戦国・安土桃山時代とは? わかりやすく解説

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戦国・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:44 UTC 版)

岡崎市」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

室町時代後期頃になると、六代将軍足利義教により三河守一色義貫殺され、代わって細川氏守護就いたものの、他地に先駆け内戦状態となった岩津城を本拠とした国人領主松平氏第三松平信光は、保久城山下氏を滅ぼしたのち、井ノ口の砦を拠点として発生した額田郡一揆幕府政所執事伊勢貞親被官として平定し力を伸ばした応仁の乱では、三河への復権を狙う一色氏を、三河守細川成之とともに破り戦国時代岡崎城安祥城獲得し南部まで勢力伸ばしたその後三河守護が置かれない態となり、信光の後は、当初鴨田分立されていた四代松平親忠が、井田野で挙母城中条氏らを破り鴨田館跡大樹寺建立するなどした。五代松平長親は、三河侵攻してきた今川氏親家臣北条早雲井田野で破ったとされる1524年大永4年)、松平宗家七代松平清康が、山中城岡崎松平家攻略し安城岡崎を兼領する。そして明大寺の岡崎城から龍頭山の砦に拠点移し1531年享禄4年)には龍頭山の砦を整備拡張し岡崎城(別名、竜城、竜ヶ城)とした。清康死後松平氏今川氏庇護下に入ると、市域今川織田抗争前線となり(小豆坂の戦い)、多くの城が作られた。 桶狭間の戦い今川義元戦死した後、第九松平元康は、大樹寺住職に諭されたのち、生誕の地岡崎城戻って旧家臣団を再編成し、やがて今川氏から独立徳川家康改名する以後織田信長盟友として勢力拡大した1564年永禄7年)には、針崎町勝鬘寺等を拠点起きた三河一向一揆平定した。武田信玄侵攻備えるため、1570年元亀元年)に家康拠点浜松城移ったのちも、岡崎城長男松平信康徳川信康)が城主務めるなどし、長篠の戦いでは、岡崎城から出発した家康らが、片寄天恩寺経て長篠城向かったまた、本能寺の変に伴う伊賀越えの際には、畿内から逃れた家康岡崎城帰還した1590年天正18年)、家康関東移封により多く三河武士とともに江戸に移ると、豊臣家臣田中吉政岡崎城入った。吉政は家康対す抑えとして城を拡張し石垣城壁などを用いた近世城郭にふさわしいものに整備したが、秀吉死後家康接近し関ヶ原の戦いでは家康についたまた、城下町の整備積極的に行われ岡崎郊外通っていた東海道岡崎城下町中心を通るように変更され現在の岡崎城原型造られた。

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戦国・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:01 UTC 版)

三条西家」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

三条西家三栖下庄丹波今林庄・越前田野庄などを所領として持っていたが田野村庄以外は戦国大名や有力国人横領され収入得られなくなった戦国時代三条西実隆三条西公条三条西実枝和漢精通し、実隆・公条・実の3人は三条西三代呼ばれる三条西家による歌学継承は、三条西実枝のあと、本来は三条西公国が継ぐべきであったが、実老齢達したおり未だ幼かったため、三条西実枝高弟細川幽斎中継ぎとして古今伝授を受け、三条西公国成人をまって伝えた。しかし、三条西公国早世してしまったため、幽斎は師実との生前約束誠実に果たすべく再び公国の子三条西実条伝えなおしている。実条は武将でもあった師幽斎が関ヶ原の戦い居城田辺城敵軍包囲されており、後陽成天皇勅書携え丹後まで下向している。

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戦国・安土桃山時代

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年貢」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

安土桃山時代実施され太閤検地により、一つ土地対す重層的支配・権利関係がほぼ全て解消された。一つ土地耕作者がその土地唯一の権利者となり、土地生産力は米の見込生産量である石高計られることとなった年貢については、石高村落全体集計した村高むらだか)に応じた額が、年貢量とされ、年貢納入は村落一括納入義務を負う村請むらうけ)の形態採用された。

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戦国・安土桃山時代

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大和絵」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

障壁画隆盛桃山文化天下人と結びついた狩野派対し大和絵名門であった土佐派16世紀半ば以降押され気味になる。土佐派また、天下人支援受けた狩野派宮廷へ進出対抗することができず、足利義昭邸の障壁画描いた土佐光茂は、その晩年京都去って堺に移り死去その子土佐光元秀吉従軍して戦死し土佐派宮廷絵所職の地位失ってしまった。弟子土佐光吉流派を継ぐが、そのまま境を拠点とし、上洛要請応じなかった。その子土佐光則も堺で活動するが、晩年に子の光起と共に京に戻った。光則の門人住吉如慶は、江戸幕府御用絵師住吉派の祖となった

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戦国・安土桃山時代

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佐竹氏」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が現れ佐竹山入家を討ち佐竹氏統一成し遂げ久慈川以東常陸北部制圧成功した。しかし、相変わらず江戸氏不穏な動き続け、更に山入家との戦いの間に独自性強めた小場氏・宇留野氏長倉氏などの久慈川以西一族叛旗翻した(部垂の乱)。また関東制覇目指す北条氏侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。 義舜の曾孫佐竹氏18当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代佐竹氏江戸氏小田氏などを次々と破り常陸大半支配下に置くことに成功し佐竹氏戦国大名として飛躍させた。 甲斐武田氏同盟し甲佐同盟)、北条氏とは天正12年1584年)に沼尻現在の栃木県栃木市)で対決した沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し白河結城氏下し石川氏岩城氏などを影響下に置き、三春城田村氏対抗する中で南奥州国人の盟主たる地位確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗対立し、義重は蘆名氏二階堂氏岩城氏らと同盟結んで奥州覇権を狙う政宗天正13年1585年)人取現在の福島県本宮市)で対決した人取橋の戦い)。佐竹方は3大軍率い伊達方10倍近い兵力をもってこれを攻め伊達方多大な被害与えたが、一夜にして撤退余儀なくされ、結果として伊達方奥州覇権強め契機となる。 しかし義重は戦国時代通じて領国拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉小田原征伐に参陣して秀吉太閤検地結果常陸545800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城下館城一帯結城氏所領とされた)。 義宣は秀吉権威背景常陸南部割拠する大掾氏配下国人たち(いわゆる南方三十三館主として鹿行二郡の塚原氏行方氏・卜部氏麻生氏鹿島氏など万石未満土豪小田原陣の頃は下総千葉氏傘下転じている)を討伐するなど領主権力の強化進めることとなる。そして、水戸城江戸重通小田原征伐に参陣しなかったために所領没収され佐竹氏居城太田城から水戸城移した佐竹家常陸水戸545800石で豊臣政権下で第8位の大大名となり(一門与力岩城氏らを含めると80万石超え伊達氏宇喜多氏上回る)、徳川上杉毛利前田島津とともに豊臣六大将」とも呼ばれた

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戦国・安土桃山時代

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北畠家」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

戦国時代に入ると、英主北畠晴具現れ北畠家南伊勢、志摩国伊賀国南部大和国南部紀伊国東部にまでに及ぶ一大勢力となった他方北伊勢の雄たる長野工藤氏とは激しく争ったものの、決着をつけることができなかった[要出典]。 晴具の子・具教の代には、長野工藤氏を従わせて北伊勢進出し志摩への支配強めるなど、戦国大名として最盛期迎えたまた、永禄5年1562年5月長野稙藤長野藤定死去したため、長野氏支配権を完全に握った[要出典]。 しかし、具教の子・具房の代になると、伊勢国は度々織田信長侵攻を受けるようになり、北畠家旗下であった神戸氏長野工藤氏次々織田家服属して信長弟・子当主迎え織田家乗っ取られていった永禄12年1569年8月織田信長侵攻を受け、大河内城包囲・攻撃され、10月将軍足利義昭仲介和議結んだ大河内城の戦い)。その結果信長次男織田信雄北畠具房養子とし、かつ先代・具教の娘・雪姫千代御前)の婿に迎えるという織田家有利な形で講和することとなった。信雄は1575年天正3年)に北畠家家督相続する。この時、木造氏当主は具教の実弟木造具政であったが、織田家内通している。 天正4年1576年11月三瀬御所隠居していた具教は、信長の命を受け信雄が放った刺客により館を急襲され、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺された。次男長野具藤三男北畠親成田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害され坂内御所においては坂内具房、御所においては城代北畠政成、および波瀬具通が殺害された(三瀬の変)。北畠一門抹殺理由としては、足利義昭信長包囲網組する武田信玄の西上作戦に際して、具教が船を出すと密約交わしていたことなどがあげられる。 具房はその身柄滝川一益預けられ安濃郡河内3年幽閉された後、天正8年1580年1月5日京都死去した。これら一連の信長行動により北畠家名実ともに織田家によって乗っ取られた。 天正10年天正10年6月信長本能寺の変死去すると、備後逃れていた具教の実弟北畠具親伊勢五篠山城戻り再挙するが落城、後に蒲生氏のもとに客臣として迎えられた。変後清洲会議にて、信雄は織田家後継者になろうと画策し織田姓に復したため、伊勢国司家としての北畠家滅亡した

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戦国・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:42 UTC 版)

小貫氏」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

佐竹氏内乱以降小野崎氏佐竹氏一門衆にも列し小貫氏宿老として活躍している。佐竹氏全盛期佐竹義重義宣時代には和田昭為一門筋に当たる人見藤道とともに佐竹家三家老を勤めた小貫頼久輩出する。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いで、主君佐竹義宣東軍参加渋ったことから、戦後処理で常陸国545000石から出羽国205000石に減封されるに伴い、頼久も主家従い秋田転籍した。そのため、小貫氏茨城県秋田県に多い姓である。

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戦国・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 18:43 UTC 版)

日本における女性の合戦参加の年表」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

15世紀末:女首長サンアイイソバ率いられるドゥナン与那国島)が琉球王国に従う宮古島軍勢侵攻を受ける。 天文10年1541年):大三島にて大祝鶴姫が大内氏軍勢二度わたって撃破したとされる。しかし、彼女の存在記されたという『大祝家記』は実在確認されておらず、伝説上の人物ではないかとの指摘がある(当該項目参照)。 天文12年1543年): 大祝鶴姫、三たび大内軍を撃破するも、恋人死に絶望し自殺したとされる永禄11年1568年):飯尾連竜未亡人曳山城主お田鶴の方徳川家康攻められ落城討死。ただし、その末路については資料によって相違がある(当該項目参照)。 永禄6年前後:吉田重康が城を留守にしている間に安芸氏軍勢が城を攻めてきたため、重康の妻が城内女房下女・はした、その他の男を呼び集め下知をなして、兜を着せ、または手で持たせ、塀の上差し出し、また左右に薙刀持たせ前後馬印出し大旗小旗木の枝・塀・結び付けて大勢籠っているように見せ安芸軍勢留守思っていたため、大勢いると誤認し安芸へと撤退した(『土佐物語巻第五吉田伊賀妻女の事」)。 永禄12年1569年):北条氏邦家臣諏訪部定勝の妻妙喜、居城日尾城に武田勢来襲した際、泥酔した夫が目覚めるまで籠城戦指揮永禄12年1569年10月:大内輝弘の乱毛利元就重臣周防高嶺城番の市川経好の妻である市川局が、夫の不在中、大内輝弘勢による攻撃に耐え城を守る。 元亀3年1572年):武田信玄の西上作戦松平家家臣井伊家当主直虎武田氏の侵攻を受け井伊谷城山県昌景明け渡す織田家岩村城の女城主おつやの方武田方の秋山虎繁侵攻を受け降伏天正2年1574年):三村元親家臣上野隆徳の妻三村鶴姫常山城毛利勢に攻められた際、落城寸前の城から女軍を率いて出撃するも、その後城に戻り自害天正8年1580年): 三木合戦鷹尾山城別所吉親の妻、波が別所軍に加わり奮戦するも落城前に自害天正10年1582年):織田信長による甲州征伐織田信忠軍高遠城攻めた際(5万対3千)、「諏訪勝右衛門(頼辰)の女房が刀を抜き打ち切って回り比類なき働き前代未聞次第なり」と『信長公記』に記述評価される天正11年1583年):由良成繁の妻妙印尼息子、国繁、顕長を人質取った北条氏対抗し金山城籠城。のちに城を明け渡し和睦天正12年1584年)に、越中国佐々成政1万5千の兵で前田利家家老奥村永福末森城攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した末森城の戦い)。なお、籠城戦の際には、永福の妻・加藤安は、薙刀をもって城内巡回し、粥を振る舞って負傷者介抱し城兵を元気づけたといわれる天正の昔加賀前田家家老奥村三百を以て能登末森城立寄り佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧運び城兵励まして遂に寄手破りしは有名の物語なり。 天正12年1584年)-天正14年1586年):『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘(誾千代)ありて勇壮城内腰元女中五十名ほど訓練し、戦初めに一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述がある。 天正13年1585年):人取橋の戦い二階堂盛義未亡人須賀川城主の阿南姫伊達政宗対抗する南奥諸大名連合軍として派兵天正14年1586年):大友義鎮家臣で、鶴崎城城主吉岡統増の母妙林尼不在息子代わり島津勢に対す籠城戦指揮攻勢防ぎ切り和睦開城天正15年1587年): 妙林尼寺司浜の戦いにて島津軍背後から奇襲し大勝天正16年1588年):郡山合戦阿南姫伊達政宗対抗する蘆名氏相馬氏連合軍として派兵天正17年1589年):阿南姫の守る須賀川城摺上原の戦いによる蘆名氏滅亡に伴う伊達氏侵攻を受け10月落城11月天正天草合戦本渡城戦いにて木山正親の妻お京の方戦闘参加地元の伝承では、男装しお京の方加藤清正一騎打ち挑み討たれたという。 天正18年1590年):小田原征伐3月妙印尼豊臣方与し松井田城攻め加わり、この功績により牛久に領地与えられる6月妙印尼の孫で、忍城城主成田氏長の娘である甲斐姫北条方として忍城籠城戦参加北条方の城の中では最後まで持ちこたえ開城成田氏蒲生氏郷預かりとなり、会津福井城移動11月ごろ、福井城反乱起こした浜田将監・十左衛門兄弟反乱甲斐姫鎮圧慶長年中1596年 - 1615年ごろ):津軽藤代館の女主人藤代御前が、津軽為信攻め込まれ戦死したと伝わる。 慶長5年1600年):関ヶ原の戦い関連する一連の合戦勃発7月田辺城の戦いにて城主細川幽斎妻沼麝香、夫と共に具足付け奮戦。のちに開城また、同じころ真田信之の妻小松姫侍女とともに武装して留守沼田城守備に当たる。8月安濃津城の戦いにて富田信高の妻が夫の危機騎馬武者として駆けつけ奮戦和睦開城持ち込む10月関ヶ原の戦い本戦後に立花宗茂降伏促すため柳川進軍した加藤清正が、宗茂の妻誾千代武勇警戒し、彼女の住まう宮永避けて迂回し進軍伝承では、柳川渡船口で鍋島水軍向けて誾千代鉄砲隊発砲したという。

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戦国・安土桃山時代

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武家政権」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説

戦国時代、力を増した守護大名間や幕臣同士対立が、将軍後継問題などにも結びつき大規模な内乱となったのが応仁の乱でこれを契機とし、明応の政変から、室町幕府全国的な支配権失い畿内のみの地方政権化してわずかな権威保っていた。多く守護国内統治失い勢力回復した一部守護守護代国人などから新たに台頭した勢力など多様な出自をもつ戦国大名などの地域権力が約150家出現し勢力拡大したものは一国上の領域支配する大名領国を形成した。これら戦国分国はすべて実力形成され朝廷幕府委任などしたものではなく承認形式とどまった武家権力決定的な勢力となるが、その一方で成り上がった戦国大名中央権門接触持ち朝廷から官位官職受けて権威大義名分得た。また大内氏直奏による大宰大弐獲得に始まる戦国大名勢力拡大実利目的官職任免もされるようになった例えば、毛利氏蘭奢待の切屑を天皇から下賜されるだけで狂喜するなど、コンプレックスの中で京風公家文化武家浸透し天皇崇拝強まった。こうして武家台頭の中で天皇権威新たな形で復興した戦国大名家のなかで尾張国織田信長将軍足利義昭擁して上洛したが、義昭対立深め元亀4年1573年)には将軍義昭追放して室町幕府滅ぼし信長右大将任官し、「天下人」として強力な中央集権織田政権築いた天下統一の手前での信長横死によって、後を継いで天下人となった豊臣秀吉統一政策完成し公家である近衛前久猶子として関白宣下を受け、豊臣政権成立させた。秀吉忠実な天皇侍大将として信長より前の室町幕府武家政権としての成果文書体系をも覆し天皇にひれ伏した秀吉死後に、関ヶ原の戦い勝利し戦国大名統括してその実力で徳川家康次の天下人となった。そして、吾妻鏡手本として足利氏同族清和源氏新田氏流を称し征夷大将軍に就き江戸幕府開いた朝廷は、形式的に武家の棟梁だと是認し家康望んだ征夷大将軍職を与えた。なお、織田政権前に三好長慶堺公方による三好政権武家政権として数えることもある。

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