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かいじょう ―じやう 0 【開城】

(名)スル

降伏して敵に城・要塞明け渡すこと。
旅順―」

かいじょう かいじやう 【開城】



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開城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2008/12/09 13:06 UTC 版)

開城
位置
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各種表記
チョソングル 개성
漢字 開城
平仮名
(日本語読み仮名)
かいじょう
片仮名
(現地語読み仮名)
ケソン
ラテン文字転写 {{{latin}}}
英語 Kaesong

開城(ケソン、かいじょう)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある都市高麗の王都として、また商業の中心として栄えた古都である。

朝鮮戦争の休戦後、周辺部も含めて長らく北朝鮮の直轄市として扱われてきたが、南北共同の工業団地「開城工業地区」の建設とその特区としての運営が行われるに伴い、開城周辺地域の行政区画が再編成されている。中心部は現在、開城市として黄海北道に所属しているとみられる[1]

目次

概要

開城市内
開城市内

朝鮮八道では京畿道に属し、朝鮮半島の主要都市の中では、最も板門店に近い位置にある。

市域の東はそのまま軍事境界線になっている。開城市街地から、板門店までの距離は8km。典型的な城郭都市であり、歴史的に商都として知られていた。市内には高麗時代の遺跡が多く残っている。市街地周囲は松岳山(海抜489m )、子男山などの多いに囲まれているので松都と呼ばれる事がある。韓国政府の協力により工業団地の建設が進み軽工業が盛んで韓国企業も多く進出している。しかし韓国の李明博大統領は対北朝鮮政策を見直す方針であり、反発した北朝鮮が2008年3月に開城の韓国関係者の一部を追放するなど変化が起きている。

朝鮮人参(高麗人参)の産地として有名で、人参酒は北朝鮮の主要な輸出品となっている。

儒学の最高教育機関であった「成均館」が残るほか、王建王陵、観音寺、高麗王宮の宮殿の基壇跡である満月台、開城南大門、旧市街に架かる石橋であり高麗に忠誠を尽くした学者・政治家の鄭夢周李成桂側の人物に暗殺された場所である善竹橋などがこの街の歴史的な見所である。

歴史

開城成均館、かつての儒学の学院
開城旧市街、手前に古い韓屋の町並みが残る

百済がこの周辺まで支配していた時代は「冬比忽(동비홀、トンビボル)城」と呼ばれており、高句麗時代を経て統一新羅757年景徳王16年)に地名を「開城郡」と中国風の漢字2文字に改めた。松嶽などの名も用いられた。

新羅末期(後三国時代)、松嶽(開城)を本拠としていた豪族の王建は、群雄の一人である弓裔に投降してその部下となり、弓裔を迎え入れた。弓裔は901年に松嶽で後高句麗王を称した。弓裔はやがて鉄円(現在の江原道鉄原)に都を移すが暴虐さを増したため、918年に王建は反乱を起こして彼を殺し、その勢力を継承して高麗を建国した。王建は翌919年に首都を故郷・松嶽に遷し開州と改めた。開州には王の居住する寿昌宮のほか、仁徳宮、寿徳宮などの宮殿があった。1015年に遣わされた郭元は、「三五千を下らぬ民がいる」と語っており、この頃の人口は30万人と推計されている[要出典]。高麗後期、モンゴルの侵攻により江華への遷都を余儀なくされた30年間を除き、約500年にわたって都として栄えた。礼成江河口にある開州の外港・碧瀾渡は貿易港として繁栄した。

その後、高麗が滅亡し、李氏朝鮮を建国した李成桂が都を現在のソウルに遷した。李氏朝鮮の時代も開城は朝鮮の重要都市であり続けた。特に商業が盛んな都市で、「松房」または「松商」と呼ばれる開城商人は朝鮮半島各地で活躍した。南北朝鮮では、世界初の複式簿記による帳簿は開城商人が発明したと主張している(四介治簿法)。

日本の植民地期の1930年には開城府が置かれた。

1945年日本敗戦で、朝鮮半島における日本統治は終焉したが、代わって第二次世界大戦連合国による統治が始まり、北緯38度線上を境に北はソ連が、南はアメリカが統治した。分割統治は当初、一時的なものであったはずであった。しかし、程なくして米ソ間で冷戦が始まり、連合国による分割統治中に南北それぞれで政権が立ち上がった。南北の境界は北緯38度線上に引かれていたため、この時点では、北緯38度線以南にある開城の中心部は、韓国側の統治圏内だった。また当時、人々の南北間の往来も、盛んではなかったものの可能ではあった。

1950年朝鮮戦争が始まると、開城は真っ先に北側の朝鮮人民軍の手に渡った。その後アメリカ軍を中心とした国連軍が応戦したことで一時は開城全域が南側のものとなった時期もあったが、北側にも中国から義勇軍が参戦したことで開城は再び北側のものとなり、南北の軍の最前線は開城のすぐ南で膠着した。

1953年、板門店での休戦協定締結により、朝鮮戦争は停戦(休戦)となる。それ以来、人々の南北間の往来は絶望的となった。更に、軍事境界線は北緯38度線からややずれていたことから、戦争前は南側の韓国の統治圏内だった開城は、戦争後は北側の朝鮮民主主義人民共和国の統治圏内になった。開城の人々は戦争の際、南に逃れた人もいれば、開城に留まった人もいた。この結果、南北間の離散家族は開城出身者が最も多い。

また、韓国政府統治範囲で首都圏を形成している旧京畿道所属地域の中では、開城だけが例外的に、軍事境界線よりも北に位置している。このことや、軍事境界線に最も近い主要都市であることから、開城とその周辺地域は、朝鮮民主主義人民共和国においてどの道にも属さない「開城直轄市」として1950年代半ばから行政がなされてきた。

2002年までの開城直轄市

2002年までの「開城直轄市」の行政区分は以下の通りであった。

  • 開城市(ケソンシ、개성시
  • 長豊郡(チャンプングン、장풍군
  • 開豊郡(ケプングン、개풍군
  • 板門郡(パンムングン、판문군

2003年、開城市の一部と板門郡が特区「開城工業地区」として再編されるとともに、開城直轄市が解体されて黄海北道へ編入された。一時期「開城特級市」が設立されたという報道もなされたが、現在は開城市として黄海北道に属しているとみられる。

韓国人にとって陸路での観光が可能な北朝鮮唯一の都市であるが、韓国人に貧しい状況を見せないよう、観光開始に伴い北朝鮮政府が住民に自転車を配ったものの、街に人通りは少なく動いている車はほとんどない状態で、街に電気の通っている形跡さえほとんど見れらないという[要出典]。ただし韓国が協力した「開城工業地区」の中にはソウルとまったく同じバスが走っておりコンビニエンスストアもある。だが、政府関係者やエリート層を除き物質的に住民は困窮しており、工業団地で働く北朝鮮労働者は、まず韓国企業が肉入りスープなどを食べさせ栄養状態を改善してからでないと労働力にならないほど、栄養状態が悪く貧困な状況である。

年表

王建王陵
  • 919年 - 高麗を開いた王建が都を移し、開城郡と松嶽郡を合わせて開州と称する。
  • 995年 - 開城府と称する。
  • 1232年 - モンゴルの侵攻を受け江華に遷都。
  • 1270年 - 開京(開城)に還都。
  • 1394年 - 朝鮮王朝を開いた李成桂により漢陽に遷都。
  • 1399年定宗が都を開京に戻す。
  • 1405年太宗が都を再び漢陽に戻す。
  • 1438年 - 開城府を設け、開城府留守の職を置いた。
  • 1895年 - 開城府の留守職を廃して新たに観察使を置き、13郡を管轄した(二十三府制)。
  • 1896年 - 京畿道に属し開城府尹が置かれた(十三道制)。
  • 1906年 - 開城郡となった。
  • 1914年 - 旧市街地は開城郡松都面となった。豊徳郡が開城郡に併合される。
  • 1930年 - 府制が施行され、松都面ほかが開城府となった。郊外は開豊郡に編成された。
  • 1949年 - 開城市になる。
  • 1951年 - 開城市・開豊郡・板門郡を置き、開城地区として北朝鮮の中央政府の管轄下に置かれる。
  • 1955年 - 開豊郡・板門郡を含めた開城直轄市が発足。
  • 1960年 - 黄海北道長豊郡を開城直轄市に編入。
  • 2002年 - 開城市と板門郡の一部を工業地区に指定し、板門郡を廃止。
  • 2003年 - 直轄市を廃して開城市とし、開豊郡・長豊郡とともに黄海北道に所属。
  • 2004年1月 - 開城特級市が置かれる。
  • 2006年9月現在 - 開城市は黄海北道に所属。

開城工業地区

開城工業地区内のファミリーマート
開城工業地区のモデル団地
開城の中心部

開城工業地区(ケソンこうぎょうちく)は、2002年に開城市・板門郡(当時)内に設置された特区である。地区内には開城工業団地(開城工団)が開発され、韓国企業の工場が操業されている。

2000年8月朝鮮労働党総書記金正日現代グループ会長鄭夢憲との合意の下、北側が土地と労働力を、南側が技術と資本を提供して、開城に一大工業団地を造ることが決まった。2002年11月には、朝鮮民主主義人民共和国で開城工業地区法を制定。2003年6月、3.285km²を造成する第1期工事が起工され、2007年の完成予定で工事が進められたが、2008年7月現在、相当程度が完成しつつあるものの、建設工事は進行中である。

開城工業地区は第1段階100万(3.285km²)のうち、まず28,000坪について、15の企業を入居させるパイロットプラン(モデル団地)が実施中された。15の企業のうち、全ての企業が操業を開始している。第1段階の建設費用は2,205億ウォン(約250億円)、そのうちインフラ施設が1,095億ウォン(半分弱)となっている。現在は、第1段階全体に対する分譲が行われ、工場建設が順次進んでいる。

資金の拠出、設計、分譲は韓国土地公社(韓国の国営工業団地デベロッパー)が行い、施工は現代峨山(現代自動車などと同じ現代グループであったが、現在、系列関係は弱い)が行っている。

非武装地帯の北方限界線から僅か1km程の最前線に工業団地が建設されている。北朝鮮が主権を放棄した訳ではないので、この工業地区は、北朝鮮の法律が適用され、かつ実質的な工業団地の運営は韓国側が行うというユニークな運営形態を持つ。ここでは、既に約30,000名の北朝鮮の労働者と約1,300名の韓国の労働者、技術者が同じ職場で働いている。金剛山観光事業でも韓国側と北朝鮮側が共に働いている場面が増えてきており、韓国と北朝鮮の人々が共同で事業に取り組む開城工業地区と金剛山観光地区の発展は、南北の融和を目指す太陽政策の大きな成果として評価されている。

その一方、開城工業地区で働く北朝鮮側の労働者は、韓国側から月あたり57.5ドルの給料が支払われているが、給料は労働者に直接渡されることはなく北朝鮮側の当局を通して渡される決まりになっている。北朝鮮が労働者に一体どれくらいの月給を支払っているのかは明らかにされていないが、その殆どが北朝鮮当局の懐に入っているものと推測されている。この点について最近、アメリカから非難が寄せられている。

2006年7月の北朝鮮ミサイル問題、及び同年10月の核実験の影響で、北朝鮮の収入源となっている開城工業地区事業について改めてアメリカ側から問題提起がなされるなど、北朝鮮情勢の緊迫化に伴い事業の先行き不透明感が増したが、事業は中断することなく継続している。

モデル団地に続いて、第1段階の残りに対する分譲が行われつつある。2005年9月には一般工業用地17件、コンソーシアムで6社が加入する協同化事業団地2件、アパート型工業団地1件の企業、機関の選定が行われた。現在、14の企業、機関が統一部(省に相当)の事業承認を受けている。

現在、インフラ設備として韓国からの10万kW高圧送電線浄水場汚水処理場、廃棄物処理施設(工業地区外に1.5万坪を北朝鮮側が提供)などが建設され、移動通信、インターネット用の設備(韓国と今後接続予定。電話は200回線ほどが現在供用中)の供用についても南北間の合意が見られたが、2008年6月末現在、実行が中断している。

観光

開城旧市街にある民俗旅館

高麗の古都である開城は観光地としても有望な場所である。 なお、日本の外務省は2006年の北朝鮮の核実験に伴い「北朝鮮に対する渡航情報危険情報)」を出し「渡航を自粛してください」としている(罰則はない)。 [1] また、超望遠レンズつきスチルカメラ・携帯電話GPSは北朝鮮国内への持込が禁止されている。買い物にはドルユーロなどが使える(ただし、下記ソウルからの開城観光の場合、一部を除きドルのみ使用可能)。

ソウルからの観光

開城はソウルから近く、2005年8月にソウル発の日帰り試験観光が実施された。その後北朝鮮側に支払う観光料などの条件面で交渉が続いた。2007年12月から観光会社の現代峨山(ヒョンデアサン)が実施する、韓国側からのバスによる陸路での観光は開始された。大韓民国国民は大韓民国旅券ではなく観光証を携帯する。外国人も参加可能であるが、外国人は旅券を持参する必要がある(都羅山で、通常の出入国審査がある。ただし、出入国スタンプには「都羅山開城」の但し書きスタンプが添えられる)。郊外の寺など観光名所以外でバスを降りたり、許可された場所以外への自由行動は許されず、バスの中からの撮影や北朝鮮側のガイドや住民を撮ることも厳禁されている。撮影は観光地でのみ許可されており、北朝鮮を出る際に撮影データがチェックされる。街の貧しい現状を見せたくないためと思われる。もちろん住民と接触することはできず、常に韓国側ガイドや北朝鮮政府の役人が観光客に付き添い監視しており、街や道路沿線に観光バスを監視する兵士も配備されている。

2008年11月24日、北朝鮮側が12月1日から開城観光中止と、すべての民間団体、開城工業団地関係者の軍事境界線通過を制限すると発表し、11月28日をもって開城観光は中断された。これにより、すでに中断している金剛山観光も含め、韓国側からの北朝鮮への陸路観光が全面中断することになる。

平壌からの観光

いくつかの日本国内の旅行会社が北朝鮮へのツアーを扱っているが、そのほとんどに平壌を拠点とした開城への日帰り観光が含まれている。基本的に写真・ビデオともに撮影は自由である。ただし観光名所以外では下車できないので、街中の写真などは車内からの撮影に限られることになる。

交通

ソウルからの開城への鉄道は2003年6月までに修復され、2007年5月には列車の試運転が行なわれた。同年12月からは、開城工業地区に隣接する板門駅と韓国側の山駅との間で、貨物列車日曜日を除いて毎日1往復運行されていた。しかし、北朝鮮側が南北間の列車往来を中断すると発表し、2008年11月28日から再び中断した。なお、旅客列車の定期運行は今日まで行なわれていない。

教育施設

  • 松都政治経済大学

関連項目

  1. ^ 大韓民国統一部북한에서 쓰고 있는 도・시・군・구역〔北韓で使われている道・市・郡・区域〕」(2006年9月現在)

外部リンク

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