沼尻の合戦とは? わかりやすく解説

沼尻の合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 17:19 UTC 版)

沼尻の合戦(ぬまじりのかっせん)は、1584年天正12年)の5月から8月にかけて、後北条氏陣営と佐竹氏宇都宮氏陣営の間で行われた合戦。この合戦の最大の特徴は、文献を信ずるならば北関東連合軍側が当時最新兵器である鉄砲を8,000丁以上用意したという点である。この数は織田信長が3,000丁を動員したとされる著名な「長篠の戦い」を上回っている[1]


  1. ^ 恩田浩孝『座禅院昌尊の生涯 日光山の終焉と上三川 今泉家』(随想舎、2015年)P228
  2. ^ a b 齋藤 05
  3. ^ 中根正人「戦国期の東関東ー真壁氏と佐竹氏の関係を中心に」戦国史研究会 編「戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-308-4 P85-86.
  4. ^ 戸谷穂高「沼尻合戦」江田郁夫・簗瀬大輔 編『北関東の戦国時代』高志書院、2013年/所収:戸谷『東国の政治秩序と豊臣政権』吉川弘文館、2023年 ISBN 978-4-642-02980-3 2023年、P149-150.
  5. ^ 戸谷穂高「沼尻合戦」江田郁夫・簗瀬大輔 編『北関東の戦国時代』高志書院、2013年/所収:戸谷『東国の政治秩序と豊臣政権』吉川弘文館、2023年 ISBN 978-4-642-02980-3 2023年、P143-145・148-151.


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沼尻の合戦

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小牧・長久手の戦い」の記事における「沼尻の合戦」の解説

北関東では、5月初旬から8月にかけて、北条氏直率い北条軍と、佐竹義重宇都宮国綱佐野宗綱由良国繁長尾顕長らの間で合戦起きた(沼尻の合戦)。佐竹義重宇都宮国綱秀吉頻繁に連絡取り合い上杉景勝秀吉の命により信濃出兵をし、北条氏牽制している。一方北条氏先年家康との講和発展させ、対秀吉攻守同盟結んでいた形跡があり、北条氏本合戦の直後小牧・長久手の戦いに参陣しようとした動きがあった。

※この「沼尻の合戦」の解説は、「小牧・長久手の戦い」の解説の一部です。
「沼尻の合戦」を含む「小牧・長久手の戦い」の記事については、「小牧・長久手の戦い」の概要を参照ください。

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