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だて-まさむね 【伊達政宗】
戦国武将覚書 |
伊達政宗(だて まさむね) 1567~1636
◇父:伊達輝宗 室:田村清顕女、飯坂宗康女、塙団右衛門女、柴田宗義女、芝多常弘女、多田吉廣女、村上内膳正重女、高田次郎右衛門女? 子:伊達秀宗、陸奥守忠宗、飯坂宗清、亘理宗根?、伊達三河守宗泰、宗綱、宗信、右衛門尉宗高、松竹丸、宗実、兵部大輔宗勝
出羽・伊達氏第17代当主。米沢城主。幼少期痘痕で片目を失明している。1584年若干18歳にて家督を継ぐが、翌年二本松義継により父輝宗を拉致され、これを失う。その後勢力を拡大して、1589年には会津・蘆名氏を摺上原合戦で破り、近隣諸家を尽く勢力下に置いた。しかし、羽柴秀吉の小田原征伐に際してこれに参陣し、会津等所領の大半を失う。秀吉死後は、徳川家康に接近し、関ヶ原合戦では越後・上杉氏と戦うが、一方で一揆を扇動した疑いを掛けられ、詰問されている。
近代文学作品名辞典 |
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伊達政宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 14:34 UTC 版)
| 伊達 政宗 | |
|---|---|
伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆)。
数少ない隻眼で描かれた肖像画。 |
|
| 時代 | 戦国時代から江戸時代前期 |
| 生誕 | 永禄10年8月3日(1567年9月5日) |
| 死没 | 寛永13年5月24日(1636年6月27日) |
| 改名 | 梵天丸(幼名)、政宗 |
| 別名 | 藤次郎(通称) ほか |
| 諡号 | 貞山 |
| 神号 | 武振彦命 |
| 戒名 | 瑞巌寺殿貞山禅利大居士 |
| 墓所 | 瑞鳳殿、青葉神社 |
| 官位 | 従五位下・左京大夫、侍従、越前守、 従四位下・右近衛権少将、陸奥守、 正四位下・参議、従三位、権中納言、 贈従二位 |
| 幕府 | 室町幕府:陸奥国守護 |
| 主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 →家光 |
| 藩 | 陸奥国仙台藩主 |
| 氏族 | 伊達氏 |
| 父母 | 父:伊達輝宗、母:義姫(最上義守娘) |
| 兄弟 | 政宗、小次郎(政道)、秀雄、千子姫 |
| 妻 | 正室:愛姫 側室:新造の方、飯坂の局(松森御前)、 塙方(塙直之女)、於山方、弘子姫、香の前(お種) 勝女姫、妙伴 |
| 子 | 秀宗、忠宗、宗清、宗泰、宗綱、宗信、 宗高、竹松丸、宗実、宗勝、亘理宗根、 五郎八姫、牟宇姫、岑姫、千菊姫、津多 |
伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。
後世には、幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから「独眼竜」等と称されている。他に「東北王」や「奥州の龍」とも。
目次 |
生涯
幼年期
伊達政宗は、出羽国米沢城で生まれた。1577年(天正5年)に元服する。代々陸奥守護を務めてきた伊達家の伝統により、おじの石川昭光同様、足利15代将軍足利義昭から「昭」の偏諱をうけ「伊達昭宗」と名乗る予定であったが、当時義昭は遠く備後に下向中であったために叶わず、父の命により文武にすぐれた先祖(大膳大夫政宗)の名「政宗」を名乗ることとなった。
家督相続から摺上原の戦いまで
1579年(天正7年)には仙道の戦国大名であった三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする。1581年、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める。
1584年(天正12年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。父・輝宗は41歳の働き盛りであり、政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、輝宗の決意は固く、家督を譲り受けることになった。
小手森城主・大内定綱は二本松城主・二本松義継と手を組み、田村氏の支配から脱却し、政宗に対抗しようとした。天正13年(1585年)、政宗は小手森城へ兵を進める。討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城の撫で切り)を行い、非情な一面を見せた。豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州では皆殺し戦術は前代未聞の大事件であり、近隣の戦国大名を恐怖に陥れた。これは、近隣諸国への見せしめである。しかし、一方で政宗は後年、戦略的見地から定綱を家臣の列に加えている。
大内定綱の没落を間近で見た二本松義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵されることになった。ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。当時狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って二本松勢を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害したという。この事件については、輝宗が自分もろとも義継を撃てと命じたとの説や、政宗による父殺しの陰謀説など、諸説ある。
その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲し、二本松氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた。数の上では5分の1以下の戦力であった伊達軍は苦戦を強いられたが、重臣・鬼庭良直を殿軍として持ち堪え、敵の撤退により窮地を脱した(人取橋の戦い)。
政宗は更なる侵攻を行い、1588年(天正16年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く。
関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
同年、北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北。これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。また伯父・最上義光とも一触即発の事態となるが母・義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
1589年(天正17年)には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦う。この戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という。蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた。蘆名義広は1万5000の兵を率い、政宗も2万1000を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いた。この戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵2000余りを討ち取ったという。黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした。この戦いと前後して、白河義親、石川昭光、岩城常隆が次々と政宗に服属した。
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった[1][2][3]。
小田原の役と豊臣政権下
この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。伊達家にも秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が幾度か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。
秀吉の小田原攻囲(小田原の役)中である1590年(天正18年)5月には、豊臣政権の五奉行筆頭の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て越後国、信濃国を迂回し徳川領である甲斐国を経て小田原に至った。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は政宗の本領を安堵した(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収され、72万石になった)。記録ではこのとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗を事実上監禁して脅したが、政宗は詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させた。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。政宗が秀吉に服属したため、政宗と同盟を結んでいた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城、会津・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。ここに秀吉の「日本統一」が達成された。
参陣前に母親に毒殺されそうになり、母親を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したという説が通説となっているが、毒殺創作説も存在する。母・義姫(保春院)はその後も伊達家にとどまったが、4年後に実家の兄・最上義光のいる山形城へ突如出奔した(詳細は義姫参照)[4]。
翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を扇動していた嫌疑をかけられる。これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。そこで政宗は上洛。一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城へ58万石に減らされての転封となり、城名を岩出山城に変えた。このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であったことから、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した。[5]
文禄2年(1593年)秀吉の文禄の役に従軍。従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。3000人もしくは1500人の軍勢であったとの記録がある。他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった[6]、と伝えられる。朝鮮半島では明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際して、普請を免除されていたにも関わらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍した。ちなみに政宗は、慶長の役には参加してない。
文禄2年以降浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権のパイプとなっていたが、文禄5年8月14付けの書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した[7]。秀吉に早くから服属して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立したため、五大老には選ばれなかった。
文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した。秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。政宗も秀吉から謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れた。
秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。
関ヶ原合戦と最上陣
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)に家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して、7月25日に登坂勝乃が守る白石城を陥落させた。家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かった。この際、家康は政宗に岩出山転封時に没収された旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。これは、家康が上杉景勝を会津に釘付けにしておくため、政宗の東軍参加が是非とも必要であったことから、100万石のお墨付きを与え、東軍参加を促したとされる。
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃した際、留守政景を名代として最上に援軍を派遣した(長谷堂城の戦い)[8]。9月25日には茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた。
政宗は長谷堂城の戦い後、直江兼続が米沢に帰ったのを見て取ると、伊達・信夫郡奪還のため仙道方面への侵略を開始し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。宮代表の野戦では大宝寺義勝(繁長の子)率いる上杉軍を破ったものの、つづく福島城包囲戦では城の堅い守りに阻まれ、さらに補給線を上杉軍に断たれたため、翌日には北目城へと撤退した(後世の軍記物に見える松川の戦いのモデル)。
この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還出来たのは刈田郡のみであった。加えて、政宗が南部氏領内で発生した和賀忠親による一揆を煽動し、白石宗直らに命じて忠親を支援するため南部領に4,000の兵を侵攻させていたことが発覚した(岩崎一揆)。この一件は最終的には不問に付されたものの、政宗への恩賞は、自力で攻略した陸奥国刈田郡2万石の加増のみにとどまり、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。
仙台開府と慶長遣欧使節
慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。 徳川氏から松平の名字を与えられ、「松平陸奥守」と称した。[9]
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。
大坂の役
慶長19年(1614年)の大坂の役(冬の陣)では大和口方面軍として布陣した。和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。その年の12月、将軍秀忠より伊予宇和郡に領地を賜る。翌年、慶長20年(1615年)の大坂の役(夏の陣)道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった[10]。
一説によれば、翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『薩藩旧記巻六』)。
この風聞は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。ただし、政宗がこの事件についてお咎めを受けた記録は無く、幕府の記録(寛政重修諸家譜)にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、伊達の味方討ちについては信憑性に欠ける。(詳細は神保相茂の項を参照)
戦後、徳川家康の論功行賞により南海道の伊予国の内で10万石が加増された。政宗は庶長子である伊達秀宗にそれを全部与え仙台藩から分家独立させる。秀宗は宇和島藩初代藩主となった。
晩年
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻から江戸へ東廻り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えるが、寛永13年(1636年)正月頃から食事が喉につかえるといった体調不良を訴え始める。しかし前年より始まった参勤交代制に従い、同年5月1日には江戸城で将軍家光に謁見。病をおして参府した政宗に感激した家光は、その後しばしば政宗の居留する桜田の伊達家上屋敷に見舞いのため老中を派遣した。5月21日政宗危篤。この報を受けた家光は直ちに自ら伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。感激した政宗は髪を整え、裃を来て3人の老中に身体を支えられながら家光を迎えたという。
5月24日早朝死去。享年70(満68歳没)。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
法名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士(尊称:貞山公)。
遺訓
- 一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
- 一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
- 一、朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
- 一、今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。
人物・逸話
独眼竜政宗
諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い[11]。本人もそのことを誇りにしていたようで、実際政宗はその先祖にまつわる所への埋葬を望み、結果的にそこへ埋葬された。
政宗を「独眼竜」と称したのは1901年(明治34年)に発行された『独眼竜伊達政宗』(高橋紫燕・著、久保天随・校、大阪:鍾美堂)が最初である。左記著書は、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで原文の詳細を読むことができる。「独眼龍」は、元々唐の李克用のあだ名である。『資治通鑑』巻第255に「克用一目微眇なり。時人、これを独眼龍と謂う」とある。
右目を失った原因は天然痘であった。政宗が隻眼の行者、満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗の存命中から広く知れ渡っており、東北地方の昔話の中には「仙台様(政宗のこと)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅に出る農民の話」などが伝わっている。(東北放送ラジオ「みちのくむかしばなし」で語られた)
妻・子供など
- 正室・愛姫と、少なくとも7人の側室がおり、五郎八姫など十男四女を儲けた(他に落胤一男一女が確認されている)[12]。
- 政宗は正室・愛姫との間に儲けた嫡出の次男・忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・猫御前[13])との間に生まれた長男・秀宗はあくまで庶子とみなし、また豊臣家との関係もあったため本家を継がせなかった[14]。
- 衆道関係においては、小姓の只野作十郎(只野伊賀勝吉)へ宛てた書状が残されている[15]。同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子重綱に対しても、大坂の陣出陣の前夜、翌日の先陣を願った重綱に、「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言って重綱の頬に接吻した、との記述が『片倉代々記』に残っている。
処世など
- 大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭した。証拠の文書を突きつけられた際は、証拠文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行ない、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。実際には2種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。
- 政宗は朝鮮出兵に同行していない説があるが、俗説であり事実ではない。政宗らが渡鮮したことを実証するものとして、隠居所である若林城(現宮城刑務所)や政宗が再建した瑞厳寺、瑞鳳殿のある経ヶ峰歴史公園に朝鮮から持ち帰らせた「臥龍梅」が残っている。このうち、経ヶ峰歴史公園の「臥龍梅」は昭和54年(1979年)の瑞鳳殿の再建に際して、若林城跡から移植したものである。
- 最上氏の居城である山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙い、漁夫の利を奪うよう進言したが、政宗は母親の安全を理由にこれを却下し援軍を出したとされるが、定かではない。しかし、援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していた。上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたとされる。
- 政宗には離間、扇動工作等をした色々な嫌疑が絶えず、黒脛巾組という忍者集団がいたと仙台藩士の半田道時の伊達秘鑑には掲載されている。その一方で、『政宗記』などには黒脛巾組という名称の記述は見当たらない。参考(葛西大崎一揆や岩崎一揆等)。
- ある日、秀吉は政宗にこう言った。「汝が予を裏切ろうとしておることを予は熟知している。よって汝は殺されてしかるべきだ。だが汝は名護屋に赴き、朝鮮に渡り、よく尽くしたゆえ、生命を助けてやることにした。ただし汝を奥州には帰らせず、予の近くに留め置くであろう」(フロイス日本史)そして人々は、秀吉はすでに政宗の俸禄を没収した、あるいはしていないと噂したという。
徳川家との関係
- 大坂夏の陣後には天下安泰を願う家康に心服し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望を諦めざるをえず、領国経営に努めたようだが、この説は、政宗の野望説を唱える史料(政宗は徳川幕府を倒し、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想を立てていたとするもの)などから否定されることも多い。
- 徳川家光からは非常に尊敬されており、「伊達の親父殿」と呼ばれたこともある。政宗本人の器量に加え、自らを将軍として立ててくれた後見人であり、また敬神する祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあって、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう。幕府の意向はどうあれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様を遇する程度を超えていた。
- 将軍の前での脇差帯刀を許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると、中身は木刀であったという。
- 二条城へと参内する際、御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。
- 政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いに来た。政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。
- 実戦経験がない家光は、しばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をした。ある日、政宗と佐竹義宣を招いて摺上原の戦いについて色々質問したが、勝者であった政宗が雄弁であったのに対し、敗者の佐竹義宣は始終無言で、唇を噛みしめているだけであったという。
- 老年期、徳川秀忠を屋敷に招いた際、秀忠に生前の豊臣秀吉から下賜され常に差していた刀を譲るように要求された際、「殿に御献上する品を選ぶのは家臣である私の勤めです。殿自ら子供のように品を所望されるのは、将軍家の品位を大きく損なうものでございます」と反駁したと伝えられる。
- 政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。支倉常長はローマとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している[16]。また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。
テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた。
- 支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。
- 政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたとされる。
- 元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候。
(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)- 大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし。
(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)— 『東奥老子夜話』より抜粋
- 幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。
- 寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。
- 徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。
- 晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何。」というものであり、前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまず是如何に(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う2通りの解釈ができてしまう。政宗自身がどちらともとれるように作った可能性もあるが、政宗の残した大きな謎となっている。
- 仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
- 家光の就任の宣言は「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」という大変威圧的なものであった。政宗はこれに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。
- 家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光を説得、以後下宿を行わなくなったという。
趣向など
- 料理が趣味。元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていた。
- 政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と言う名言を『命期集』に残している。この発言に、料理評論家の多くは「政宗が現代にいたら、相当な料理人になっていただろう」と驚愕した例も多く、またこの名言を崇める料理人も和洋中を問わず多い。服部栄養専門学校をはじめ伊達家御用蔵が開校した宮城調理製菓専門学校では、この政宗の言葉が校訓になっているほど。
- 仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だった。仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。また仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれているという。また笹蒲鉾も政宗考案説があったが、宮城県水産試験場の資料では、江戸時代中期に生まれた物と書かれてある。
- 料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったと言う。特に若年から習っていた能には傾倒しており、奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたり、自身も豊臣秀吉や徳川家光の前で太鼓を打つなどしている。政宗が晩年、能に使用した費用は年間3万石余に及んだという。
- 秀吉が吉野で歌会を開き武将達はそれぞれ詩歌を詠んだ時、政宗が最も和歌に精通し優れていた。そのため秀吉も「鄙の華人」と褒め讃えた。
- 隙のない印象の政宗であるが、酒には滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。
- 養生法が変わっていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。
- 朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。
- 身体の健康を常に気遣っていた。
- 喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた(当時の人々は煙草を薬として服用した)。遺品に、愛用のキセルがある。
- 遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかとする説もある。政宗の長女の五郎八姫は一時期キリシタンだったことがある。
- 大悲願寺13世海譽の弟子として在山していた弟・秀雄の元を政宗が訪れ四方山話をし庭にあった白萩を気に入り所望し[17]貰い受け、前述の臥龍梅を大悲願寺に贈った。
その他
- 映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーのマスクは仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜をモチーフにデザインされた[18]。
- 明治天皇は政宗の事を「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いを馳せて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗の事である」と評している[19]。
- 摺上原の戦いの後、黒川城での催された戦勝祝いの席で、「音もせで 茅野(かやの)の夜の時雨来て 袖にさんさとぬれかからぬらん」と即興で歌った者がおり、この歌が後に結婚式などのおめでたい席で歌われることがある東北民謡「さんさ時雨」の元歌になったと言われるが[誰?]、俗説であり事実ではない。福島県北部と宮城県では、現在でも結婚披露宴等の祝いの席ではさんさ時雨が歌われるが、一方、福島県会津地方ではさんさ時雨を歌うと顰蹙を買うことがある。
- 宮城県宮城郡松島町にある伊達光宗の菩提寺円通院には、伊達一本締めという仙台藩祖・伊達政宗ゆかりの一本締めが伝承されている。「いよ~っ、パパパン!、いよ~っ、パン!」という「3」と「1」の拍子の組み合わせが「三国一」を表しており天下を狙った政宗の夢が込められ、慶長遣欧使節の支倉常長もこの伊達一本締めで見送られ、徳川政権が安定してからは秘めた意味が露見しないよう姿を消したと言われている[誰?]。そのため資料が一切残っておらず、伊達家所縁の円通院に代々人づてに伝えられていた[20]。しかし手を叩く回数が合計4回と偶数で縁起が悪いなどのさまざまな疑問点があり、この逸話自体の信憑性が近年問われている。仙台では「伊達家戦勝三本締め」が仙台伊達家の正統な作法として現在最も広く行われている。奥州仙台 おもてなし集団!伊達武将隊は仙台伊達家18代当主直々に「伊達家戦勝三本締め」を伝授された。また仙台伊達家では乾杯時の発声が通常の「乾杯〜!」ではなく、「戦勝〜!万歳〜!」と甲冑を身につけた時の姿勢で堂々と胸を張って腹から発声するという全国的に見て独特な振る舞いで執り行う。これは伊達家における戦勝祈願・出陣式および戦勝祝いの御作法からきている。
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- ^ 『戦国武将合戦事典』吉川弘文館、2005年の伊達政宗の項目。
- ^ 東北地方の戦国時代史研究家である小林清治は、政宗の勢力拡張について、平安後期に白河以北の地を席巻した奥州藤原氏の勢力に匹敵するものであると評した。(小林清治『伊達政宗』吉川弘文館、1985年、p. 47.)
- ^ 重修真書太閤記では、「正宗終に二本松大崎一栗などを合わせ150万石余を知行しけるが」と記述されている。政宗の領土は面積的には、東北地方の1/3に留まる。しかし、太閤検地時に石高の高い東北地方南部を支配しているため、石高では高くなる。石高の言及はないが、政宗が奥羽の30余郡を支配したとの同様の記述は氏郷記にもある。
- ^ ただし、政宗の朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしていることや、義姫が最上家に戻ったのは事件のさらに数年後とする史料が新たに発見された。この事件には小次郎擁立派一掃のための政宗自作自演説もある。
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と松平氏下賜」
- ^ 伊達男とは政宗がかなりの男前だったことから苗字を取って伊達男となった、と思われることが多いが、伊達政宗の数百年前から「男立て」(おとこだて。男らしくあるいは勇敢に振舞う、という意味だが、徐々に男らしさを演出する傾向が強くなっていく)という言葉があり、それが略されて「だて」となり、やがて「伊達」と結び付けられていった。
- ^ 山本博文『天下人の一級史料』柏書房、2009年
- ^ 一説によると重臣であり軍師格である片倉景綱(小十郎)は上杉・最上両軍が戦い、山形城が落城し、上杉勢が疲弊しきったところを討つべしと進言したが、母・義姫がいる山形城を見捨てるに忍びないと、政宗はこの策を受け入れなかったという。
- ^ 村川浩平「松平氏下賜」
- ^ 広島県「水野記」『広島県史近世資料編1』1973年。
- ^ 伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきた。しかし、政宗の元服は足利義昭が織田信長によって追放された後であった為、一字拝領は無かった。
- ^ 正室・愛姫が産んだ嫡出子は夭折した子も含めて記録に残っているが、側室が産んだ庶子は成人した子しか記録に残っていない可能性も考えられる。また側室も政宗との間に子供を儲けた女性だけが正式に記録され、実際には他にも関係を持った女性がいた可能性もある。
- ^ 猫御前の通称は後世の創作であるが、山岡荘八の小説及び大河ドラマによって有名になった。
- ^ 秀宗は幕府より新規に国主格大名として宇和島10万石の所領(宇和島藩)を与えられた。
- ^ ちなみに作十郎と政宗の側室勝女姫は実の姉弟(いずれも多田吉広の子)である。
- ^ ただし、この発言は常長自身によるものでなく、ルイス・ソテロによって“意図的に誤訳”されたものである可能性も指摘されている(松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』(1987))。
- ^ 「追って曽掛に候へ共、折節に任せ、小袖壱重ね進め候。以上。態飛脚を以って申し入れ候。先度は参り、会面を遂げ本望に候。仍無心の申す事候へども、御庭の白萩一段見事に候き、所望致し候。先日は申し兼ね候て罷り過ぎ候。預候はば恭かるべく候。猶後音を期し候。 恐惶謹言 松平陸奥守 八月廿一日 花押 彼岸寺御同宿中」
- ^ 外部リンク - 仙台NEW 第9号 / ダースベイダーと伊達政宗…その意外な関係
- ^ 『伊達家史叢談』(伊達邦宗)
- ^ 河北新報『とことんフォーカス』4月9日版
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」
- ^ 村川浩平「松平氏下賜」
- ^ この時点で、水戸徳川家当主・頼房、加賀前田家当主・利常、薩摩島津家・家久と官位が並ぶ。
- ^ 鈴木尚著「骨が語る日本史」
- ^ 外部リンク瑞鳳殿公式HP/三藩主の墓とその遺品
固有名詞の分類
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