あけち-みつひで 【明智光秀】
→本能寺の変
明智光秀
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/05/19 13:27 UTC 版)
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名である。
- ^ a b 『西教寺過去帳』『明智軍記』では没年が天正10年(1582年)6月14日の享年55、『細川家文書』では生年が享禄元年(1528年)8月17日)。これ以外の説には『綿考輯録』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)などもある(谷口克広「信長と消えた家臣たち」 中公新書(2007年) ISBN 978-4-12-101907-3)。
- ^ 続群書類従 明智系図
- ^ 盛林寺(京都府宮津市喜多)
- ^ 天竜寺(日本一184mの位牌)、首塚石碑
- ^ 他に、恵那市明智町の明知城や、山県市美山出身などの伝承もあるが、前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い。
- ^ a b c d e f g 『明智光秀―つくられた「謀反人」』小和田哲男 PHP新書(1998年) ISBN 978-4-56-960109-0
- ^ 長節子「所謂『永禄六年諸役人附』について」『史学文学』四巻一号 前半に永禄六年正月~翌年二月ごろの奉公衆、後半に永禄九年八月~翌年十月ごろの奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたもの。
- ^ 『信長軍の司令官―武将たちの出世競争』谷口克広 中公新書 2005年刊
- ^ 義昭近臣の曾我助乗あて暇書状
- ^ 雄琴の土豪、和田秀純あて「仰木攻めなで切り」命令書
- ^ 高柳光寿が著書『明智光秀』吉川弘文館で光秀をして「近畿管領」としている。
- ^ 景隆の実弟である山岡景猶が光秀の与力だった関係からと瀬田橋を押さえるためと推測される。
- ^ 『明智光秀』吉川弘文館。223頁 - 226頁。
- ^ ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも兵を出して光秀に協力していた。『明智光秀』吉川弘文館。244頁・245頁。
- ^ これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、創作の可能性もあるとしている。『明智光秀』吉川弘文館。249頁・250頁。
- ^ 大橋武雄「状況判断」マネジメント社 P.133~158
- ^ 『明智光秀』吉川弘文館。272頁。
- ^ 『明智光秀』吉川弘文館。272頁・287頁・288頁
- ^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、五百名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」完訳フロイス日本史3・第58章(第2部43章)
- ^ 『明智光秀』吉川弘文館。251頁・252頁。
- ^ 『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』鈴木眞哉、藤本正行 洋泉社新書y 2006年
- ^ 『明智光秀』吉川弘文館。243頁・244頁。
- ^ 大河ドラマわが町に 誘致準備会発足 長岡京など7市京都新聞,2010年11月20日・光秀とガラシャの大河ドラマ実現へ 7市町が協議会京都新聞,2011年03月29日
- ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害した小栗美作の辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。
- ^ 真書太閤記六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」
- ^ 亀岡市老人クラブ連合会『ふるさと亀岡乃ちゑ』1982年
- ^ 谷性寺
- ^ 「福屋金吾旧期文書」『阿波国古文書 三』
- ^ フロイス日本史、およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している「柏崎物語」では本能寺の変の1ヶ月前の出来事としており柴田勝家が同席している描写があるのだが、当時勝家は北陸前線で釘付けの状態であり酒宴に参加できる状態ではない事などから、疑問視する声もある。(二木謙一など)
- ^ NHK「その時歴史が動いた-本能寺の変・激突!改革か安定か-」
- ^ この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。
- ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられるの唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
- ^ 「明智平」『日光パーフェクトガイド』 日光観光協会編、下野新聞社、1998年3月30日。ISBN 4-88286-085-6。2012年4月19日閲覧。
- ^ 大阪城博物館
- ^ ただし、2000年8月6日放送のTBS系列『日立 世界・ふしぎ発見!』では「天海と光秀は別人」と言う結果が出ている。
- ^ 「陰謀と暗号の歴史ミステリー」(平成20年4月15日発行 SAKURA MOOK33 編集発行人 西塚裕一 発行所 株式会社笠倉出版社)によると、光秀の出身地である岐阜県可児市から天海の廟所がある日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府岸和田市(貝塚市)になる。
- ^ そもそも桔梗紋は清和源氏の一族が使用した家紋であり、「土岐桔梗」や「大田桔梗」など種類も少なくない。また光秀の用いた桔梗紋は、水色桔梗と言い、水色に彩色された紋を用いるのが通常である。
- ^ 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は荒木村安の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。
- ^ 「愛宕百韻」でも名前が見られ、実在の人物である言われる。
- ^ 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県山県市に伝わる伝承ではこの地に土着して荒深氏を称したという。
- ^ 一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされる。
- ^ 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、進士晴舎(同系図では光秀の実兄)の後身とする。
- ^ 経歴は『明智軍記』における十二郎と、明智光春のものを混同している。
- ^ 『明智軍記』における十二郎の幼名。
- ^ 濃姫、姉小路頼綱の室の生母がいるという。
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