明智光秀とは?

明智光秀

読み方あけちみつひで(?~1582)

生年不詳美濃国守護土岐氏一族で、恵那郡豪族明智氏出身といわれる。はじめ越前朝倉義景、のち織田信長仕える。元亀元年(1570)の姉川の戦い堅田攻め等に従軍。翌2年比叡山延暦寺焼き打ち後には、信長の命により坂本城を築いた。光秀は、武将としてだけではなく儀礼故実通じ連歌茶の湯を好む教養人でもあった。天正10年(1582)6月2日未明京都本能寺信長を倒したが、山崎の合戦羽柴豊臣秀吉に敗れ、小栗栖土民襲撃され没した。



明智光秀

作者檀一雄

収載図書戦国名将
出版社徳間書店
刊行年月1988.5
シリーズ名徳間文庫


明智光秀

作者神坂次郎

収載図書勝者こそわが主君
出版社新潮社
刊行年月1995.3

収載図書勝者こそわが主君
出版社新潮社
刊行年月1998.3
シリーズ名新潮文庫


明智光秀

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


明智光秀

作者阿井渉介

収載図書大江戸ひっくり返史―露八史観
出版社河出書房新社
刊行年月2007.3


明智光秀

作者柴田錬三郎

収載図書新編武将小説集 かく戦い、かく死す
出版社集英社
刊行年月2007.8
シリーズ名集英社文庫


明智光秀

作者海音寺潮五郎

収載図書武将列伝 戦国爛熟新装
出版社文藝春秋
刊行年月2008.5
シリーズ名文春文庫


明智光秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/23 03:54 UTC 版)

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将




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注釈

  1. ^ a b 『明智軍記』では没年が天正10年(1582年6月14日の享年55、『細川家文書』では生年が享禄元年(1528年8月17日)。これ以外の説には『細川家記』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)などもある。[1]
  2. ^ 他に、恵那市明智町明知城や、山県市美山出身などの伝承もあるが、前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い。
  3. ^ a b 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の旅行記)に知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人だったが、越前国朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十ヶ年居住していた」と記述。[7]
  4. ^ 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者で立入宗継の『立入左京亮入道隆左記』にも光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述。[7]
  5. ^ 2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料に初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。[8]
  6. ^ 前半に永禄6年(1563年)正月〜翌年2月ごろの奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月〜翌年10月ごろの奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある。[11]
  7. ^ 「一僕の身」は中世から江戸にかけての慣用句で小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である。[14]
  8. ^ 『武家雲箋』所収一色藤長書状による。[17]
  9. ^ 『年代記渉節』に公方衆として記載している。[20]
  10. ^ 茶室の床の間は貴人の座の象徴である。
  11. ^ 実弟・山岡景猶が光秀の寄騎近江衆の一員だった
  12. ^ 場所は小栗栖あるいは本経寺付近の竹薮、または醍醐か山科と当時の各日記でも場所は分かれている
  13. ^ 8日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている。(『浅野家文書』)[41]
  14. ^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」[45]
  15. ^ 亀岡市は亀山城の城下町。伊勢亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した。
  16. ^ この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅(現・岐阜県大垣市)は、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく信用できない。 [56]
  17. ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害した小栗美作の辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。
  18. ^ フロイス日本史、およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している「柏崎物語」では本能寺の変の1ヶ月前の出来事としており柴田勝家が同席している描写があるのだが、当時勝家は北陸前線で釘付けの状態であり酒宴に参加できる状態ではない事などから、疑問視する声もある。(二木謙一など)
  19. ^ 絵本太功記による創作とされる。実際は八上城内は兵糧が尽きており、餓死者が出る有様で、万策尽きて波多野方から降伏している。
  20. ^ この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。
  21. ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられるの唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
  22. ^ 光秀の出身地である岐阜県可児市から天海の廟所がある日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府岸和田市貝塚市)になる。[66]
  23. ^ そもそも桔梗紋は清和源氏の一族が使用した家紋であり、「土岐桔梗」や「大田桔梗」など種類も少なくない。また光秀の用いた桔梗紋は、水色桔梗と言い、水色に彩色された紋を用いるのが通常である。
  24. ^ 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は荒木村安の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。
  25. ^ 愛宕百韻」でも名前が見られ、実在の人物である言われる。
  26. ^ 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を称し、荒深小五郎と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。
  27. ^ 一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされる。
  28. ^ 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、進士晴舎(同系図では光秀の実兄)の後身とする。
  29. ^ 経歴は『明智軍記』における十二郎と、明智光春のものを混同している。
  30. ^ 『明智軍記』における十二郎の幼名。
  31. ^ 池波正太郎のオリジナル脚本による映画化で、「絵本太功記」や「明智軍記」の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。
  32. ^ タイトルは「太閤記」になっているが、主人公は光秀。光秀と秀吉(間寛平)が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長(オール巨人)が自らの地位を脅かされる危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。

出典

  1. ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち』 中公新書(2007年) ISBN 978-4-12-101907-3
  2. ^ 続群書類従 明智系図
  3. ^ 盛林寺(京都府宮津市喜多)
  4. ^ 天竜寺(日本一184mの位牌)、首塚石碑
  5. ^ a b c d e 桑田 1983
  6. ^ a b c d 谷口研 2014, pp. 15, 30-33, 82-83
  7. ^ a b 谷口研 2014
  8. ^ a b 高柳 1958, pp. 6-9, 20
  9. ^ a b c d e f 小和田 1998
  10. ^ 桑田 1983, p. 47.
  11. ^ 長節子「所謂『永禄六年諸役人附』について」(『史学文学』四巻一号所収)
  12. ^ 藤本 2010, p. 48.
  13. ^ a b 『『信長記』と信長・秀吉の時代』金子拓 P.214 収載『太田牛一旧記』P.310-312 勉誠出版 2012年
  14. ^ 『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』藤木久志 P.116・117 朝日選書 2005年
  15. ^ 谷口克 2005.
  16. ^ 谷口克 2002, pp. 78-82.
  17. ^ 藤本 2010, p. 51
  18. ^ 谷口研 2014, pp. 69-72
  19. ^ a b 小和田 1998
  20. ^ 高柳 1958, p. 69
  21. ^ 『信長と将軍義明』谷口克広 P.136-149 中公新書 2014年
  22. ^ 『信長の天下所司代』谷口克広 P.53-54 2009年 中公新書
  23. ^ 谷口研 2014, pp. 113-117.
  24. ^ 谷口研 2014, p. 100.
  25. ^ 『福井県史』通史編3 近世1「織田信長と一向一揆 信長と越前支配」信長の本知安堵北庄三人衆「福井県文書館」HP 2015年3月7日閲覧
  26. ^ 『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』藤本正行 P.54 2010年 洋泉社歴史新書y
  27. ^ 谷口研 2014, pp. 128-129.
  28. ^ 谷口克 2002, pp. 188-194.
  29. ^ 谷口克 2005, pp. 204-206.
  30. ^ 谷口克 2005, p. 204.
  31. ^ 高柳 1958.
  32. ^ 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「"文化人"としての光秀」桐野作人
  33. ^ 『角川茶道大辞典』>2014年 新人物文庫 KADOKAWA
  34. ^ 谷口克 2007, pp. 42-48.
  35. ^ 谷口克 2007, p. 65.
  36. ^ 高柳 1958, pp. 223-229.
  37. ^ 高柳 1958, pp. 244-245.
  38. ^ 高柳 1958, pp. 249-250.
  39. ^ 大橋武雄『状況判断』マネジメント社 P.133~158
  40. ^ 高柳 1958, pp. 250-251.
  41. ^ a b 谷口研 2014, pp. 202-207
  42. ^ 「続群書類従」所収
  43. ^ 高柳 1958, p. 272.
  44. ^ 高柳 1958, pp. 272, 287-288.
  45. ^ 完訳フロイス日本史3・第58章(第2部43章)
  46. ^ 高柳 1958, pp. 251-252.
  47. ^ 『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変謀略説を嗤う』鈴木眞哉、藤本正行 洋泉社新書y 2006年
  48. ^ 高柳 1958, pp. 243-244.
  49. ^ 谷口研 2014, pp. 217-220.
  50. ^ 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「"文化人"としての光秀」桐野作人(研究引用元は、「織田政権における茶湯の湯」竹本千鶴>2014年 新人物文庫 KADOKAWA)
  51. ^ 谷口研 2014, pp. 320-324.
  52. ^ 桑田 1983, pp. 230-231.
  53. ^ “大河ドラマわが町に 誘致準備会発足 長岡京など7市”. 京都新聞 (京都新聞社). (2010年11月20日). オリジナル2010年11月22日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20101122223325/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101120000042 
  54. ^ “光秀とガラシャの大河ドラマ実現へ 7市町が協議会”. 京都新聞 (京都新聞社). (2011年3月29日). オリジナル2011年4月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110401150553/http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110329000054 
  55. ^ NHK大河ドラマ誘致推進協議会ホームページ 2015年1月24日確認
  56. ^ 谷口研 2014, pp. 18-19
  57. ^ 真書太閤記六編巻之十五「明智光秀坂本へ帰る事」
  58. ^ a b c 『ここまでわかった!明智光秀の謎』収載「明智光秀の「首塚」- その伝承が語る人間像」室井康政 2014年 新人物文庫 KADOKAWA
  59. ^ 亀岡市老人クラブ連合会『ふるさと亀岡乃ちゑ』1982年
  60. ^ 谷性寺
  61. ^ 「福屋金吾旧期文書」『阿波国古文書 三』
  62. ^ a b c 湯浅常山の著書『常山紀談
  63. ^ 藤田達生「織田信長の東瀬戸内支配」、小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』所収 和泉書院、2006年
  64. ^ 明智平」『日光パーフェクトガイド』 日光観光協会編、下野新聞社1998年3月30日ISBN 4-88286-085-62012年4月19日閲覧。
  65. ^ 大阪城博物館
  66. ^ 「陰謀と暗号の歴史ミステリー」(平成20年4月15日発行 SAKURA MOOK33 編集発行人 西塚裕一 発行所 株式会社笠倉出版社)によると、
  67. ^ 黒川真道 国立国会図書館デジタルコレクション 『美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記』 国史研究会〈国史叢書〉、1915年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948838/96 国立国会図書館デジタルコレクション 
  68. ^ 濃姫姉小路頼綱の室の生母がいるという。







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