し、藤本正行とのあいだで論争が行われている[50]
  29. ^ 松平氏の離反の時期については、桶狭間の戦いからしばらくは松平氏と信長の戦いが継続していたとするのが通説であった[52]。しかし、研究の進展によって、桶狭間の戦い直後に松平氏は今川氏を裏切ったとする見解も有力となっている[52]。その一方で、松平元康(徳川家康)の岡崎城帰還は信長による三河侵攻を警戒する今川氏真の方針に沿うものであったが、長尾景虎(上杉謙信)の北条領侵攻をきっかけに氏真の方針が対織田戦から対上杉戦(北条氏救援)に変化したことが松平氏離反のきっかけとなったとする説もある[53]
  30. ^ 近年、従来の清州同盟の成立とした出来事は織田・松平間の停戦・和睦協定の域を出ず、後世知られる「清州同盟」の成立は信長の娘・五徳と家康の嫡男・信康の婚姻関係が結ばれた永禄10年まで下るとする新説も出されている[55]
  31. ^ 犬山落城の時期は永禄7年とするのが通説であったが、横山住英が新出史料をもとに永禄8年のことであると論じており[57]、柴裕之もこれを支持している[58]
  32. ^ なお、信長は、道三の近親の斎藤利治を取り立て、佐藤忠能の養子として加治田城主に命じ、領地と家臣団(加治田衆)を与え、道三亡き後の斎藤家跡取りとしたとの考察がある[60]。この人物は、正式な美濃斎藤家として織田家内でも親族として重きをなす。正室の姉である濃姫養母となり二代目後継者織田信忠付き側近(重臣)ともなっている[61]
  33. ^ a b 浅井長政とお市の婚儀がいつ行われたかは正確には不明であり決定し難いが、2017年時点では永禄4年前後であるとする見解が有力である[62]
  34. ^ この際、義継らは足利義栄の擁立を図ったとも言われるが、実際には、義継らにその意図はなかったと考えられる[63]。義栄擁立を計画したのは、阿波三好家の篠原長房らであった[64]
  35. ^ 浅井長政とお市の婚姻も六角氏や幕臣の和田惟政らによる構想とする説もある[68]
  36. ^ 信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が、室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている(村井祐樹「幻の信長上洛作戦」『古文書研究』第78号、2014年)。これを受けて、信長は足利義栄側に離反した美濃斎藤氏と近江六角氏との対立が避けられなくなり、また大和方面からの迂回も視野に入れて三好三人衆と対立する松永久秀や柳生宗厳などの大和の勢力とも関係を持つようになった[71][72]。ただし、同時に信長が事前に龍興に約束した軍勢通過のための人質の話が纏まらなかったのが衝突の原因とする指摘もある[73]
  37. ^ 新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・梅村良澤二扶助都合弐千百八捨四貫文
  38. ^ 信長の命により佐藤忠能の養子とし八重緑亡き次女・正室院を正室とし、二代目加治田城主として親衛隊加治田衆家臣団を率いる美濃斎藤家跡取りとした。
  39. ^ 稲葉山城陥落は永禄10年のことであるとする説が有力だが、永禄7年のことであるとする見解もあり、研究者のあいだで議論となっているという[75]
  40. ^ 全くの新地名の考案ではなく、木曾川の北(陽)にあることからの美称として岐陽などと並んで以前から一部の学僧・禅僧の間では使われていた。それを信長が一般化させたものである[77]
  41. ^ これらは綸旨女房奉書およびその添状である万里小路惟任によって伝えられた[82]
  42. ^ 六角氏は過去2度にわたる室町幕府による六角征伐の時も観音寺城を放棄して甲賀郡に後退して、幕府軍の撤退後に観音寺城を取り返しているため、この時も同じ戦略を取ったと言える[87]。だが、京都へ撤退した幕府軍と異なり、京都への通路を必要とした信長は南近江を織田領国に編入・統治を開始した[88]
  43. ^ のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている[92]
  44. ^ これに対して、山城・摂津・大和・河内などに対して出された信長発給文書は将軍である義昭の意を奉じたことを意味する「仍執達如件」の文言が含まれており、織田領国と幕府支配圏は明確に区分されていた。なお、この区分が無くなるのは、信長と義昭の決別が明確になった元亀4年3月以降のことになる[96]
  45. ^ 中には幕府の裁許を得ながら、その内容を承認する朱印状を信長に求める者もいた。久野雅司はその背景として明応の政変以降、京都では度重なる政変や将軍の追放が行われた結果、今後も同様の事態――義昭と信長の決裂によって信長が義昭に追討されたり反対に義昭が信長に追放されたりして排除された側の裁許が無効になる可能性――を予測して両方から裁許を得たいと考える者がいたと指摘する[105][106]
  46. ^ 当初は村井・明院の他に木下秀吉や丹羽長秀、佐久間信盛が京都の奉行を務め、後に中川重政も加わる。永禄年間には秀吉と長秀の発給文書が多いが、戦線の拡大と共に秀吉が近江に派遣されるなどの異動が相次ぎ、元亀年間には村井貞勝・嶋田秀順・原田直政が京都の奉行を務める[108]
  47. ^ 関白・二条晴良が勧修寺晴右の所領・加賀国井家荘を押領した際には、非は明らかに晴良にあるために正親町天皇からも押領を止めるように女房奉書が出されていたにも関わらず、義昭は「晴良が越前に下ってまで自分を支持してのに対して、晴右は足利義栄に協力的であった」として晴右の訴えを退けた(『言継卿記』元亀元年3月20日条)[115]。また、元亀元年から始まった伊勢神宮禰宜職相論(三の禰宜であった松木房彦死去を受けてその後任として、神宮伝奏の柳原資定が渡会貞幸を、祭主の藤波康忠が松木堯彦を推挙して争った件)においても、朝廷から調停を依頼された義昭が度々意見を変えて議論を長引かせた上、藤波康忠から抗議を受けると一旦出した裁決を取り消して評定を行った政所執事の摂津晴門を処分している[116](これは将軍は奉行の評定による裁決には従うこととした『殿中御掟』にも違反している[117])。
  48. ^ 信長は幕府の訴訟の遅滞や義昭による恣意的な裁許に不満を漏らしていたという(『尋憲記』元亀4年2月29日条)[118]
  49. ^ なお、この出兵について若狭国の武藤友益の討伐を口実としていたが、久野雅司は武藤が若狭武田家中でも反義昭の立場を取っていたために、義昭の命令によって武藤討伐軍を起こされ、信長もその命に従って軍を動員したとする[125]。ただし、若狭は当時は朝倉義景の制圧下にあり、武藤友益も義昭による武田家再興に反対する親朝倉派であったことから、結果的に朝倉勢力と衝突することになったとしている[125]
  50. ^ ただし、堀新は実際に講和を申し出たのは朝倉側であるとし[130]、片山正彦は信長が有利な状況で義景との和睦の合意が成立しかけていたが、延暦寺が和睦に反対し続けたために勅命が必要になったとする[131]
  51. ^ 久野雅司もこの柴の説を支持しており、さらに具体的に元亀3年12月に異見書が発給されたと推定している[143]。平井上総も柴の説を肯定的に取り上げている[144]
  52. ^ 『細川家記』によれば、上野秀政は義昭の「出頭第一」の「寵臣」と評価され、比叡山焼き討ちの際にも義昭に信長の排除を進言して、信長を擁護した細川藤孝と義昭の御前において論争をしたとされる。また、先代の上野信孝も足利義輝の側近として三好長慶の排除を計画した人物として知られており、久野は義昭への幕府権力の一本化と幕臣と信長の間で起きていた所領安堵など統治方針を巡る対立の解消を目的として信長の排除を画策したと考えている[148]
  53. ^ 例えば、鴨川達夫『武田信玄と勝頼』[153]、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009 など。
  54. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている[163]。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある[164]
  55. ^ この際の火縄銃の数については従来、3,000挺であるとされてきたが、藤本正行が『信長公記』の自筆本の検討をもとに、1,000挺程度が正しいとする説を提唱したことにより、通説には疑問が持たれるようになった[175]。しかし、平山優が『信長公記』の系統研究を通してやはり3,000挺が正しいと主張しており、論争となっている[175]。この鉄砲部隊がいわゆる「三段撃ち」(部隊を3隊に分け、輪番で射撃させることで、火縄銃を連射可能とする手法)についても、実在を否定する見解が有力であったが、この点についても連続射撃を行う試みはあったとする説が提唱され、論争となっている[175]。長屋隆幸によれば、こうした論争の原因は、信頼できる一次史料が不足していることにあり、長篠の戦いの明確な実態は把握し難い[176]
  56. ^ 歴代の足利将軍は在任中に権大納言と右大将を兼ねて内大臣に進む慣例があったが、足利義晴(当時、権大納言のみ)は将軍職を義輝に譲って引退しようとしたため、後奈良天皇近衛稙家(義晴の義兄)の説得で右大将に任官した上で引き続き後見として幕政に関与した[187]
  57. ^ 興福寺の別当は家柄と経歴を満たした者の中から藤氏長者が選定し、天皇がそれに従って任命する手続であったが、今回の相論は最初に立候補した兼深の経歴が資格を満たしていないと反発した学侶たちが元別当の尋円を擁立したものであった[195]。信長が晴良に充てた書状では「近代の寺法」に従って任命し、「叡慮を掠め取る」ことの無いように述べて、暗に正親町天皇が資格を満たしていない兼深を任命することを回避することを求めたものであった[196]。しかし、南北朝時代末期の永徳年間(1380年代)に資格を満たさずに任命された先例を見出して朝廷に報告していた[197]兼深は「近代の寺法」に永徳の先例は含まれると解釈していた[198]。更に兼深の姉である広橋国子は後奈良天皇の寵愛を受けて正親町天皇の異母妹である聖秀女王を生んでおり、相論以前より正親町天皇が晴良の相談せずに兼深を将来興福寺の別当にすることを約束していた形跡がある[199]。信長は正親町天皇が藤氏長者に諮ることなく興福寺別当に関する叡慮を示している事態は想定していなかったと思われる。
  58. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月に信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏に共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  59. ^ この間に天正6年1578年10月、月岡野の戦いが勝利となり、信長は全国大名へ文を送り、京でも大々的に宣伝し、織田家の強さを知らしめた。
  60. ^ 飛騨国司となった姉小路頼綱は父・姉小路良頼より家督を継ぎ、1570年の上洛時より信長と客将・親族、上杉謙信没後の1578年頃より濃姫の姉妹(姉小路頼綱正室)関係の親族・同盟を結んでいる。
  61. ^ 従来は、『信長公記』の記述を根拠に、村重が妻子を見捨ててひそかに有岡城から逃げ出したものだと考えられてきた[216]。しかし、天野忠幸によれば、乃美宗勝宛の村重の書状から、村重の尼崎城移動には馬廻を伴っており、反撃を期したものであったと考えられるという[216]
  62. ^ なお、多聞院日記によると、信長が御所を進上した当初の相手は誠仁親王ではなく、信長の猶子の邦慶親王の方だったようである[219]
  63. ^ a b 滝川一益の任を“関東管領”とするのは『甫庵太閤記』『武家事紀』による。『信長公記』では「関八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」と呼んでいる[239]
  64. ^ 「いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」(『天正十年夏記』5月4日条、立花京子『信長権力と朝廷』掲載)
  65. ^ この時の本膳料理献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される[254]
  66. ^ 一般に信長は光秀の接待役の任を解いたと言われる[258]。しかし、金子拓によれば史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[258]
  67. ^ この少人数での行動は、配下の武将らに出陣を命じていたからであり、信長は完全に油断していたと考えられる[263]。だが、信長が少人数で移動することは珍しくなく、決して油断はしていなかったとする見方もある[264]
  68. ^ 平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された[275]
  69. ^ 例えば、北条早雲は、敵対する関戸吉信方を女性・子供も含めて虐殺した[285]。伊達政宗も同様の行為をしている[285]
  70. ^ なお、信長の残虐性については次の逸話も著名である。天正9年(1581年)4月10日、信長は琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは、桑実寺に参詣に行くなどと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、すべて成敗した。また侍女たちに対する慈悲を願った桑実寺の長老も、やはり成敗されたという(『信長公記』巻十四[287])。フロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれており、こちらは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうちひとりかふたりは寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある[288]
  71. ^ 『信長公記』では単に「首」とあるだけで頭蓋骨であったとは書かれていない。尾ひれがついて髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話もあるが、俗書にしか伝わらない。
  72. ^ でかためて金泥などを塗ったもの。
  73. ^ 滝川一益は近江出身とはいえ、天文年間という早い時期から信長に従っているため譜代と同一視できる[294]
  74. ^ その一例として、荒木村重は、毛利攻めの司令官の地位を羽柴秀吉に奪われたことに強い不満を持ち、そのため、信長との敵対に踏み切ることとなった[294][295]
  75. ^ 中世における馬、鷹の献上行為には政治的な意味合いが込められていた。室町期の馬、鷹の献上行為は武家領主が足利将軍から守護、探題職など支配権を公認された際の答礼として慣例化していた。戦国期には上級領主権力と結びつき、領国支配の公認を得るための狙いを持った、極めて政治的色彩を帯びた行為であった[312]。特に鷹は英雄、武威、権力の表徴と認識されていた[313]
  76. ^ なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の楠長諳の筆によるものである[344]
  77. ^ なお、後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』には、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている
  78. ^ なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  79. ^ 竹の紙を彩色画に使った例としては、他に高野山持明院蔵「紙本著色浅井長政像」(重要文化財)がある。
  80. ^ 同じ永徳筆の束帯姿の肖像の方に近かった。
  81. ^ 武を用いて、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊にする、の七つの徳を実現するもの。
  82. ^ 従来、元亀年間の信長と反信長勢力の争い(いわゆる元亀争乱)においては、将軍足利義昭こそが反信長勢力の盟主だと考えられてきた[370]。しかし、実際には三方ヶ原の戦いまでは、義昭は信長を支持していたということを柴裕之が明らかにしている[370]。そのため、信長が「天下人」となったのは、当初からの信長の政権構想によるものではなく、元亀争乱の結果による成り行きであったと考えられる[370]
  83. ^ 今谷明『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 978-4061490963 のち講談社学術文庫に再録、2002年 ISBN 978-4061595613
  84. ^ 平井上総は協調説に、谷口克広は対立説に分類している。
  85. ^ 厳密には、朝廷側は信長との協調を図ったが、信長が朝廷との協調を否定したという説として、藤井の説は分類されている[388]
  86. ^ 後土御門天皇以降、正親町天皇まで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった。後花園天皇までの中世の歴代天皇は譲位して上皇ないしは法皇となり、治天の君として院政を敷くのが基本であった。しかし天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった(羽柴秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている)。このため戦国時代になると朝廷も室町幕府も財政難に陥ったために譲位に必要な費用を工面できなかったため、たまたま後土御門天皇以降の天皇は三代続けて天皇在位のまま崩御したのであって、譲位はむしろ旧来の朝廷の慣行に復すると考えられていた。
  87. ^ 研究上、かつては一向一揆との対決こそが近世統一権力を生み出した原動力であるとする説が有力であったが、現在では一向一揆との対立にそれほどの重要性はないとする見解が主流となっている[402]
  88. ^ 1575年5月4日付けのフロイスの未刊書簡には、これらの道普請が尾張・美濃・近江・山城・摂津・河内・三河・遠江の8ヵ国で行われたことが書かれている(『完訳フロイス日本史 織田信長篇I 第34章』)。このような道路は、征服された諸国に、都合がつくかぎり建設された。(『完訳フロイス日本史 織田信長篇II』第55章
  89. ^ 「永禄十二年付上京宛て精銭追加条々」『増訂 織田信長文書の研究』所収。
  90. ^ 池上裕子[430]など。
  91. ^ 信長のこと。
  92. ^ 正一位に叙された者は贈位も含めて現時点で信長が最後であり、以降は叙位の例がない。
  93. ^ 脇田修、1987、『織田信長 中世最後の覇者』、中央公論社〈中公新書〉 ISBN 9784121008435
  94. ^ 庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。
  95. ^ 秋山は劇中劇「連続時代劇 織田信長」の信長を演じる本人役としての出演だが、クレジットではあくまで「織田信長役」となっている。

出典

  1. ^ a b 岡田正人 1999, p. 162.
  2. ^ 信長の生涯を記録した男の執念 本能寺の変440年”. 産経新聞 (2022年6月2日). 2022年9月13日閲覧。
  3. ^ a b c 堀新 2014, p. 27.
  4. ^ 平井上総 2017, p. 24.
  5. ^ a b c 立石了 2018, p. 110.
  6. ^ 下村信博 2011b, p. 241.
  7. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 2.
  8. ^ a b c d 下村信博 2011b, pp. 241–242.
  9. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 6–9.
  10. ^ a b 下村信博 2011a, pp. 209–239.
  11. ^ 小林宏行 (2014年9月22日). “信長生誕地は名古屋近郊「勝幡城」 有力説に地元わく”. 大ナゴヤを行く. 2022年6月29日閲覧。
  12. ^ “信長生誕地「勝幡城説」。播磨中京大教授が愛西で講座”. 中日新聞. (2014年7月4日). オリジナルの2015年5月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150508182752/http://edu.chunichi.co.jp/?action_kanren_detail=true&action=education&no=4757 2015年5月9日閲覧。 
  13. ^ 小和田哲男 (2018年8月16日). “戦国武将と城<織田信長と城>第1回 信長生誕地は那古野城か勝幡城か”. 城びと. 公益財団法人日本城郭検定協会. 2018年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月2日閲覧。
  14. ^ 下村信博 2011b, p. 242.
  15. ^ 池上裕子 2012, p. 4.
  16. ^ 谷口克広 2017, pp. 126–127.
  17. ^ a b 池上裕子 2012, p. 3.
  18. ^ a b c 下村信博 2011b, pp. 242–243.
  19. ^ 井原今朝男 2014, p. 203.
  20. ^ 柴裕之 2011, p. 30.
  21. ^ 村岡幹生 2011, p. 22.
  22. ^ 柴辻俊六 2016, p. 117.
  23. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 3–4.
  24. ^ 柴裕之 2011, p. 32.
  25. ^ 木下聡 2011, pp. 339–340.
  26. ^ a b 木下聡 2011, pp. 355.
  27. ^ a b c d e 下村信博 2011b, pp. 243–245.
  28. ^ 村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」(初出:『愛知県史研究』15号(2011年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P314-324.
  29. ^ 小川雄「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」(初出:『武田氏研究』47号(2013年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P285-286.
  30. ^ a b 池上裕子 2012, p. 6.
  31. ^ 下村信博 2011b, pp. 245–246.
  32. ^ 下村信博 2011b, pp. 245–247.
  33. ^ 池上裕子 2012, pp. 5–6.
  34. ^ 池上裕子 2012, p. 13.
  35. ^ a b c d e f 下村信博 2011b, pp. 247–249.
  36. ^ a b c d e f g 下村信博 2011b, pp. 250–251.
  37. ^ a b 柴裕之 2011, pp. 27–28.
  38. ^ 村岡幹生「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」(初出:『愛知県史研究』15号(2011年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P331-332.
  39. ^ 下村信博 2011b, pp. 254–255.
  40. ^ a b c d e f 下村信博 2011b, pp. 254–256.
  41. ^ 下村信博 2011b, pp. 244–245.
  42. ^ 下村信博 2011b, pp. 253–254.
  43. ^ 池上裕子 2012, p. 14.
  44. ^ a b c 村岡幹生 2011, pp. 20.
  45. ^ a b 天野忠幸 2016a, pp. 29–33.
  46. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 15.
  47. ^ a b 池上裕子 2012, p. 16.
  48. ^ 平野明夫 2016, pp. 11–12.
  49. ^ 池上裕子 2012, pp. 16–19.
  50. ^ a b c 平野明夫 2016, pp. 3–5.
  51. ^ 藤本正行 2003, pp. 73–111.
  52. ^ a b 平野明夫 2014, pp. 69–72.
  53. ^ 丸島和洋「松平元康の岡崎城帰還」『戦国史研究』76号、2016年。
  54. ^ a b 池上裕子 2012, p. 20.
  55. ^ 柴裕之「室町幕府・織田政権との政治関係」黒田基樹 編著『徳川家康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 3〉、2023年5月。ISBN 978-4-86403-473-9。P225-226・231-233.
  56. ^ 池上裕子 2012, p. 24.
  57. ^ 横山住雄 2011.
  58. ^ a b 柴裕之 2011, p. 34.
  59. ^ 柴裕之 2017a, p. 75.
  60. ^ 富加町史編集委員会 1980, p. 227.
  61. ^ 富加町史編集委員会 1980, p. 229.
  62. ^ a b c 金子拓 2017a, pp. 20–23.
  63. ^ a b 天野忠幸 2016a, pp. 54–60.
  64. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 70–72.
  65. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 60–61.
  66. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 66–67.
  67. ^ a b c 柴裕之 2017b, pp. 254–258.
  68. ^ 久保尚文 2015, p. 87.
  69. ^ 池上裕子 2012, p. 33.
  70. ^ a b c 柴裕之 2017b, pp. 258–264.
  71. ^ 久野雅司 2019b, pp. 201.
  72. ^ 久野雅司 2019c, pp. 224–225.
  73. ^ 久野雅司 2019c, pp. 291–292.
  74. ^ 「堂洞合戦 関・加治田合戦、関 落城」『富加町史』 下巻 通史編、富加町、1980年、198-199頁。 
  75. ^ 池上裕子 2012, pp. 20–25.
  76. ^ 池上裕子 2012, pp. 25–26.
  77. ^ 服部英雄 2000, p. 226.
  78. ^ 林屋辰三郎 2005, p. 105.
  79. ^ 池上裕子 2012, pp. 56–60.
  80. ^ 池上裕子 2012, pp. 26–27.
  81. ^ a b 柴裕之 2017b, pp. 263–264.
  82. ^ a b 藤井譲治 2011, pp. 19–24.
  83. ^ 久野雅司 2015a, p. 17.
  84. ^ a b 久野雅司 2015a, p. 18.
  85. ^ a b 池上裕子 2012, p. 35.
  86. ^ 天野忠幸 2016a, pp. 86–89.
  87. ^ 村井祐樹 『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』 ミネルヴァ書房、2019年 ISBN 978-4-623-08639-9 P284-285.
  88. ^ 水野嶺「織田信長禁制にみる〈幕府勢力圏〉」『戦国末期の足利将軍権力』吉川弘文館、2020年 ISBN 978-4-642-02962-9 P21-28.(初出:『織豊期研究』一八、2016年)
  89. ^ 池上裕子 2012, p. 36.
  90. ^ 久野雅司 2015a, pp. 20–21.
  91. ^ 久野雅司 2015b, p. 251-252.
  92. ^ 村川浩平 2000, p. 50.
  93. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 38.
  94. ^ 池上裕子 2012, pp. 39–40.
  95. ^ 柴辻俊六「織田政権下の堺と今井宗久」『信濃』65巻8号(2013年)/所収:柴辻『織田政権の形成と地域支配』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-206-3
  96. ^ a b 水野嶺「織田信長禁制にみる〈幕府勢力圏〉」『戦国末期の足利将軍権力』吉川弘文館、2020年 ISBN 978-4-642-02962-9 P21-32.(初出:『織豊期研究』一八、2016年)
  97. ^ 臼井進 2015, pp. 206–211.
  98. ^ 藤井譲治 2011, pp. 36–37.
  99. ^ 水野嶺「幕府儀礼にみる織田信長」(初出:『日本史研究』676号(2018年)/所収:水野嶺『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02962-9)2020年、P51-68.
  100. ^ 水野嶺「義昭期幕府における織田信長」『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02962-9(新稿)P82-85.
  101. ^ 久野雅司 2019c, pp. 299–300.
  102. ^ 久野雅司 2019g, pp. 368.
  103. ^ 久野雅司 2019e, pp. 79.
  104. ^ 久野雅司 2019g, pp. 356–357.
  105. ^ 久野雅司 2019e, pp. 78.
  106. ^ 久野雅司 2019c, pp. 261.
  107. ^ 久野雅司 2019e, pp. 80.
  108. ^ 久野雅司 2019g, pp. 354–359.
  109. ^ 久野雅司 2019e, pp. 79–80.
  110. ^ 久野雅司 2019g, pp. 352–359.
  111. ^ 久野雅司 2019f, pp. 104–105.
  112. ^ 久野雅司 2019a, pp. 183.
  113. ^ 久野雅司 2015b, pp. 265–266.
  114. ^ a b 久野雅司 2019a, pp. 184.
  115. ^ 久野雅司 2019e, pp. 76.
  116. ^ 久野雅司 2019f, pp. 88–97.
  117. ^ a b 久野雅司 2019f, pp. 98–100.
  118. ^ 久野雅司 2015b, pp. 272.
  119. ^ 谷口克広 2002, pp. 68–70.
  120. ^ 谷口克広 2002, pp. 70–72.
  121. ^ a b c 谷口克広 2002, pp. 72–75.
  122. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 40–41.
  123. ^ 久野雅司 2015a, p. 30.
  124. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 67–69.
  125. ^ a b 久野雅司 2019d, p. 137-140.
  126. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 70–72.
  127. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 72–74.
  128. ^ a b c d e 池上裕子 2012, pp. 74–75.
  129. ^ 林屋辰三郎 2005, p. 143.
  130. ^ 堀新「織田信長と勅命講和」(歴史学研究会 編『シリーズ歴史学の現在7 戦争と平和の中近世史』青木書店、2001年
  131. ^ 片山正彦「「江濃越一和」と関白二条晴良」(初出:戦国史研究会 編『戦国史研究』53号(2007年)/所収:片山『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年)
  132. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 78–79.
  133. ^ 久野雅司 2019a, pp. 185–190.
  134. ^ 鴨川達夫 2007, pp. 174–177.
  135. ^ 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007
  136. ^ 池上裕子 2012, p. 83.
  137. ^ 久野雅司 2019c, pp. 285-286・313-314.
  138. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 84–85.
  139. ^ 谷口克弘著、信長と将軍義昭p116
  140. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 86–87.
  141. ^ a b 谷口克広著、信長と将軍義昭p117
  142. ^ a b c d e 柴裕之 2016, pp. 10–11.
  143. ^ 久野雅司 2017, pp. 150–152.
  144. ^ a b 平井上総 2017, p. 20.
  145. ^ 池上裕子 2012, pp. 89-90d.
  146. ^ 柴裕之 2016, pp. 2–4.
  147. ^ a b 久野雅司 2015a, pp. 36–37.
  148. ^ 久野雅司 2019a, pp. 182–183.
  149. ^ 久野雅司 2019a, pp. 180–184.
  150. ^ 久野雅司 2019b, pp. 209–211.
  151. ^ 池上裕子 2012, pp. 89–90.
  152. ^ 谷口克広著、信長と将軍義昭p152
  153. ^ 鴨川達夫 2007, pp. 178–180.
  154. ^ 池上裕子 2012, pp. 92–94.
  155. ^ a b c d e f 神田千里 2013a.
  156. ^ 神田千里 2002.
  157. ^ 鈴木眞哉 & 藤本正行 2006, pp. 125–126.
  158. ^ 藤田達生 2010, pp. 48–73.
  159. ^ 木下昌規 2014b, pp. 26–28.
  160. ^ a b 平井上総 2017, pp. 23.
  161. ^ a b c 久野雅司 2015a, pp. 37–42.
  162. ^ 池上裕子 2012, p. 94.
  163. ^ 『御湯殿上日記』
  164. ^ 神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年。
  165. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 96–97.
  166. ^ 谷口克広 2002, pp. 129–131.
  167. ^ a b c d 池上裕子 2012, p. 98.
  168. ^ a b c d 池上裕子 2012, p. 103.
  169. ^ a b c d e f 池上裕子 2012, pp. 105–108.
  170. ^ 金子拓 2017a, p. 87.
  171. ^ 播磨良紀「織田信長の長島一向一揆攻めと「根切」」、新行紀一編『戦国期の真宗と一向一揆』吉川弘文館、2010年所収。
  172. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 108–109.
  173. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 109–112.
  174. ^ 長屋隆幸 2016, pp. 93–94.
  175. ^ a b c 長屋隆幸 2016, pp. 94–96.
  176. ^ 長屋隆幸 2016, pp. 106–107.
  177. ^ a b c 池上裕子 2012, p. 112.
  178. ^ 金子拓 2015, p. 269-271.
  179. ^ 金子拓 2015, p. 318-320.
  180. ^ a b 池上裕子 2012, p. 113.
  181. ^ 池上裕子 2012, pp. 114–117.
  182. ^ a b c d e 池上裕子 2012, pp. 117–118.
  183. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 119–120.
  184. ^ a b c d e f g 池上裕子 2012, pp. 120–122.
  185. ^ 谷口克広 2012, pp. 201–202.
  186. ^ 藤田達生 2001, pp. 68–72.
  187. ^ 木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』戒光祥出版、2017年、P.287-292・294-296)
  188. ^ 木下昌規「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」(初出:『日本歴史』793号、2014年)/所収:木下昌規 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』(戒光祥出版、2017年)ISBN 978-4-86403-253-7
  189. ^ 木下昌規 2014a, pp. 357–358.
  190. ^ a b c d e 柴裕之 2020, pp. 152–156.
  191. ^ a b c d e f g 池上裕子 2012, pp. 124–125.
  192. ^ 金子拓 2015, pp. 313–315.
  193. ^ 金子拓 2015, pp. 349–351.
  194. ^ 金子拓 2015, pp. 315–317.
  195. ^ 金子拓 2015, pp. 312–313.
  196. ^ 金子拓 2015, pp. 306・314.
  197. ^ 金子拓 2015, pp. 335-336・342-343.
  198. ^ 金子拓 2015, pp. 350–351.
  199. ^ 金子拓 2015, pp. 347–348.
  200. ^ 池上裕子 2012, pp. 127–128.
  201. ^ 矢田俊文 2005, p. 153.
  202. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 125–126.
  203. ^ a b c 藤井譲治 2011, pp. 114–116.
  204. ^ 池上裕子 2012, pp. 155–156.
  205. ^ a b c 中川貴皓 2017, pp. 178–180.
  206. ^ 藤木久志 2005, p. 40.
  207. ^ 池上裕子 2012, p. 161.
  208. ^ a b 藤井譲治 2011, pp. 134–136.
  209. ^ 池上裕子 2012, pp. 164–165.
  210. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 167–168.
  211. ^ 池上裕子 2012, pp. 169–170.
  212. ^ 池上裕子 2012, p. 169.
  213. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 114–115.
  214. ^ 池上裕子 2012, p. 171.
  215. ^ 池上裕子 2012, pp. 172–173.
  216. ^ a b c d 天野忠幸 2016b, pp. 117–119.
  217. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 118–121.
  218. ^ a b 池上裕子 2012, p. 178.
  219. ^ a b 藤井譲治 2011, pp. 136–138.
  220. ^ a b 谷口克広 2007a, pp. 203–205.
  221. ^ 谷口克広 2007a, pp. 205–211.
  222. ^ 丸島和洋 2013, p. 243.
  223. ^ a b c 堀新 2014, pp. 36–40.
  224. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 183–184.
  225. ^ a b c d 三鬼清一郎 1985, pp. 74–75.
  226. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 182–183.
  227. ^ 三鬼清一郎 1985, pp. 99–100.
  228. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 184–186.
  229. ^ 谷口克広 2007a, pp. 124–128.
  230. ^ 西ヶ谷恭弘 2000, p. 205
  231. ^ a b c d e f 西ヶ谷恭弘 2000, p. 206
  232. ^ a b c d e f g h i j k l 西ヶ谷恭弘 2000, p. 207
  233. ^ a b c d e 藤井譲治, pp. 140–141.
  234. ^ 金子拓2015, pp. 370–373.
  235. ^ 西ヶ谷恭弘 2000, p. 208
  236. ^ a b c d e f g h i j 西ヶ谷恭弘 2000, p. 210
  237. ^ 西ヶ谷恭弘 2000, pp. 210–211.
  238. ^ a b c d e f g h i j 西ヶ谷恭弘 2000, p. 211
  239. ^ 谷口克広 1995, p. 235.
  240. ^ 遠藤ゆり子編 2015, p. 88.
  241. ^ 遠藤ゆり子編 2015, p. 260.
  242. ^ a b c 藤井譲治 2011, pp. 141–144.
  243. ^ 福島克彦 2020, p. 171.
  244. ^ a b c d 池上裕子 2012, pp. 208–211.
  245. ^ 谷口克広 『信長と家康の軍事同盟-利害と戦略の二十一年』吉川弘文館、2019年11月 186頁
  246. ^ a b c d e 池上裕子 2012, pp. 211–213.
  247. ^ 天野忠幸 2016a, p. 169.
  248. ^ a b 木下昌規 2016, pp. 193–194.
  249. ^ 桐野 2014, p. 9
  250. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 213–214.
  251. ^ a b c 金子拓 2017a, pp. 156–158.
  252. ^ 金子拓 2017a, pp. 176–177.
  253. ^ 金子拓 2017a, pp. 177–179.
  254. ^ 江後迪子 2007, pp. 24–37.
  255. ^ 福島克彦 2020, p. 180.
  256. ^ a b c 天野忠幸 2016a, p. 170.
  257. ^ 福島克彦 2020, p. 181.
  258. ^ a b 金子拓 2017a, p. 177.
  259. ^ 桐野 2014, p. 9
  260. ^ 小和田 2014, p. 133
  261. ^ 天野忠幸 2016a, p. 171.
  262. ^ 太田 & 中川 2013, p.313
  263. ^ 池上裕子 2012, p. 214.
  264. ^ a b c 和田裕弘 2016, p. 193.
  265. ^ 和田裕弘 2016, p. 191.
  266. ^ a b 福島克彦 2020, p. 182.
  267. ^ 池上裕子 2012, pp. 214–215.
  268. ^ 和田裕弘 2016, p. 192.
  269. ^ 池上裕子 2012, p. 215.
  270. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 214–217.
  271. ^ 池上裕子 2012, p. 216.
  272. ^ a b 福島克彦 2020, p. 188.
  273. ^ 加藤理文 2014, pp. 44.
  274. ^ 呉座勇一 2018, pp. 203–204.
  275. ^ 山本雅和 (2008年4月). “「本能寺の変」を調査する” (pdf). リーフレット京都 No.231. 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館. 2018年9月22日閲覧。
  276. ^ a b 和田裕弘 2016, p. 222.
  277. ^ 加藤理文 2014, pp. 30–34.
  278. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 28–30.
  279. ^ 完訳フロイス日本史3 58章(本来の第2部43章)
  280. ^ 完訳フロイス日本史2 32章(本来の第1部83章)
  281. ^ 神田千里 2015, pp. 49–50.
  282. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 29–30.
  283. ^ 池上裕子 2012, pp. 106–108.
  284. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 120–121.
  285. ^ a b c 神田千里 2014, pp. 163–164.
  286. ^ a b 横田冬彦 2009, pp. 375–377.
  287. ^ 太田牛一, 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, pp. 351–352.
  288. ^ 『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章
  289. ^ 太田牛一, 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, pp. 165.
  290. ^ 桑田忠親 1958, p. 25.
  291. ^ 宮本義己 2010, pp. 61–62.
  292. ^ a b c 神田千里 2014, pp. 217–219.
  293. ^ 神田千里 2014, pp. 208–212.
  294. ^ a b c d e 池上裕子 2012, pp. 265–268.
  295. ^ 天野忠幸 2016b, pp. 110–112.
  296. ^ 谷口克広 2007a, pp. 256–259.
  297. ^ 池上裕子 2012, p. 276.
  298. ^ a b c d 神田千里 2014, pp. 203–207.
  299. ^ a b c 神田千里 2014, pp. 215–216.
  300. ^ 神田千里 2014, pp. 207–208.
  301. ^ 神田千里 2014, pp. 211–212.
  302. ^ 平井上総 2020, pp. 174–179.
  303. ^ a b c 神田千里 2015, pp. 50–54.
  304. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 124–125.
  305. ^ 神田千里 2015, pp. 54–57.
  306. ^ 脇田修 1987, pp. 135–136.
  307. ^ a b c d e f g 脇田修 1987, pp. 136–137.
  308. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 4–5.
  309. ^ 脇田修 1987, p. 129.
  310. ^ 谷口克広 2009, p. 214.
  311. ^ 太田牛一『信長公記』、巻14。
  312. ^ 高橋博 1992, p. 25.
  313. ^ 四宮美帆子 2013, p. 177.
  314. ^ 原田正記 1991, pp. 46–47.
  315. ^ 遠藤ゆり子編 2015, p. 256.
  316. ^ 本多博之 2015, p. 69.
  317. ^ 原田正記 1991, p. 47.
  318. ^ 『信長公記』、巻13。
  319. ^ 原田正記 1991, pp. 47–48.
  320. ^ 八尾嘉男 2017, pp. 283–286.
  321. ^ 八尾嘉男 2017, pp. 287–288.
  322. ^ a b 八尾嘉男 2017, pp. 292–295.
  323. ^ 八尾嘉男 2017, pp. 295–296.
  324. ^ 松浦静山 著、中村幸彦; 中野三敏 編『甲子夜話三篇 2』平凡社東洋文庫 415〉、1982年、234頁。ISBN 978-4582804157 
  325. ^ a b 谷口克広 1998, pp. 60–67.
  326. ^ a b 池上裕子 2012, p. 30.
  327. ^ a b 下谷内勝利 2011, pp. 392–393.
  328. ^ 脇田修 1987, pp. 134–135.
  329. ^ 脇田修 1987, p. 130.
  330. ^ a b c 脇田修 1987, pp. 126–129.
  331. ^ 金子拓 2017b, pp. 112–113.
  332. ^ a b 金子拓 2017b, pp. 106–111.
  333. ^ 谷口克広 2019, p. 172.
  334. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 127–128.
  335. ^ 高木洋 2011, p. 38-40.
  336. ^ a b 榊原悟 2010, pp. 44–45.
  337. ^ a b c 谷口克広 2013, pp. 132–133.
  338. ^ 岡垣頼和・浅川滋男 2010, p. 42.
  339. ^ 岡垣頼和・浅川滋男 2010, pp. 34–35.
  340. ^ 勝俣鎮夫 2003, pp. 1–3.
  341. ^ a b 勝俣鎮夫 2003, pp. 3–4.
  342. ^ 宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号、1999年)
  343. ^ 宮本義己「戦国時代の夫婦とは」(『歴史研究』488号、2002年)
  344. ^ 桑田忠親「豊臣秀吉の右筆と公文書に関する諸問題」(『史学雑誌』52巻3・4号、1941年)
  345. ^ 近代デジタルライブラリー「利家夜話三巻」pp.7
  346. ^ a b c 谷口克広 1998, pp. 49–50.
  347. ^ 谷口克広 2019, p. 173.
  348. ^ 谷口克広 2019, p. 174.
  349. ^ 谷口克広 2019, p. 185.
  350. ^ 田村英恵 「織田信長像をめぐる儀礼」黒田日出男編『肖像画を読む』 角川書店、1998年、176頁。ISBN 978-4-04-821057-7。ただし、その内訳や所蔵先などの記載はない。
  351. ^ 綺陽装束研究所主宰 八條忠基 (2020年1月29日). “装いがまとう意(8) 狩野元秀「織田信長像」(部分)”. 日経新聞. https://www.nikkei.com/article/DGXKZO54936780Y0A120C2BC8000/ 2023年7月3日閲覧。 
  352. ^ 文化庁オンラインに画像と解説あり[1]
  353. ^ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/440256
  354. ^ a b c d e f “目立たれては困る 信長の肖像画、秀吉が改変か”. 日経新聞. (2011年6月11日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1102B_R10C11A6CR8000/ 2023年7月3日閲覧。 
  355. ^ 山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ―修理で得られた知見を中心に―」、『京都国立博物館學叢』所収、2011年[注釈 78]
  356. ^ 藤本正行 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』(洋泉社、2010年)口絵参照、ISBN 978-4-86248-638-7。また、これに忠実な模本が東京国立博物館に所蔵されている(画像)。
  357. ^ “信長の肖像画、竹の紙に描かれていた 文化庁調査で判明 6月に豊田で特別公開”. 毎日新聞. (2011年6月7日). https://mainichi.jp/articles/20190524/k00/00m/040/206000c 2023年3月31日閲覧。 
  358. ^ a b 信長の肖像画、竹の紙に描かれていた 文化庁調査で判明 6月に豊田で特別公開 - 毎日新聞2019年5月24日
  359. ^ a b c d 湯村章男「織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について」 - 『中学校 歴史のしおり』2006年1月号(帝国書院
  360. ^ a b c d e f g h 平井上総 2017, pp. 18–19.
  361. ^ 矢部健太郎編 2016, p. 74.
  362. ^ 東寺百合文書の「織田信長禁制」 – 東寺百合文書WEB” (2018年1月22日). 2024年2月9日閲覧。
  363. ^ 谷口克広 2002, p. 58.
  364. ^ 神田千里 2013b.
  365. ^ 神田千里 2014, p. 103-111.
  366. ^ 金子拓 2014, p. 110.
  367. ^ a b 堀新 2014, pp. 29–31.
  368. ^ a b 堀新 2014, pp. 28–31.
  369. ^ a b c 平井上総 2017, pp. 19–20.
  370. ^ a b c d 柴裕之 2016, pp. 13–14.
  371. ^ a b c 金子拓 2014, pp. 14–29.
  372. ^ 柴裕之 2017a, pp. 105–107.
  373. ^ 谷口克広『信長天下布武への道』<戦争の日本史13>吉川弘文館、2006年、pp.174-176
  374. ^ 朝尾直弘 2014, pp. 143、153天下の「畿内」、「自己一体化」、「全国(沖縄・北海道を除く)」の3変容説を提起
  375. ^ 桐野作人『明智光秀と斎藤利三』<宝島新書>、2020年 p.78-81、右大将任官での天下「自己一体化」、「列島日本」変容説
  376. ^ 桐野作人『明智光秀と斎藤利三』<宝島新書>、2020年 p.80-81
  377. ^ 堀新 2014, pp. 25–54.
  378. ^ a b c d e f g h i 平井上総 2017, pp. 22–23.
  379. ^ a b c d e f 平井上総 2017, pp. 23–24.
  380. ^ a b c d 平野明夫 2014, pp. 67–69.
  381. ^ a b c d 平野明夫 2014, pp. 75–82.
  382. ^ 柴裕之 2017a, pp. 107–108.
  383. ^ 中村栄孝 1935, pp. 16–17.
  384. ^ 堀新 2014, pp. 55–57.
  385. ^ a b 本郷和人『信長とキリスト教』文藝春秋〈文藝春秋special 10(1)〉、2016年、165頁。 
  386. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 102–103.
  387. ^ 谷口克広 2013, pp. 114–116.
  388. ^ a b c d e f g h i 平井上総 2017, pp. 20–22.
  389. ^ a b 谷口克広 2013, pp. 96–99.
  390. ^ 谷口克広 2007b, pp. 138–139.
  391. ^ 藤井譲治 2011, p. 153.
  392. ^ 『歴史評論』680号所収、松本和也「宣教師史料から見た日本王権論」
  393. ^ a b 堀新 2014, pp. 61–62.
  394. ^ 谷口克広 2007b, pp. 103–141.
  395. ^ 谷口克広 2013, pp. 96–116.
  396. ^ a b c d 谷口克広 2013, pp. 107–110.
  397. ^ 金子拓 2015, pp. 224–228.
  398. ^ a b 神田裕理 2017, pp. 174–175.
  399. ^ 神田裕理 2017, pp. 186–189.
  400. ^ a b c 谷口克広 2013, pp. 104–107.
  401. ^ a b 池上裕子 2012, p. 219.
  402. ^ a b 堀新 2014, pp. 36.
  403. ^ a b c d e f 堀新 2014, pp. 40–41.
  404. ^ a b c 松本和也 2017, pp. 192–208.
  405. ^ 末木文美士 1996, pp. 236–237.
  406. ^ a b 神田千里 2015, p. 57.
  407. ^ 三鬼清一郎 1985, pp. 96–97.
  408. ^ a b c 堀新 2014, pp. 41–43.
  409. ^ a b 三鬼清一郎 1985, pp. 100–102.
  410. ^ a b c 松下浩 2017, pp. 209–212.
  411. ^ 松下浩 2017, pp. 212–221.
  412. ^ 松下浩 2017, pp. 212–213.
  413. ^ 松下浩 2017, pp. 221–222.
  414. ^ 長澤伸樹 2017, pp. 30–31.
  415. ^ a b c 谷口克広 2013, pp. 232–235.
  416. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 223–224.
  417. ^ a b c 池上裕子 2012, pp. 224–225.
  418. ^ 鈴木公雄 2002, p. 136.
  419. ^ 高木久史 2005, pp. 24–25.
  420. ^ 谷口克広 2013, pp. 250–252.
  421. ^ 渡辺武ほか編 1983, p. 113.
  422. ^ 脇田修. “織田信長”. 日本大百科全書. 小学館・ジャパンナレッジ. 2018年10月4日閲覧。
  423. ^ 谷口克広 2002, pp. 18–19.
  424. ^ 谷口克広 2002, p. 276.
  425. ^ 谷口克広 2002, p. 281.
  426. ^ 桐野作人 2009, p. 86.
  427. ^ a b 桐野作人 2009, pp. 101–104.
  428. ^ 桐野作人 2009, pp. 104–106.
  429. ^ 谷口克広 2013, pp. 215–216.
  430. ^ a b 池上裕子 2012, pp. 264–265.
  431. ^ 桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』[要ページ番号]
  432. ^ 山本博文『続日曜日の歴史学』(東京堂出版、2013年)
  433. ^ 堀新「明智光秀〈家中軍法〉をめぐって」(初出:山本博文 編『法令・人事から見た近世政策決定システムの研究』(2015年)/柴裕之 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-321-3) 2019年、P300-319.
  434. ^ 1985年「織田政権の研究」所収、『天正八年の大和指出と一国破城について』松尾良隆
  435. ^ a b c d 谷口克広 2007a, pp. 251–254.
  436. ^ a b 新井白石 1936, pp. 294–295.
  437. ^ 久野雅司「〈天下人〉織田信長と〈天下静謐〉」『織田信長政権の権力構造』戒光祥出版〈戎光祥研究叢書16〉、2019年 ISBN 978-4-86403-326-8。P549-550.
  438. ^ 石毛忠. “日本外史”. 日本大百科全書. 小学館・コトバンク. 2018年10月13日閲覧。
  439. ^ a b c d 頼山陽 1938, pp. 697–699.
  440. ^ 村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波文庫,1936
  441. ^ 谷口克広 2013, pp. 96–97.
  442. ^ a b c d 白井英二編 1979, p. 211.
  443. ^ 識者5人が選んだ日本の顔10人家康・信長に支持asahi.comインターネットアーカイブのキャッシュ)
  444. ^ a b 末國善己 (2015年7月22日). “「冷酷」で「能力主義」な信長はいかにして生まれたのか?”. 文藝春秋books. 文藝春秋. p. 1. 2018年9月23日閲覧。
  445. ^ 今井林太郎 1985, pp. 12–13.
  446. ^ 今井林太郎 1985, pp. 49–50.
  447. ^ 谷口克広 2013, p. 97.
  448. ^ 奥野高廣 & 岩沢愿彦 1969, p. 476.
  449. ^ a b 金子拓 2014, p. 23.
  450. ^ a b 平井上総 2017.
  451. ^ 長澤伸樹 2017, pp. 11–13.
  452. ^ a b 山崎布美 2016, pp. 36–38.
  453. ^ a b 山崎布美 2016, pp. 38–39.
  454. ^ a b c d e 池上裕子 2012, p. 282.
  455. ^ a b 谷口克広 2003, p. 5.
  456. ^ 谷口克広 2003, p. 6.
  457. ^ 渡辺江美子 2016, p. 309.
  458. ^ 渡辺江美子 2016, p. 314.
  459. ^ a b c 渡辺江美子 2016, pp. 316–317.
  460. ^ a b c d 渡辺江美子 2016, pp. 328–329.
  461. ^ 渡辺江美子 2016, pp. 317–318.
  462. ^ a b 渡辺江美子 2016, pp. 317–319.
  463. ^ 渡辺江美子 2016, pp. 326–327.
  464. ^ a b 渡辺江美子 2016, pp. 319–320.
  465. ^ a b c d 渡辺江美子 2016, pp. 320–322.
  466. ^ a b c 渡辺江美子 2016, pp. 324–325.
  467. ^ a b 渡辺江美子 2016, p. 327.
  468. ^ a b 渡辺江美子 2016, pp. 322–323.
  469. ^ 歴史読本 2012, pp. 215–216, 和田裕弘「信長の「幻」の子供たち」.
  470. ^ a b 渡辺江美子 2016, p. 320.
  471. ^ a b 渡辺江美子 2016, pp. 327–328.
  472. ^ 加藤理文 2014, pp. 34–44.
  473. ^ a b c d 堀新 2014, pp. 27–28.
  474. ^ 池上裕子 2012, p. はしがき8.
  475. ^ 番組エピソード 大河ドラマの“信長”-NHKアーカイブス
  476. ^ 朴順愛 2010, pp. 74–76.
  477. ^ まんだらけ通信販売”. order.mandarake.co.jp. 2023年8月7日閲覧。
  478. ^ 中島利行『織田信長―乱世の戦い』学研プラス、1979年10月1日。ISBN 978-4-05-003616-5https://www.amazon.co.jp/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E2%80%95%E4%B9%B1%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-%E5%AD%A6%E7%A0%94%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%99%82%E4%BB%A3-%E4%B8%AD%E5%B3%B6-%E5%88%A9%E8%A1%8C/dp/4050036169 
  479. ^ 学習漫画 日本の伝記 集英社版 〔2〕 織田信長 戦乱の世の風雲児”. 2023年7月9日閲覧。
  480. ^ 週刊少年マガジン1996年23 - メディア芸術データベース”. mediaarts-db.bunka.go.jp. 2023年7月9日閲覧。
  481. ^ 週刊少年マガジン1998年6 - メディア芸術データベース”. mediaarts-db.bunka.go.jp. 2023年7月9日閲覧。
  482. ^ TENKA FUBU 信長(1) | ながてゆか | 無料漫画(マンガ)ならコミックシーモア”. www.cmoa.jp. 2023年7月9日閲覧。
  483. ^ 耕三, 1958-, 加来; とおる, すぎた; 大介, 早川 (2007). 織田信長 : 戦国人物伝. 東京: ポプラ社. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009182694-00 
  484. ^ “コミックゼノン創刊号、御パンツ付録でかぶいて候”. コミックナタリー (ナターシャ). (2010年10月25日). https://natalie.mu/comic/news/39569 2022年9月24日閲覧。 
  485. ^ “北原星望×原哲夫「いくさの子」が12年の連載に幕、完結記念のインタビューも”. コミックナタリー (ナターシャ). (2022年9月24日). https://natalie.mu/comic/news/494977 2022年9月24日閲覧。 
  486. ^ 哲男, 1944-, 小和田; トミイ大塚; 哲哉, 1957-, 黒沢 (2012). 織田信長 : 「天下布武」へ-戦国乱世をかけぬけた男. 東京: 小学館. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023772749-00 
  487. ^ カネコアヤノ参加の新曲「マイ草履 feat. にゃん北朝時代」配信スタート!安達祐実出演のMVも公開!、ビクターエンタテインメント、2022年3月2日。



織田信長(声:置鮎龍太郎)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 23:13 UTC 版)

決戦III」の記事における「織田信長(声:置鮎龍太郎)」の解説

このゲーム主人公最初若々しい青年だが、4章の京入りには髭をたくわえ、年が経つと男らしくなる。数少ない外見変化していく武将ちなみに主人公であるためか、他の作品描かれるような「魔王」とも称される苛烈冷酷な面はそれほど垣間見えず、むしろ快活人当たり良い好感持ちやすい性格となっている(史実信長庶民農民分け隔てなく接した側面見られる)。主な兵種騎馬槍足軽鉄砲足軽武将系統は「万能」。決戦闘技発動する最後に翼がはえて飛翔したような独特の演出見せる。第一作決戦に於いて関ヶ原の合戦に臨む徳川家康前に現れ信長幻影の声を担当していたのは、本作信長と同じ声優である。

※この「織田信長(声:置鮎龍太郎)」の解説は、「決戦III」の解説の一部です。
「織田信長(声:置鮎龍太郎)」を含む「決戦III」の記事については、「決戦III」の概要を参照ください。


織田信長(空中要塞:銀狼)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 03:52 UTC 版)

婆裟羅2」の記事における「織田信長(空中要塞銀狼)」の解説

49歳。「第六天魔王」と恐れられる戦国の覇者。その若き日尾張のうつけ者」と呼ばれていたが、それは周囲欺くためのふりで家督相続後瞬く間尾張統一成し遂げたそれ以降緻密かつ大胆な機略勇猛果敢武略、そして隠された「大いなる力をもって乱世終焉導き悲願の平和を目前にする。心底は心温かい愛情持ち合わせているが、自らを三国志の「乱世姦雄曹操なぞらえ乱世英雄」と称し、あえての道を歩む

※この「織田信長(空中要塞:銀狼)」の解説は、「婆裟羅2」の解説の一部です。
「織田信長(空中要塞:銀狼)」を含む「婆裟羅2」の記事については、「婆裟羅2」の概要を参照ください。


織田信長(声 - 戸谷公次)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:15 UTC 版)

仮面の忍者 赤影」の記事における「織田信長(声 - 戸谷公次)」の解説

戦国大名で銃を堺から運んだり、堺の会合衆軍資金調達頼んだりしている。6話では赤影部下柳生助けてもらったが、大蛇丸一件赤影たちを信用するうになる21話では娘の千姫霞丸さらわれ安土城狙われたため、赤影千姫救出を頼む。

※この「織田信長(声 - 戸谷公次)」の解説は、「仮面の忍者 赤影」の解説の一部です。
「織田信長(声 - 戸谷公次)」を含む「仮面の忍者 赤影」の記事については、「仮面の忍者 赤影」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「織田信長」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「織田信長」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



織田信長と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田信長」の関連用語

織田信長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田信長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの織田信長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの決戦III (改訂履歴)、婆裟羅2 (改訂履歴)、仮面の忍者 赤影 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS