人取橋の戦いとは? わかりやすく解説

人取橋の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 07:30 UTC 版)

人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、二本松城畠山義継伊達輝宗を拉致して両者とも死去した事件がきっかけで、天正13年11月17日1586年1月6日)に旧安達郡本宮の人取橋付近で起きた戦い。


注釈

  1. ^ a b 連合軍側の大名家当主はそれぞれ不出馬という説もある。
  2. ^ 伊達晴宗の長男は大館城岩城親隆。岩城常隆の父。
  3. ^ この戦における伊達政宗米沢城)と岩城常隆大館城)の関係はともに奥州探題伊達晴宗の孫であり同年代。最上義光山形城)と佐竹義重太田城)から見ればともに同士の戦いである。
  4. ^ 相馬盛胤から見ても母方の祖父である。
  5. ^ 安達郡大玉村玉ノ井
  6. ^ 安達郡北部
  7. ^ このとき佐竹義重正室は、伊達晴宗の娘。伊達政宗からみた叔母であるため連合勢の引き揚げはこの人物が間に入って陳謝したためともいわれる。
  8. ^ このとき蘆名亀王丸は二階堂盛義の孫。蘆名盛隆の嫡男。二階堂盛義の嫡男・盛隆が蘆名家の家督を相続したことにより、蘆名領・二階堂領は一体化されていた。
  9. ^ このとき二階堂阿南は二階堂盛義の正室。蘆名盛隆の母。蘆名亀王丸の祖母。須賀川城主。
  10. ^ このとき岩城常隆正室は二階堂盛義の娘。母は佐竹義重の妹。
  11. ^ このとき石川昭光は佐竹義重の婿。伊達晴宗の実子・伊達輝宗の弟。
  12. ^ 白河郡白川郡石川郡をめぐる蘆名氏と佐竹氏の折衝の末、義親は蘆名盛氏の娘と離縁していた。天正6年(1578年)の和議の後、白川の名跡は佐竹義重の次男・義広が継ぎ[3]、義親は佐竹義重の養女が与えられて佐竹一門となったという[4][5]
  13. ^ 「篠川日出山小荒田郡山」として比定されるのは「篠川=郡山市安積町笹川東舘篠川館跡」、「日出山=郡山市安積町日出山」、「小荒田=旧安積郡小原田村?」、「郡山=旧安積郡郡山町 (福島県)
  14. ^ 相馬勢が佐竹蘆名連合軍に加わった布陣図が見られる。「相馬と伊達の戦争年譜」[6]には天正12(1584年)〔ママ〕、伊達の攻勢に備え、佐竹、葦名、岩城、石川、白河の諸侯と連絡を密にして、(後の)安達郡人取橋で戦った。」と記述がある。
  15. ^ 討ち取ったのは岩城常隆の家臣である窪田十郎。

出典

  1. ^ a b c 「奥羽永慶軍記」校注 今村義孝
  2. ^ a b c d 『奥相茶和記』
  3. ^ 早稲田大学白河文書『白河市史五』
  4. ^ 「戸部一閑覚書」
  5. ^ 「佐竹旧記」
  6. ^ 『原町市史』1990年
  7. ^ 垣内和孝「御代田合戦と佐竹氏・蘆名氏」(『福島史学研究』第90号、2012年)


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